ものを知らない自分のような人間が、最もよく使う書物は、どうしても辞書になる。
     
     けれども、普段使いの辞書たちは、紙の書物ではない。
     できるものはすべてデータ化されて、コンピューターや携帯端末に入っている。

     辞書の持つべき検索性と携帯性は、とっくに紙の辞書を凌駕してしまっている。
     紙の事典だと何十巻になる複数の事典と辞典が、検索ソフトを使うと一度に引ける。複数の辞書を引くことが重要なのは、辞書は必ずどこか間違っているものなので※※、引き比べしないと危ないからである。
     全文検索できることも含めて、百科事典は〈複数冊の綴じた本〉のという形態から解放されて、ようやくそのポテンシャルを現実のものにしたと思える。

    ※ 梅棹忠夫は、アフリカ大陸でのフィールドワークに際して、平凡社の世界大百科事典を含めて大きな荷物は先に送っておいたのだが、現地に行ってみると百科事典だけが届いていた(のでそれで切り抜けた、って一体何を?)という珍事を経験している。フィールドワークに紙の何十巻ものを送るというのが、このエピソードを読んだ時には衝撃だったが、今ではどこに行くのにも同行する携帯端末に数種類の百科事典に専門事典などを含む辞書データが検索アプリとともに入っている。

    ※※ このことは複数の辞書を引くようになるとすぐ気付く。例えば人物の生没年を調べると分かる。誰もが知る有名な歴史上の人物でも一致しないことはままある。
     紙の辞書でこれを習慣的に行うのは辞書マニアかよほど知的体力のある人だけだったが、現在では辞書の準備さえしておけば労力は一つの辞書を引くのと変わらない。



     勿論、すべての辞書がデータ化されている訳ではない。
     電子辞書専用機に搭載される辞書がどれも似たり寄ったりなように、ニーズを見込める汎用性の高いものほどデータ化される可能性が高いとすれば、特殊/専門的なものは今でも紙の辞書に当たらねばならない。
     しかし本当に特殊/専門的なものは、そう度々引くわけではない。すぐ側にある必要はそれだけ薄いので、これも座右の書というには当たらない

    ※国会図書館のデジタルコレクションのおかげで図書館に行かないと引けなかった大部の辞書のいくつかが、データ化してコンピュータや携帯端末に入ることになったが、今回は割愛する。以下の記事を参照。

    今すぐ無料で手に入る150の辞書ー国会図書館デジタルコレクションが提供する日本の辞書を分野別に紹介する 読書猿Classic: between / beyond readers 今すぐ無料で手に入る150の辞書ー国会図書館デジタルコレクションが提供する日本の辞書を分野別に紹介する 読書猿Classic: between / beyond readers




     しかし、データ化した汎用の辞書と、特殊な紙の辞書の間にあって、手に届く場所にあって繰り返し手を伸ばす紙の事典が、自分にはある。
     そしてデザインの関係から、これは今のところ紙の辞書であって欲しい書物である。
     
     邦訳は複数の出版社から出ているが、元をたどればDeutscher Taschenbuch Verlag(訳すと「ドイツ文庫出版社」という感じ) によるdtv-Atlasというシリーズの図解事典がそれである。原書は末尾の表にまとめたように、かなり版を重ねているものも多い。
     
     フルカラーで左ページに図解、右ページに本文を、見開きで載せるような基本構成をとっている。
     半分を図解に取られてしまうので、事典としての本文に使える紙面は半減するのだが、にも関わらずかなりの項目を説明する。
     必然的に1項目あたりの文章量はかなり少なくなるのだが、読んで分かるように書くことを断念しておらず、知らない人が読んでもわからない(残念だがよくある)辞書記述のレベルを完全に脱していて、知りたいことだけでなく、知らなかったことに出会える確率が高い。
     そしてあとの半分である図解である。私見というより偏見だが、ドイツの図解は世界一だと思う。写真や写実的イラストをふんだん使う豪華さのかわりに、線数の少ないイラストレーションで理解してもらいたいポイントをすっきり伝えるところが好ましい。

     この図解と本文が相まって理解が促進されるだけでなく、この見開きのおかげで、ぺらぺらページをめくって「ああ、そうだった」と記憶を呼び起こす効果もとても高い。これが考え事している時に、ファーストハンドで(キーボードを叩くより速く)引けるよう手元に置く理由である。
     
     具体例をひとつ挙げてみよう。
     先日「KKK(クー・クラックス・クラン)」という言葉をひさびさに耳にした時のことである。
     手元の『カラー世界史百科』を開き、索引に当たると、401ページと429ページへの参照がある。今、知りたいのは、KKKの登場というより再登場についてである。したがって429ページに進むことになる。
     このページにはアメリカ合衆国の〈ビッグ・ビジネス〉の時代(1919-26)という項目が配置されている。
     このページをざっと眺めると、この時代について、以下の項目を確認できた。
     

    ・農村と都市の対立(アングロ・サクソン系新教徒の農民 vs インテリ・技術者・経済専門家)
    ・KKKの構成員1924年に500万人=黒人・カトリック教徒・インテリ・禁酒法反対者への攻撃(→〈アメリカ出生主義〉と〈白人およびプロテスタント優越主義〉を運動のスローガンとして,〈外国的なもの〉と〈不道徳性〉をその主要な敵とする)
    ・〈北方〉人種優先論により影響を受けた法律(1921,1924)による移民制限
    ・厳しい関税法(1921,1922,1930)
    ・行政活動の収縮・減税で企業支援
    ・大富豪A・メロンの財務長官(二人の大統領)
    ・ワシントン会議(1922)(日本にとっては日英同盟と石井・ランシング協定の廃棄)



     こうして得られる情報は、「KKK(クー・クラックス・クラン)とは何か」に対する答えではなく(それは普通に事典を引けば得られるものである)、「KKK(クー・クラックス・クラン)を知るのに何について調べるべきか」の答え(糸口)である。
     したがって、この〈座右の書〉は、辞書に先立って参照される。
     糸口/切り口が見つかり、検索すべき事項が広がっていくと、データ化された辞書の一括検索の繰り返しが頼りになる。
     


     以下では、dtv-Atlasのうち、邦訳のあるものを紹介しよう。
     

    カラー世界史百科(平凡社)

    カラー世界史百科カラー世界史百科
    ヘルマン・キンダー,ヴェルナー・ヒルゲマン,前沢 伸行

    平凡社
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     1964年にスタートしたdtv-Atlasシリーズで、最初に出版されたdtv-Atlas zur Weltgeschichte。
     原著は全2巻で、英訳(The Penguin atlas of world history.やThe Anchor atlas of world history)も2巻本だが、平凡社版はこれを1冊にまとめ、厚さ3センチある分厚い新書版にした。
     この邦訳登場当時には『史學雜誌』に「一見高校生用の世界史ハンドブックとも見え」るが、「しかしこれは実はドイツで一人前以上の歴史家も愛用しているdtv-Atlas Weltgeschichteの邦訳で、内容はきわめて豊富かつ詳しいのである。」という書評が載ったほど※。先史時代から現代という歴史順、同時代についてはエリアごとに構成された600頁近い本文、60頁で13000項目を列記する索引、図解には500点を越える歴史地図を配する。
     アジア史がやや手薄なのは仕方がないが、邦訳では藤田正典・堀淳二氏が加筆し、地図についても8点を追加している。

    ※坂井 栄八郎(1979)「成瀬治監修『カラー世界史百科』, 平凡社, 一九七八・四刊, B6変, 六二四頁」『史學雜誌』88(3),p.380
    http://ci.nii.ac.jp/naid/110002364583/



    カラー生物百科(平凡社)

    カラー生物百科カラー生物百科


    平凡社
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     dtv-Atlas zur Biologie(1966)の翻訳。
     世界史は歴史順という配列になっていたが、こちらは、生物学とはなにか、その研究方法どうかといった基本的なところから始め、生物学の全領域を解説する教科書のようなつくり。巻末には約5000項目に上る索引があり、こちらで各項目を検索する。
     新書版、527頁。



    カラー天文百科(平凡社)
    カラー天文百科カラー天文百科
    Joachim Herrmann

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     Dtv-Atlas zur Astronomieの翻訳。
     このシリーズに違わぬ見やすさと情報量、網羅性と詳細さ(広くそこそこ深く)で、長くアマチュア天文家に愛されたハンディ事典。天文部の部室には必ずある(べき)と言われた名著。
     このコンパクトにまとまり、知りたいことは(よほど特殊か専門的なことでない限り)大抵載っている、というのが愛された理由であった。
     新書版、341頁。



    カラー 図解音楽事典(白水社)

    カラー 図解音楽事典カラー 図解音楽事典
    ウルリヒ ミヒェルス

    白水社
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     原著dtv-Atlas zur Musikは2巻本で、第1巻が1977年、第2巻が1985に出版。
     白水社の邦訳はこれを1巻にまとめたもの。
     体系編と歴史編で構成され、体系編では音楽を扱う各学問の概説(音楽学、音響学、聴覚生理学、音声生理学、楽器学)、音楽理論、曲種と形式の解説を扱い、歴史編では先史、古代、中世、ルネサンス、バロック、古典派、19世紀、20世紀の順に叙述する。
     人名2000人、事項数5500以上を扱い、図解には譜例、理論の図解、楽器の説明、年表、地図などを配する。索引には、人名索引、題名索引、地名索引、事項索引、欧文索引を備える。
     A5版、665頁。
     


    カラー図解 物理学事典(共立出版)

    カラー図解 物理学事典カラー図解 物理学事典
    Hans Breuer,Rosemarie Breuer,杉原 亮,青野 修,今西 文龍,中村 快三,浜 満

    共立出版
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     dtv-Atlas zur Physik全2巻をまとめて一冊に。原著は1993年初版から版を重ねているが、増補を含む第7刷(2005年)を翻訳。
     力学、熱力学、光学、電磁気学の古典物理を中心に、最後の二つの章で、固体物理学や相対論や量子力学などを扱う構成。
     用語・概念を概説する本文と、グラフや数表に年表、概念の図解、そして様々な装置の簡にして要を得たイラストが理解を助ける。
     付録に古典物理学の重要人物、古典物理学の重要事項、ノーベル物理学賞受賞者。人名索引と事項索引を備える。
     菊版、412頁。
     

    カラー図解 哲学事典(共立出版)

    カラー図解 哲学事典カラー図解 哲学事典
    Peter Kunzmann,Franz-Peter Burkard,Franz Wiedmann,Axel Weiβ,忽那 敬三

    共立出版
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     原著dtv-Atlas zur Philosophieの初版は1991年だが、この書も版を重ねており、邦訳の底本となったのは大増訂がなされた第7版の後の第10版。
     わずかな東洋哲学の言及の後、西洋哲学を古代から現在へ向けて哲学史的な順序で配列。20世紀についてもかなりの紙面を割き、解釈学や構造主義まで扱っている。
     本文では、簡潔だが喚起的な叙述で思想家間の遠い関連をもすくい上げる。たとえばアウグスティヌスの懐疑の克服がデカルトと類似の思考に至る事を指摘し(「私が自分を欺く時、私は存在している」)、モンテーニュの思索に実存哲学の先駆を見出している。
     そして図解では、哲学者たちの活躍した時代と場所を年表と地図で表す他は、数多くの抽象概念の図解化に挑戦し、かなりの成功を収めている。私見では、最もすぐれた哲学の図解化だと思う。これを成し遂げたイラストレーター アレックス・ヴァイスは、イタリアのヴェローナに由緒ある人文学者フェリーチェ・フェリチアーノの名を冠した賞を受けている。
     菊版、272頁。


    カラー図解 数学事典(共立出版)

    カラー図解 数学事典カラー図解 数学事典
    Fritz Reinhardt,Heinrich Soeder,Gerd Falk,浪川 幸彦,成木 勇夫,長岡 昇勇,林 芳樹

    共立出版
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     2巻本の原著dtv-Atlas zur Mathematikを1冊にまとめて翻訳したもの。
     数理論理学から集合論・代数・幾何・解析・応用数学の項目(数理論理学、集合論、関係と構造、数系の構成、代数学、数論、幾何学、解析幾何学、位相空間論、代数的位相幾何学、グラフ理論、実解析学の基礎、微分法、積分法、関数解析学、微分方程式論、微分幾何学、複素関数論、組合せ論、確率論と統計学、線形計画法)を概説し、フルカラーの図と解説文をうまく連動させている。
     菊版、512頁。


    カラー図解 学校数学事典(共立出版)

    カラー図解 学校数学事典カラー図解 学校数学事典
    Fritz Reinhardt,Carsten Reinhardt,Ingo Reinhardt,長岡 昇勇,長岡 由美子

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     dtv-Atlas zur Mathematikの著者の一人Fritz Reinhardtが、自身の子供たちを図版作成者にむかえてつくった、学習者向けの数学事典。
     ドイツの中等教育は複線型で、6 歳〜10 歳の基礎学校(Grundschule)の後、,職業訓練を受ける学校と大学進学の準備をする学校(ギムナジウム)に分かれるが、この書は、ギムナジウムで教える数学の内容、生徒が自習する際に要領よく調べることができるよう図解と解説文でまとめたもの。
     年齢で言うとギムナジウムは日本の小学校高学年から大学初年度に当たるが、数学をどこかであきらめた人たちには、こちらの事典がオススメである。日本の数学の教科書に比べ,公式の意味や証明がかなり詳しく書き込まれており、豊富な図も自分で描いてみる参考になる。
     菊版、272頁。


    ◯おまけ dtv-Atlas シリーズ・リスト

    テーマ巻数著者図解初版年最新版(発行年)
    Weltgeschichte(世界史)2Werner Hilgemann, Hermann Kinder196443. (2015)
    Biologie(生物学)3Hartmut Angermann, Günter VogelInge und István Szász196610. (2002) 10. (2002)
    Chemie(化学)2Hans BreuerRosemarie Breuer1971/19789. (2006)
    Astronomie(天文学)1Joachim HerrmannHarald und Ruth Bukor197315. (2005)
    Baukunst(建築)2Werner MüllerInge und István Szász1974/198116. (2015)
    Mathematik(数学)2Fritz Reinhardt, Heinrich SoederGerd Falk1974/7711. (1998)
    Anatomie(解剖学)3Werner Platzer1975/767. (1997) 7. (1997)
    Atomphysik(原子物理学)1Bernhard Bröcker19766. (1997)
    Musik(音楽)2Ulrich MichelsGunther Vogel1977/198516. (2011)
    Deutsche Sprache(ドイツ語)1Werner König197817. (2011)
    Namenkunde(地名学)1Werner KönigHans-Joachim Paul197817. (2011)
    Physiologie(生理学)1Agamemnon Despopoulos, Stefan SilbernaglWolf-Rüdiger Gay, Barbara Gay19794. (1991)
    Deutsche Literatur(ドイツ文学)1Horst Dieter SchlosserUwe Goede198311. (2010)
    Psychologie(心理学)2Hellmuth BeneschKatharina von Saalfeld19876. (1997)
    Physik(物理学)2Hans BreuerRosemarie Breuer1987/19885. (2005)
    Ökologie(エコロジー)1Dieter Heinrich, Manfred HergtRudolf Fahnert, Rosemarie Fahnert19905. (1998)
    Philosophie(哲学)1Franz-Peter Burkhard, Peter KunzmannAxel Weiß199116. (2015)
    Stadt(都市)1Jürgen HotzanFlorian Ulrich19942. (1997)
    Akupunktur(鍼灸)1Carl-Hermann HempenUlrike Brugger199512. (2014)
    Informatik(情報理論)1Hans BreuerRosemarie Breuer19951997
    Erste Hilfe(応急処置)1Harald Karutz, Manfred von ButtlarJörg Mair1999
    Ernährung(栄養学)1Michael Schwenk, Gaby Hauber-SchwenkJörg Mair2000
    Englische Sprache(英語)1Wolfgang Viereck, Karin Viereck, Heinrich RamischWerner Wildermuth2002
    Keramik und Porzellan(陶磁器)1Sven FrotscherBirgit Frotscher, Sven Frotscher2002
    Schulmathematik(学校数学)1Fritz ReinhardtCarsten Reinhardt, Ingo Reinhardt2002
    Recht(法律)2Eric HilgendorfSusanne Jünger2003/081. (2008)
    Bibel(聖書)1Annemarie OhlerTom Menzel20045. (2011)
    Ethnologie(民族学)1Dieter HallerBernd Rodekohr20052. (2010)
    Sexualität(セクシャリティ)1Erwin J. HaeberleJörg Mair2005
    Erde: Physische Geographie(地球:自然地理学)1Dieter Heinrich, Manfred HergtRudolf Fahnert2006
    Pädagogik(教育学)1Franz-Peter BurkhardAxel Weiß20081. (2008)
    Politik(政治学)1Franz Kohout, Bernd Mayerhofer, Andreas ViereckeWerner Wildermuth20103. (2013)


     
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     あまり無いことだけど、少し前に「読書猿というブログをやっている」と自己紹介することがあった。
     続いて、このブログがどういうものなのか、手短に説明することになった。
     
     正直、このブログのスタイルや取り扱っている内容は、目指してこうなったものではない。
     したくないことやできないこと、ああはなりたくないなと思ったこと等を取り除いていって残ったのがこんなもの、という消極的な成り立ちによるので、軸のようなものがない。つまり一言でこうだというのが難しい。
     それで結局「とてもささやかな灌漑工事を、スコップと手作業でやっているようなもの」とよく分からないことを言ってお茶を濁した。
     
     「灌漑工事」というイメージは、子供の頃、雨が降るとやっていた、土の上にできた水たまりに取り付いて、手と指で溝を掘り、溝と溝をつないで、自分が思う場所へ泥水を導いていく遊びを思い出して出てきたもので、個人的過ぎて、あまり伝わったようには思えなかった。
     
     しかし改めて言葉にしてみると、このブログでやっていることは、その〈灌漑工事〉だという気もする。どこかに何かをつなぐための水路を掘るみたいなこと。
     
     
     このブログに書いてあるようなことは、正直なところ、図書館とインターネットが使える環境にあれば、誰にでも書ける程度のものである。
     では、書く意味なんて無いと思っているかといえば、そうでもない。
     誰でも使える時間は有限であり、一つのブログ記事を書くのに費やした時間の1/1000でも、記事を読んでいる人の時間を節約できるのであれば、少しくらいと意味はあると思う。
     自分も、そうして誰かが費やしてくれた時間によって助けられてきたのだから、それくらいはしても罰は当たらないはずである。
     
     そして、とりわけ自分を助けてくれたものに、図書館とインターネットがある。
     この二つは、いろんな人の時間と努力と知的営為を、自分に繋ぎ、届けてくれた。
     
     私のように、本を読むのも考えるのも遅い人間には本当にありがたい話で、そこから得た恩恵を、ほんの少しだけ返しているつもりなのである。
     どこに返せばいいか本当はよく分からないのだが、だから溝を掘ってどこかにつなげる〈灌漑工事〉ですらないのだが、それでもネット上に放流しておけば、いつか必要な人のところに届くかもしれない。可能性はとても低いが多分ゼロではないだろう。
     

    「知的生命はなぜ我々にメッセージを送ってこないんでしょう?」
    「その悩みは、そのまま思春期の悩みだと思わない?」リンダは云った。「遠くから女の子を見つめていたことはない? ただ見つめているだけなのに、コミュニケーションしているつもりになってしまう。そして、むこうはこちらの名前すら知らないのに、何故思いが通じないのだろうと思ってしまう。ぼくは彼女が何時のバスに乗るか、どの教科が得意で、友達とどこで昼食を食べるか知っているのに。ぼくは彼女の家までの道順をそらで云えるのに。ぼくは彼女の好物を知っていて、絵が上手なことを知っていて、合唱コンクールの何列目の何番にいたかまで知っているのに、なんであの娘はぼくのことを知らないのだろう----とね」
     「なぜコンタクトしてこないのか? 我々がコンタクトをしようとしたかどうかにその答えはあるでしょう。オズマ計画のように、教室の窓からグラウンドの彼女を見つめていたことはあるわ。でも彼女に話しかけたことはある? 電話はおろか、手紙だって書いたことがない」
    「でもボイジャーは?」
    「あの気取った判じ物? あんなもの、ヒマラヤの山頂にいる友人に届けと念じて、ミシシッピに瓶を流すようなものよ」
    (水見稜『マインド・イーター』「迷宮」)




     引用した小説は、ほとんど小説を読めなかった頃に繰り返し読んだ大好きなもの。


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     何故だかこんな時期に新入生向けのブックリストのリクエストがあったので作ってみた。
     前半は助走と底上げのために大学生なら必須の思考技術・読書技術・表現技術について、後半は自分を広げる意味で自然・人文・社会の学問領域から、それぞれ3冊ずつ選ぶことにした。
     はじめてでも楽しめるビギナー向けの選書を心がけたが、各カテゴリーの内では易しい順に3冊を並べてある。
     


    1.思考技術

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     このブログでは、次の『知的複眼思考法』を読み書きを含めた思考リテラシー本の最初の一冊として推薦してきたけれど、難しすぎるという声がいくつか届いていた。
     この手前に置くことができるものを探していたけれど、小学生でも使えるこの本を挙げることにした。
     (子どもなら普通にやりそうな)話し方/書き方からはじめて、それをロジカルな言葉に作り変えていくワークブックなのだが、これ一冊で、論理的な考え方・物語の組み立て方・説明のやり方・描写のやり方・報告のしかた・視点を変えて考える練習・絵の分析が学べる。
     読んだり書いたり考えたり説明したりが苦手過ぎて苦しんでいる人に効く。馬鹿にせずにやり切ること。


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     このブログでは再三取り上げているけれど、ここでも最低限の紹介はしておきたい。
     「自分で考えろ」とお題目を唱えながら自分の偏見を垂れ流す言い訳にしか使っていない本は多いけれど、「自分の頭で考える」という作業をひとつひとつ丁寧に説明し、読者が自分で実行できるようにしてくれる本は、ほとんどない。
     思い込むのは一瞬で済むし、日常に沸き起こる出来事は即座に判断することを要求する。こうした素早い思考は、大抵はそうひどく間違う訳ではないからこそ維持されてきたのだが、一方でその弱点は知られており、我々を詐術に落としこんだり偏見に押しやったりするものでもある。
     「自分の頭で考える」ことは、そうした自然な頭の働きに流されず、省み、うまく付き合いながら、思考を進めていくことなのだ。
     「自分の頭で考える」は、手も目も頭脳も(時には足も)全部使って一歩ずつ進める、面倒ではあるが誰にもできる作業である。だからこそ、時代も地域も異なる人たちの思考と、時空を超えて我々を結びつけるのである。自分で考えることでできるようになればなるだけ、他の人の思考を理解することができるようになる。
     
     
     

    哲学の道具箱哲学の道具箱
    ジュリアン・バッジーニ,ピーター・フォスル,廣瀬 覚,長滝 祥司

    共立出版
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     この本も、以前に紹介済であるが、取り上げたい。
     その名の通り「道具箱」を企図した書物だが、紹介されるツールたちは、元々は哲学を出自とするが、今では多くの分野で知的営為の共有財産となっているものたちである。
     哲学者たちは、定義の明確さや論証の堅実さに意を用いてきたけれど、これらはすべての知的作業に要求されることだし、また日常的な思考や直感がつまずき窮地に陥るような状況や制約は、哲学の主戦場の一つだったから、そこから抜け出したり切り抜けたりするのに利用できる武器を調達することもできる。
     欠点としては、哲学に由来するために「正しく考えること」を主眼としていて、「(正しくないかも知れないが)新しい/効果的な考えを生み出すこと」までは、この本はカバーしていない。この本だけでなく、実のところ、そうした書物が欠けている(それでフレームワークものやアイデア本なんかがその空隙を埋めている)。

     今、ここのところを埋める、もう少しマシな本を書いているので、できたらこのリストに追加することにしたい。
     


    2.読書技術

    本を読む本 (講談社学術文庫)本を読む本 (講談社学術文庫)
    J・モーティマー・アドラー,V・チャールズ・ドーレン,外山 滋比古,槇 未知子

    講談社
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     大学生は読まなければ、どうしようもない。それも、誰かに教えられた一冊を追いかける〈点の読書〉では仕方がない。自分で文献を見つけ、文献の間に結ばれた参照をたどり、手に入れたいくつもの文献を突き合わせることができて、ようやくスタートラインに立てる。
     この本は、そんな読書についての基本的な課題を明示し、手ほどきしてくれる基本書。


    図書館に訊け! (ちくま新書)図書館に訊け! (ちくま新書)
    井上 真琴

    筑摩書房
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     いくつもの文献を突き合わせる読み方を実行するためには、どうしても図書館が要る。
     つまり大学(大学生)には、図書館は必須である。
     この本は、このブログではもはや定番だけど、現役の大学図書館員が書いた大学図書館の取扱説明書である。
     図書館に何がどこまでできるか、そのためには何をどうすればいいか、具体的なノウハウをいくつも提供してくれる。


    論文作法─調査・研究・執筆の技術と手順─ (教養諸学シリーズ)論文作法─調査・研究・執筆の技術と手順─ (教養諸学シリーズ)
    ウンベルト エーコ,谷口 勇

    而立書房
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     タイトルからして論文の書き方の本なのだが、エーコは徹底して具体的にその土台作りからやってみせる。どの土台作りが、図書館使いには実に参考になる。
     具体的な著者名や書名、それどころか図書館名まで出して、どこで何を探し、何を見つけ、どこをどのように読み、どんなメモをつくるのか、いちいち詳細に実況中継してくれる。
     これを読み、その手技を自分でもたどれば、もはや図書館が無料貸本屋であるなどという勘違いは払拭されるだろう。
     図書館は、自ら考える人にとって、知の原石を砕き溶かして精製する工房なのだ。
      


    3.表現技術

    「分かりやすい表現」の技術―意図を正しく伝えるための16のルール (ブルーバックス)「分かりやすい表現」の技術―意図を正しく伝えるための16のルール (ブルーバックス)
    藤沢 晃治

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     大学にいるあなたは、生まれ育った街を離れ身内でも友人でもない人の間で暮らしていく、旅の途上にいる。
     身内でも友人でもない人に、何かを説明し理解してもらわなくてはならない場面に、いくらも遭遇するだろう。
     説明し理解を得て、自らの場所をつくり、道を切り開かなくてはならない。
     大学でも、身内でも友人でもない人に説明しなければならないのは同様だが、少なくとも理解させろと求めてはくれる。説明の場を設けてくれる。それは口頭発表であったり、レポートや論文のような文章によるものだったりする。
     言葉を話すことは、人の仕様かもしれないが、分かりやすく説明することは、そうではない。トレーニングしなければ、できなくて当然だ。
     この書は、説明し理解を得るための技術の入門書であり、いつまでも使えるチェックリストである。なるべく早い時期に手元に置くことをお勧めする。


    これから論文を書く若者のために 究極の大改訂版これから論文を書く若者のために 究極の大改訂版
    酒井 聡樹

    共立出版
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     大学で頻繁に求められるのは書くことだ。
     あらゆる知的営為は、最終的には書き言葉で表現することを要求される。
     どれだけ読もうと考えようと、どれだけ素晴らしい発見をなそうと発明をしようと、書かなければ存在しないのと同じである。
     何度も改訂を重ねるこの本は、まだ一度も書いたことがない人が、論文を書けるようになるために必要なほとんどすべてを盛り込んだマニュアル兼トレーニング本である。
     手に入れるか否かで、その後の大学生活がまったく別物になることを保証する。


    できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか (KS科学一般書)できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか (KS科学一般書)
    ポール.J・シルヴィア,高橋 さきの

    講談社
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     『これから論文を書く若者のために』で最初の論文は書ける。
     しかし次がある。書き続けることだ。
     短期間には書け上げることができない長文や、次の論文を書くためには、続けるしかない。
     そしてそれが、それだけが、書くことの技術を高め、もっとましなものを書くために必要なすべてである。
     では、どうすれば書き続けることができるのか。書くことを躊躇させ、先送りさせることどもを踏み越えていくことができるのか。
     この書は心理学者が書き続けるとそれを邪魔するものに挑み、そのスキルを研究者向けにまとめたものである。時間を確保し習慣にすること、インスピレーションや技術の不足を言い訳にしないこと、やったことを記録し、目標を管理すること。
     すなわち、この場で片付けることのできない、少し大きめな仕事を完成させるために必要なスキルとノウハウがこの書には網羅されている。





    4.自然の知

    目で見る物理―力・運動・光・色・原子・質量…目で見る物理―力・運動・光・色・原子・質量…
    リチャード ハモンド,Richard Hammond,鈴木 将

    さえら書房
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    目で見るシリーズ(さえら書房)

     王立協会科学図書賞を受賞したCan You Feel the Force?を含む、DK(Dorling Kindersley)社の科学図解絵本Big Questionsシリーズの翻訳シリーズ。
     Can You Feel the Force?は『目で見る物理』という邦題で翻訳されているが、他に『目で見る化学―111種の元素をさぐる』『目で見る数学―美しい数・形の世界』『続・目で見る数学―数と単位で広がる世界』『目で見る進化―ダーウィンからDNAまで』『目で見る栄養―食べ物が作るわたしたちの体』などがラインナップされている。
     図解のDKらしく、実に工夫されたフルカラーの図解がこれでもかというくらいに繰り出されて、読む者の理解をぐいぐい進めていく。大人が読んでも楽しめるだけでなく、専門に進む人でも〈分かってもらえる説明の仕方〉を学ぶこともできる。
     もともと9〜12歳向けなので、原書の英文の難易度・分量ともに控えめ。大学生なら原書で読むのもいい。値段も安いし。


    アイザック・アシモフの科学と発見の年表アイザック・アシモフの科学と発見の年表
    アイザック アシモフ,Isaac Asimov,小山 慶太,輪湖 博

    丸善
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     科学の様々な分野をカバーして、大部だが個々の項目はコンパクトで読みやすい一冊本にナイジェル・コールダー『オックスフォード・サイエンス・ガイド』があるが、手元に置くには少々値がはる(図書館へ行こう)。
     次善の策として、科学・技術の歴史を縦断する、アシモフの読める科学年表がある。
     化学の学位とボストン大学の終身在職権を持つアシモフは、大学院時代から初期の代表作であるロボット工学三原則物やファウンデーションシリーズを発表し、化学者とSF作家の二足のわらじを続けていたが、ボストン大学での教科書執筆をきっかけに一般向けの科学ノンフィクションを書き始めた。1958年にボストン大学を辞して専業作家となった後は、ノンフィクションの執筆に集中し、科学解説者として広く知られるようになっていく。
     原著Asimov's Chronology of Science and Discoveryは、晩年にあたる1989年に発表されたアシモフの科学ノンフィクションの集大成。


    物理の散歩道 新装版物理の散歩道 新装版
    ロゲルギスト

    岩波書店
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    新 物理の散歩道〈第1集〉 (ちくま学芸文庫)新 物理の散歩道〈第1集〉 (ちくま学芸文庫)
    ロゲルギスト

    筑摩書房
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    ロゲルギスト『物理の散歩道』『新 物理の散歩道』

     選書は概ね趣味や好みでやるものだが、これは義務(というか大きなお世話)のようなものを感じて選んだ。
     10年ほど前の話だが、自然科学を研究する学部に進んだ若い友人から、同級生にロゲルギストを知る者がいないと聞いたことがある。
     もったいない、いや、うらやましい。
     この辺りの科学随筆は、10代の頃こじらせるように読み込んで、科学の誘惑にどっぷりハマるものだと思うのだが、いくらか学んでから読んでみるのも悪くない。
     素材は我々が日常目にしていたり出会ったりする物事たち、それを物理のメガネで見たら何が見えるか気付けるか。
     何より、半世紀以上前に、この水準の科学随筆を書く人たちがいたということは、我々に勇気を与えてくれる。


    5.人文の知

    美学への招待 (中公新書)美学への招待 (中公新書)
    佐々木 健一

    中央公論新社
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     趣味だとか感覚だとか感性という言葉で流されてしまう物事について、立ち止まってあれこれ考える学問がある。
     というと、理屈っぽくすぎて敬遠したくなるかもしれないが、いやいや、これが面白い上に、いろんなところに効いてくるのだ。
     そういう美学の快楽と効用を知ることができて読みやすい本といえば、佐々木 健一の著作を何か一つ挙げたい。
     少し考えて、中公新書にある、そのものズバリのタイトルを持つこの本を選ぶことにした。


    ナボコフの文学講義 上 (河出文庫)ナボコフの文学講義 上 (河出文庫)
    ウラジーミル ナボコフ,野島 秀勝

    河出書房新社
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    ナボコフのロシア文学講義 上 (河出文庫)ナボコフのロシア文学講義 上 (河出文庫)
    ウラジーミル・ナボコフ,小笠原 豊樹

    河出書房新社
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     このブログではもはや定番だが、面白さでは随一であり、楽しんで読み進めるうちに、読み手の言語技術を2段階くらい高めることは間違いない(この本がキツい人は、読書技術に挙げた本を先にどうぞ)。
     ナボコフ自身、特筆すべき作家なのだが、誰もが知るような著名な小説作品をナボコフとともに読み進めるうちに、読む行為自体にひりひりするような興奮と快楽があることが分かる。




    鎖国と開国 (岩波現代文庫)鎖国と開国 (岩波現代文庫)
    山口 啓二

    岩波書店
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     何か一冊、本物の歴史研究者が書いた本を挙げたいと思った。
     初心者向けなら、我々の社会の陸続きの過去を扱う日本史で、なるべく近い時代を扱い、高い水準を維持しつつ入門書として読めるもの。もちろん面白くなくてはならない。
     となると、江戸時代を扱ったこの書が真っ先に思い浮かぶ。
     このわずかなページ数に、話し言葉という当たりは柔らかいが冗長な文体を採用して、なおこの情報量と密度。そして驚きと納得の連続。


    6.社会の知

    その科学が成功を決める (文春文庫)その科学が成功を決める (文春文庫)
    リチャード ワイズマン,Richard Wiseman,木村 博江

    文藝春秋
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     自己啓発本などに出てくるあれこれを実験で検証した心理学研究をたくさん紹介する本。心理学(さらにいうと学問)が何の役に立つのか、という人におすすめする。
     但し、ノウハウ系一般書の体裁をとるせいか、説明はいろいろ台無しなところも。興味を持つトピックについては、文献注にある参考文献にあたることを勧める。


    脱常識の社会学 第二版――社会の読み方入門 (岩波現代文庫)脱常識の社会学 第二版――社会の読み方入門 (岩波現代文庫)
    ランドル・コリンズ,井上 俊,磯部 卓三

    岩波書店
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     アタリマエのことを無理に難しく語っているだけ、という社会学についての悪評に対して、正面切って対抗してみせる入門書。
     つまり当たり前じゃない(脱常識)なことを分かりやすく説明してみせよう、というスタンス。
     フリーライダーと連帯、神と宗教、権力、犯罪、愛と家族、と取り上げるトピックは実に王道路線だが、トピックを打ち返す説明の方は、ある意味スキャンダラスで、良識ある人達の心波立たせるもの。繰り出す事例も興味深くて、社会学のヤバさと楽しさを濃縮したような小さな一冊。


    資本主義が嫌いな人のための経済学資本主義が嫌いな人のための経済学
    ジョセフ・ヒース,栗原 百代

    エヌティティ出版
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     哲学者が書いた、少し出自の変わった経済学入門。
     内容は、第1部で、「インセンティブは重要」「国際競争力が重要」「自己責任」「増税が経済活力を削ぐ」などと唱えて既成権力の走狗となってる右派(保守、リバタリアン)をボコボコに叩きのめし、第2部で「フェア・トレード」「同一職種・同一賃金」「平等がいちばん重要」と主張して善意の人の時間と労力を浪費してる左派(リベラル、ラディカルズ)をコテンパンに論破する。
     俎上に載せられるのは、自分の足を撃ってることも気づかない右派や、理想をこじらせて敗北の言い訳ばかりしている左派ばかりではない。政治家や経済評論家や社会運動家なんかが口にして、それなりに広まってしまう社会や経済の見方は、〈素朴経済学〉ともいうべき我々の臆見に根ざしている。
     この書の著者は、そこを撃つ。
     経済学者には、確かに(クルーグマンがリベラルに見えるくらいに)アレな人も多いけれど、もっといい世界を望むなら、みんなが好む〈簡単な解決〉がどれほど不愉快な結果をもたらすかについて、過去何世代もの間蓄積されてきた知的努力を無視すべきではない。経済学は、その知的努力の重要な一つなのだ。
     つまりこの書は、経済学が嫌いな人のための経済学なのである。著者は哲学者、経済学を擁護するつもりはなくて、クールな距離感を持って、その蓄積を我々に示してくれる。