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     この記事の元ネタは、仮想大学(略称チャル大)の西洋史学科の4年間で体験すべき知的トレーニングをコンパクトに話し言葉でまとめた次の本である。
     
     
    私もできる西洋史研究―仮想(バーチャル)大学に学ぶ (大阪市立大学人文選書)私もできる西洋史研究―仮想(バーチャル)大学に学ぶ (大阪市立大学人文選書)
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     バーチャル井上先生は、入学式の祝辞から、図書館ガイダンス、世界史の入門講義とそのノートの取り方、史料講読(自分宛に書かれたものでない故に難しいテキストをいかに読むか)、外国語講読(なんちゃってぽいが実は着実なドイツ語読みのトレーニング)、特殊講義(から卒論ライターが盗むとるべきものは何か)、卒論指導(これがまたすばらしい;一人ひとりに院生をあてがい、着実に進む人にはテーマごとに学外の専門研究者を紹介し、踏み迷う人にはマンツーマンでブレストする《黒板指導》!)、さらには卒業式の祝辞、さらには送別会の挨拶まで一人でこなす、八面六臂の活躍で、知的営為のBIOSにあたる部分をとても丁寧に何重にも叩き込んでくれる。

     とても軽いタッチで書かれていて、しかも200ページほどの薄さで、これだけの内容を、すべてに具体例をつけた上で分かりやすく書き切っている様は、何かの間違いじゃないかと思うほど(配布資料を公式サイトhttp://www.izumipb.co.jp/izumi/virtual-u.htmlにupすることで本文の分量を減らしていることもあるが)。

     ちなみに、いい加減そうなへたれキャラに見えてやること抜けがないバーチャル井上先生の〈中の人〉は、ビザンツ研究で有名な井上浩一氏である。



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     ただ自分のレベルの底上げも含めて、卒論を書くにはたっぷり4年間かかることが身にしみて分かるので、たった今卒論に取り組んでいる人には、残酷すぎて推奨できない。
     
     しかし、まだ取り返しのつく人や、もう卒論をかかなくてもいい人には、強くお勧めできる。
     
     
     なぜお勧めかを説明するために、取り上げられているトピックすべてに触れると、ただでさえ長いと悪態つかれるこのブログでも最長の記事になってしまったので、世界史専攻でなくても、人文系でなくても、ただ情報を得るだけの読書から先に進みたい人なら誰にもお勧めできるものをひとつだけ取り上げて、以下の文を書いた。

     自分レベルに合わせて/自分向けに書かれた〈舗装されたテキスト=入門書〉〈屋根付きトラックをぐるぐる回る読書〉に飽きたらず、荒れ果てた〈オフロードのテキスト〉を読みこなしていくために必要なスキルを身につけるトレーニングである。

     仮想大学では2年生配当になっている、はじめて史料を読む人のための講読の授業を元だが、自分向けに書かれていない、世界のほとんどあらゆるテキストを読みこなす力を身につける3つのステップについて。
     




     さて、いわゆる古典が読みづらいのは、あなたのために書かれたものではないからだ。
     
     プラトンはあなたのことなど何も知らない。
     デカルトはあなたを読者として想定していない。
     古典を読むことは、あなた宛でない手紙を盗み見るようなものだ。
     彼らの書いたものは、あなたの知らないことを前提とし、あなたが共有しない文脈(コンテクスト)に基づいている。

     だから読みにくい。
     
     しかし古典を読むことで得られるご利益もまた、同じところに存する。
     

     あなたのために(ボキャブラリーを調整し、あなたが知らなそうなことはできるかぎり説明し、込み入った話を噛み砕いて)書かれたものは、うまくいけば、あなたを面白がらせ、時には知らなかったことを教えてくれもする。
     だが、それだけだ。
     あなたのために書かれたものは、滋養になる場合であっても、あなたを太らせてはくれるが鍛えてはくれない。
     
     
     自分のために書かれた訳ではないものを読むとはどういうことか?
     取り付くところが見えない絶壁を、欠落や破綻を補完しつつ、むしろ手がかりにしてよじ登ること。
     相手を引き寄せるためにかけたロープをたぐりながら、自身をより高く引き上げること。
     そして最後には、書き手すら気付かなかった宝を掘り出すこと。
     
     
     しかし掛け声だけではむなしい。
     
     以下に、自分のために書かれたものではないものを読む手続きを記す。
     歴史を学ぶ人たちが、はじめて向かう史料と行うトレーニングに範をとっている。
     
     史料読みに比べれば、古典読みなんて屁のようなものだ。
     古典は、あなた向けでなくとも、これまでに何人もの者が読んできた読み物で、轍のように読み跡が残っている。
     史料の多くは、そもそも読み物ですらない。
     史料の場合、「盗み見る」というのは比喩でもなんでもない。
     その多くは、誰かが誰かに宛てた文書や、公開を前提しない日記やメモのようなただ当事者のための記録だったりする。元々は第3者が見ることなど想定していないものばかりだ。
     あなたに何かを伝えようとするテキストとは正反対のものであるからこそ、それを読むトレーニングは、あなたとあなたの読書のレベルを引き上げる。
     もはや読めないものなどない、という高みに向かって。

     
     
    1 通読

     1巡目は通読。
     Cover to cover. 1冊を最初から最後まで読み通すこと。

     複数人が参加する講読では、テキスト全体を参加者に割り振り、それぞれが担当する部分の要約レジュメをつくってを発表し、質疑することで行われる。
     ここで重要なのは、他人に報告するためには、少なくとも自分の担当部分だけでも、自分自身で納得できる程度には理解しておかなくてはならないことである。
     
     自分ひとりでやる場合にも、何を読み取ったかを書き残すとよい。
     何を読み取ったかをアウトプットしようとすることで、テキストの内容が読み手の中に染み込んでいく。
     
     
     誰かに読まそうとして書かれた訳ではない場合、全体としての一貫性や整合性をはかる努力は行われていないことが多い。
     むしろ、だからこそ、書き手の意向の向こうにあるものをすくい取る可能性が生まれる。
     
     だが、そうした非一貫性や不整合性は、読み解く上では困難を意味する。
     いくつもあり得る解釈の中から、どれを採用するか、それを採用することで、外の部分の解釈と齟齬を来たさないかといったことの検討を繰り返し、それぞれの部分の、互いに関連し合う解釈が、できるかぎり整合的になるよう、試行錯誤が必要になる。

     最終的に採用しなかったボツ解釈を含めて、この試行錯誤の経験は、あなた以外の解釈者のテキストを扱う際の重要な基盤となる。
     あなたが行き着いたのとは違う解釈を理解するには、テキストが何を語り表しているかだけでなく、どのように理解/誤解し得るか、つまりテキストが何を語り表し得るか/そこから何を読み出し得るかを知る必要がある。さまざまな解釈の間を迷う経験が、どれほど豊かな理解の基盤となるかは想像に難くない。
     


    2 摘読

     2巡目は、摘出する読み。
     
     複数人が参加する講読では、各自がテーマを定め、そのテーマに関する箇所をテキスト全体から探し出し、拾い上げて、まとめていく。
     
     目次や索引が示す箇所以外からも、関心に適うものを拾い上げるためには、1巡目で要約を作りつつ(講読では他人がつくった要約を検討した経験も加えて)、最初から最後まで読み通した経験が頼りとなる。
     通読は、テキストを能動的かつ発見的に読むための下ごしらえであった。
     
     テーマを抱くことで、1巡目には見逃した一節や一句が目にとまるようになる。
     おそらく書き手の意図・意向においては大して重要でなかった部分、ついでに書き留めただけの短いフレーズすらも、自分が抱く疑問や関心には極めて重要なものとなるかもしれない。
     またテキストの異なる箇所から得られた記述は、同じテーマについての異なる(時に相矛盾する)見解を表しているかもしれない。これらはひとつのテーマを抱き、一つの観点からテキスト全体を眺望しようとするからこそ発見できる齟齬であり矛盾である。
     



    3 照読

     3巡目は、照らし合わせる読み。
     
     複数人が参加する講読では、各自がテーマを定め、そのテーマに関する箇所をテキスト内と外から拾い上げ、異なるテキストを照らし合わせ、自分自身の解釈を構築して発表する。

     我々はあるテキストを読み解くために、そのテキストの内に書かれるものだけでなく、その外にあるもの、たとえば先人の読解を記したテキストをも、手がかりとすることができる。
     テキストの内、その異なる箇所に書かれた記述を拾い上げ、突き合わせることは摘読の中でも行われた。
     照読では、突き合せられるのは、ひとつのテキストの内に限定されない。
     
     まず別のテキストがある。
     別のテキストには、いまターゲットにしているテキストに先んじて存在したものもあれば、その後に書かれたものもある。
     前者にはたとえばターゲットにしているテキストの書き手が参照したものがあり、後者にはたとえば、ターゲットにしているテキストについて後代の者によって書かれた注釈書や研究書がある。先行する読解者たちのすべてではないが、自らが何を根拠にどのように読み解いたかを注釈書や研究書として記し残している。
     照読は、そうした読解の先輩たちと共に読み解いていくことでもある。
     
     また直接には参照することもされることもなかったテキストも利用可能かもしれない。
     たとえばある時代の法律を記した文書は、その時代に書かれた詩文と参照関係を持たなくとも、その時代の社会的状況を理解する手がかりになるかもしれない。その手がかりは、間接的に詩文の暗黙裡に前提としている社会的文脈をいくらか明らかにするかもしれず、そうなれば我々の詩文についての解釈に役立つ。

     ここまで来れば、突き合せるべきもの、照らし合わせるべきものは、書かれたもの以外にも広がっていることに気付く。
     可能性としてはおよそ限りないことになるが、有限な時間と能力しか持たない我々は、選ばなくてはならない。
     何を照らし合わせるべきかは、原理的には、読み手が何を明らかにしようとするか、つまりいかなる問いを発するかによって決まる。
     能力が乏しく視野が狭いうちは、問いがぼんやりと広いものであっても困らないが、知識が増えていくと、問いを狭く鋭く絞り込まないと、多すぎる可能性に途方に暮れることになる。

     史料の多くは、誰かが誰かに宛てた文書や、公開を前提しない日記やメモのようなただ当事者のための記録である、と先に言った。
     それらのテキストは当然のことながら、極めて当事者中心的に書かれている。
     書き手を中心に世界が回るがごとく書かれた〈天動説的〉なテキストに、他のテキストその他を突き合わせ照らし合わせるのは、その当事者も回る天体のひとつであるような〈地動説的〉な認識像を描くがためである。



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     私淑とは、時空を隔てて、または時空を超えて、師に向かい合うことである。

     私淑という言葉は、その対義語である親炙とともに、『孟子』に登場する。
     思想家 孟子が寄って立つところであり、彼の「方法」そのものと言っていい。

     孔子が没したのが紀元前470年。
     孟子の生年は不詳だが、紀元前370年頃と推測される。
     二人の間には100年ほどの時間の隔たりがある。
     
     孟子は孔子の弟子ではない。
     孔子の教えを直接受けることは、もはやかなわない。
     では、孟子にとって孔子とは何か?
     つながりがあるとすれば、彼らは何によって、どのように「つながって」いるのか?

     孟子は、孔子の弟子でないばかりか、「公式」の後継者ですらない。
     ただ孔子の孫弟子たちから、孔子の言行を拾い集め、孟子なりにつなぎ合わせただけだとも言える。
     だが、ここから、何千年もの間、東アジアに痕跡(それと傷跡)を残した儒教という巨大な流れが始まる。
     親炙によることなくとも、自らが会ったこともない孔子に教導され得ることを示すことで、子弟という直接的関係を離れ、人の生の及ぶ丈(たけ)を超えて、教えを受ける/教えが広がる可能性が開けた。
     この可能性がなければ、孔子の教えが「儒教」となることはなかっただろう。



     今日、我々は、およそあらゆる時代に師を求め、私淑することができる。
     極端なことを言えば、実在しなかった人物ですらも、師にできる。
     例えば、ハリ・セルダン(Hari Seldon)に私淑することを夢見なかった社会科学者はいないだろう(THE HISTORY OF ECONOMIC THOUGHT WEBSITEの日本語版「経済思想の歴史」http://cruel.org/econthought/ には、ちゃんと立項されている)。

     
     私淑は、ただその人を師と思い定めれば、今ここから始めることができるが、何から手をつけていいか分からない場合は、伝記(バイオグラフィ)と文献リスト(ビブリオグラフィ)を入手するところから取りかかろう。

     全集や著作集がある場合は、それを手に入れるのが手っ取り早い。
     付録の巻や別巻に、年譜やその人物についての研究を案内したものがある(場合がある)。

     私淑のツールとしては、大まかに言って下記のようなものがある。

    人物について作品(について)
    本人が書いた自伝作品
    全集、著作集
    (書誌)
    他の人が書いた伝記、作家論
    (研究書誌)
    作品論
    (研究書誌)


     著書目録(本人が書いたもののリスト)と研究書誌/参考文献目録(その人について他の人が書いたもののリスト)を合わせた便利なものもある。
     例えば日外アソシエーツの『人物書誌大系』シリーズなどがそれで、中でも出色の出来とされる

    寺田寅彦―人物書誌大系 36寺田寅彦―人物書誌大系 36
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    大森 一彦

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    を例にとりあげると、
    1904年から2005年前半までに発表された寅彦に関する文献(追悼記事、回想文、評論、研究など)1,793点が年代順に収録され、それぞれに要旨または解説がつけられている、そのうち主要文献は再録され、詳しい解題がつけられている。附録として略年譜、刊行年月順の寅彦の著書目録、寅彦全集(岩波書店)に収録されていない文献については、別にまとめて再録されている。


     近現代日本の著名な著作家については、神奈川県立図書館が、人物紹介と著作集、参考文献等をまとめた『グレート・ワークスの世界』というものを刊行している。
     これのウェブ版http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/denshi/g_works/g_works.htmが公開されていて、参考になる。


     さて、全集や著書目録、伝記や自伝、研究書誌などが手に入ったら(一度にすべてを揃えることはない)、あるいはどこにあるか(例えば行きつけの図書館のどの棚にあるか)が判明したら、年譜の自作に取りかかろう。
     これまでに手にしたものの中に、出来合いの年譜があるかもしれないが、自分の手で作ることをお勧めする。
     生年と没年、大きな場所の移動のあった年などを、フレーム代わりに最初に入力して、次に主要作品を発表年に従って挿入していく。
     複数の伝記、自伝、年譜から抜き出して、さらに書き加えていく。
     作品を順に読んで行くにせよ、伝記で人生をタイムラインに沿って追い掛けるにせよ、このお手製の(常に作りかけの)年譜が橋頭堡の役割を担うだろう。
     もちろん読み進める中で、さらに年譜に手を加えていく。
     

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     独学者も、そうでない人も、ひとり、あるいは(できれば)ふたり、これぞという著作者を見つけ、私淑することをお勧めする。
     これは現実に師匠がいない場合は無論のこと、いる場合でも、だ。

     私淑するには、全集を通読するのが、結局のところ、近道だ。
     その人の、生と知を丸ごと受けとめること、その高みと限界を知ることは、挑む者を大きく変える。
     人は、ここにおいて、大きく知の世界へ踏み切る。
     

     ひとりの著作者について、その人が書き残したもの「すべて」読むことは、人文学(ヒューマニティーズ)のアルファでありオメガである。

     これは確かに「入り口」「第一歩」に過ぎないが、一方でおよそ読むことに関するスキルのすべてを投下して、当たらなくてはならない仕事である。
     
     全集は、その著作者が書き残したものを、ただ単に集めて何巻かにまとめただけのものではない。
     多くの場合、編集時点での、著作者に関する研究成果の集大成でもある。
     全集につけられた注釈は、その時までの研究の成果が反映しており、まずはおさえておかなければならない事項が触れられている。そして、自分が注をつける際にも手本となる。
     全集の付録には、著作者の略年譜がまとめられる事が多い。
     もうひとつ、多くの場合、索引がつけられるところも重要だ。
     
     著作者は、生きている限り、自分の著作を何度となく書きかえることがある。
     通常、雑誌などに掲載された初出版と、のちに単行本などに載せられた版とは異同があることが少なくない。
     著作者も人間だ。
     誤る事もあれば、歳月を積む間に変化したり、進歩したりもする。
     かつての著作に手を加えるのは、あり得る事だ。
     従来、全集には、生前の最終版だけが「決定版」として収められる事も多かった。しかし、新編の柳田國男全集のように、初出を載せ、その後の変更点を、付け加えていく方式を取るものもある。
     著作者の変化・進歩もまた、重要だと考えられるからだ。


     全集を読むに当たっては、これまで触れてきたスキルのすべてが動員される。
     そして、動員されたすべての方法が、全集を読み抜いていく間に、否応なくブラッシュ・アップされる。
     一度、全集を通読した人は、本を読むのに必要なすべてを身につけている。
     速く読むことも遅く読むことも、浅く読むことも深く読むことも。そして、メモを取ること、線を引くこと、自家製の索引をつくること、書き写すこと、暗唱すること、注をつけることも。

     その後の読書生活において、彼は、それらすべてを駆使することができるだろう。



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