書物について、人が行うことができるほとんどすべてを為した人の話をしよう。

     彼は、多くの本を書いた。
     共同執筆した。寄稿した。
     アンソロジーを、一冊ものの書物を、それから何巻もある叢書を、編集した。
     書物についての講義を持った。
     書評した。翻訳した。
     索引を作った。
     三つの雑誌を創刊し、編集した。
     さらに自分の手で活字を組み、印刷し、製本した。
     プライベートプレスをつくり、自分が書いたものばかりでなく、世に知られた名著の最も美しい版(エディション)を自分の出版社から出版した。
     もちろん書物を蒐集した。
     彼のコレクションの一部、爆撃や当局による没収などを免れた、いくつかの幸運な部分は、後にそれぞれが世界的に知られるコレクションとなった。
     彼はまた研究施設を備えた図書館を設立した。
     世界中の図書館を行き来し、たとえばジュリアン・ケインの下でビブリオテーク・ナショナル(フランス国立図書館)がまともな図書館に生まれ変わるところや、記念碑的建物の他はまったく貧弱な蔵書しかなかったアメリカ議会図書館が何代も続く勤勉な館長たちのもとで世界最大の図書館となっていくところに、同時代人として立ち会った。
     そればかりか、二つの世界大戦の後に、ヨーロッパの図書館が元の姿を取り戻すように、いや、以前のそれを越えて互いに結びつくように尽力さえした。

     ほとんどすべて、というのは、彼は一度も書物を燃やしたことがなく、また検閲したこともないからだ。
     それ以外の書物についてすることのできるすべてを、彼はやった。

     しかし今日、書物に関わる仕事をする人たちの間では、彼の名前は、短命なプライベート・プレスの主宰者でも、ヴォルテールの世界的コレクターでもなく、ある一そろいの書物の著者として記憶されている。


     様々な観点から書物を列挙し一定の体系に配列した書物を、我々は書誌(Bibliography)と呼ぶ。
     書誌は、書物と書物を、そして書物と人を結びつける書物である。
     彼が著したのは、その書誌と書誌を結びつける書物、書誌の書誌だった。
     
     
     大英博物館図書館は、19世紀に爆発的に増加した蔵書に対して、それらを一つにまとめた図書目録を長い間持たなかった。つまりは機能的な図書館ではなく、単なる書物倉庫に過ぎず、博覧強記の司書たちの助けなしには、膨大な書物の蓄積にアクセスすることは適わなかった。
     そんな伝説的な司書のひとりが長年の念願であった統一図書目録を完成させ、大英博物館図書館は、世界中の書物を蔵し、図書目録の完備した図書館となった。

     
     彼もまた大英博物館図書館で自らを育てた独学の徒だった。
      
     大学はおろか、小学校ですら2学期しか通わなかった。
     家庭に恵まれず、母親の心ない言葉に追い出されながら、りんご1個を昼食のために持って、毎日、大英博物館の円形閲覧室に通った。
     閲覧資格を得るためには、最初は歳を誤魔化さねばならなかったが、そうして手に入れた資格証を彼は生涯肌身離さず持っていた。そして、それを使い倒した。
     こうして、大図書館で独力で自分の力を積み重ねていった。
     
     彼はやがて世界中の図書館を駆けまわることになった(それは彼の仕事には不可欠だった)。
     ビブリオテーク・ナショナル(フランス国立図書館)やアメリカ議会図書館の成長を寿ぎ、ヴァチカン図書館に少なくない親愛と尊敬の念を抱いたけれど、それでも大英博物館図書館がベストであるという信念は揺らがなかった。
     
     
     若き独学者は、書誌をつくるためにアニー・ベサント(神智学協会第二代会長としてクリシュナムルティに英才教育を施した)に、オリバー・ロッジに、そしてジョージ・フレーザーに会い、やがて彼らに傾倒した。
     1924年の彼の処女出版は多産だったベサントの文献目録であり、彼が20歳のとき出版された。
     彼はロッジらの影響から、神智学の他にもパラノーマルな現象に関心を深め、ロッジが会長をつとめたことのある心霊研究協会Society for Psychical Researchの調査員となり、やがて機関紙の編集に加わり、協会図書館のライブラリアンにもなった。
     もっとも心霊研究協会は1884年にブラヴァツキー夫人と神智学協会のトリックを暴いたことでも有名であり、その後も霊媒のトリックを暴くことに熱心だった。1930年にはコナン・ドイルら心霊派は協会の活動が「科学的過ぎる」として反発し大量脱退したが、直接の引金は、Modern Psychic Mysteries, Millesimo Castle, Italy (1929)について、彼が行った批判的批評だった。

     彼の書誌への傾倒は1930年代に入ると一層高まった。
     ほとんど学歴というものと無縁だった彼は、1931年にロンドン・ユニバーシティ・カレッジの図書館学部講師となり、1935年には編者の一人として招かれたオックスフォード書誌学叢書からThe beginnings of systematic bibliographyを出版した。

     同じ頃、彼はオックスフォード大学出版局に、世界中の書誌をまとめた書誌の企画を出している。
     この企画はろくに検討されずに、否定された。
     主な理由は、彼がこの企画を一人で成し遂げようとしていることだった。
     当時の営業部長だったハンフリー・ミルフォードとR・W・チャップマンは、世界中の書物を間接的にまとめあげることになるこの大著には、それにふさわしい多くのマンパワーが必要だろうと考えたのだ。
     そしてそれだけの労力と費用を投じても、このまだ存在しない書物を必要な人たちがいるのかどうか、言い換えれば商業的にペイするのかどうか、彼らには判断がつかなかった。
     
     ひょっとするとミルフォードたちは、彼の力を低く見積もっていたのかもしれない。
     しかし大英博物館図書館で独力で自身をつくりあげたこの男は、全身が書物でできているような人間であり、そして図書館に何がなければならないかについて信じるところがあった。

     付け加えるなら、大英博物館図書館で独学した先輩バーナード・ショーを尊敬し、その出版方法についてもよく知っていた。
     こうして彼は〈ガイオン・ハウス・プレス〉という小さな印刷所兼出版社を立ち上げた。そこで図書館に不可欠だが、出版されない著作を自分の手でつくることにした。
     1940年にドイツの爆撃で破壊されるまでの短い間、マグナ・カルタのもっとも美しいリプリント版(オリジナルとともにアメリカ議会図書館で展示された)や106巻に及ぶ『ヴォルテール書簡集』とともに、書誌の書誌として桁外れに包括的な書物『World Bibliography of Bibliographies(書誌の世界書誌)』は、このプライベート・プレスから出版された。
     今日、この書物は彼の名にちなみ「ベスターマン」と呼ばれている。

     書誌の世界書誌の初版(1939-40年)後、第二版は1947-49年と時間が開いている。これは、第二次大戦後、ベスターマンがユネスコでは国際情報交換局の局長を務め、ヨーロッパの図書館が元の姿を取り戻すように、さらにそれを超えて互いに支えあうネットワークが育つように、国際的な再建プランを立案した。


     彼、セオドア・ベスターマンは、こうした自身の半生を振り返った講演に、ノスタルジックで世紀末的な感じがする言葉で題をつけている。
     
     -------- The Bookman(本の人)と。


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    (参考記事)



     
     今日では、「数学は役に立つ」という表現は、ほとんど冗語である。
     しかし20世紀に入ってもまだ、そう口にすることは、上品な人たちの怒りを買い嘲笑を受ける危険があった。
     
     数学は蔑まれていたのではない。
     むしろ《役に立つ》以上のものとして扱われていた。
     
     誤解を恐れずに言えば、数学は、ラテン語や古代ギリシア語と同様に、古典古代の精華を今に引き継ぐ《古典科目》のひとつであった。
     実利性を欠くが故に、エリートが学ぶべきもの、エリートしか学べないものとしての地位を保っていた。
     イギリスでは19世紀の半ばになっても、オックスフォードやケンブリッジといった大学では、数学、ラテン語、古代ギリシア語の三つを身につければよかった。
     そのかわり、大学に残り自分の研究をやろうとするならフェローとなる必要があったが、それには、難関であったトライポス(優等卒業試験)をパスし、しかも優秀な成績(おおよそ上位3人まで)をとらなくてはならなかった。
     そして1850年頃まで、数学のトライポスをパスしないことには、ラテン語やギリシア語のトライポスを受けることすらできなった。
     1870年に初等教育法ができ、一般大衆のための教育制度が整うまでは、中等教育を担うのは、名門オックスブリッジへの予備門の性質を持ったパブリックスクールだけだった。そこでの数学もまた形式陶冶のためのもので、それ自体の価値より、学習を通じて知的能力が鍛錬されることを目指しており、ユークリッド(エウクレイデス)の原論(ストイケイア)が未だ幅をきかせていた。
     こうしてイギリスの数学教育は、ヨーロッパで最も遅れたものになっていた。
     
     
     しかし時代の流れが最も速く流れているのも、この国であった。
     他の国々に先駆けて産業革命を成し遂げた、その技術的優位のおかげで、当時のイギリスは繊維製品をはじめとする工業製品の世界的・独占的供給者となった。
     〈世界の工場〉の担い手たるブルジョアたちは、国政への参加と自由貿易の確立という長年の要求を掲げて貴族・地主たちと激しく戦い、勝利をおさめた(1832年の第1次選挙法改正,1846年の穀物法廃止)。
     実のところ、1880年ごろまでは上院下院とも国会議員の圧倒的多数は地主たちが占め、穀物法廃止も直ちに大量の穀物の海外からの流入をもたらし地主たちの農園収入を減らした訳ではなかった。地主たちは退場せず、むしろブルジョアの方が自分たちを地主化しようとした。すなわち、競って田舎に土地と邸宅を買い求め、パブリック・スクールに自分の子息を送り込んだ。
     
     一方、イギリスには、国の技術的優位を担う多くの技師・技術者たちと、数ではさらに多い労働者たちがいた。
     かつて農村で生活と混然一体となっていた労働は、工場のそれへと移行した。かつて当然だった家族単位の労働(農業であれ,家内工業であれ,大半の商業であれ)はバラバラになり、家族集団とはまったく別の編成で行われるようになった。
     それまで人は、家族と共に働く中で職業に必要な知識を学んでいた。家族を離れて徒弟奉公に出たとしても、徒弟先もまた家族的経営でその業を営んでいたのだった。
     生産単位としての家族の解体は、家庭や共同体がもっていた職業などについての教育機能を低下させていった。
     しかし科学研究が興隆し、次々と産業での応用に流れ込んでいた時代、学ぶべきものは増えこそすれ減りはしなかった。
     教育の場=学びの場を、これまでとは違った形で再建しなければならないのは必然だった。

     それ故に、数学教育における最も徹底した革命は、その最も遅れた国、最も保守的だった国に起こる。

     口火を切ったのは、理想主義に傾く若者ではなかった。
     彼はもう何十年もの間、イギリスで、それからあの極東の小国で、工学とそのための数学を教えてきた老練の教師だった。
     彼はパブリック・スクールで始めて実用数学を教え、その手腕を見込まれ、工業化を担う最初の技師たちを育てるため日本へ赴いた。
     教室ばかりでなく、フィールドワークでも常に学生に発問し、自然科学ならどんな知識を呼び寄せてもよいから答えてみよと迫り、時には水利の難問を抱える村を学生たちとともに解決することもあった。
     日本では、イギリスに帰国後も仕事を続けることになる共同研究者と出会った。相棒は実験を、彼は数学を、それぞれ担当することが多かった。そして二人は実験室に学生たちを呼び寄せ、答の決まった実験実習ではなく、まだ世界で誰も解いたことのない問題に挑む自分たちの研究に参加させた。彼の学生たちは、イギリスの学術誌に発表された論文の中で賛辞をおくられた。
     彼の任期はわずか数年であったが、学生たちに強烈な印象と影響を与えた。彼の教え子たちは、発明を行い、事業を起こし、工事を指揮し、そして後進を育てた。
     彼もまた、日本での経験から多くの知恵と自信を得た。どの著作の前文も、この時の経験に触れないものはない。


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    John Perry (1850-1920)


     日本の工学教育の源流を担ったジョン・ペリー(1850-1920)の名は世界を駆け巡った後、彼が去った半世紀後に再び日本でも聞かれることになるだろう。
      20 世紀初頭イギリスに始まり、世界に拡散した数学教育改造運動の提唱者として、すなわち誰もが自然科学を、そのために数学を、学ぶべきであり、また学ぶことができると世界を説得した一人として。






    1864 ベルファスト

     1850年、マクスウェルがケンブリッジ大学の聖ペテロカレッジに入学したその年に、ジョン・ペリーは北アイルランド、ロンドンデリー州のガーヴァー(カルヴァ)という小村で生まれた。
     アイルランドの首府ベルファスト、ペリーが14歳まで学校(Model School)に通い徒弟奉公に出たその町までは80kmの距離がある。
     
     前述したとおり、この時代のイギリスにはまだ初等教育の制度は整っていなかった。技術者向けの教育を施す学校も存在していなかった。
     ペリーたちの世代の技術者が、やがて新設される技術学校で最初の教師になっていくのだが、彼ら自身はこれまで職人たちが通ってきた道、すなわち徒弟奉公に出て実地に経験を積むのが通常だった。
     
     しかし新しい波が技術者たちにも押し寄せてきていた。
     工業上の実際問題を解くために、19世紀半ばまでは、ギリシア以来の静力学だけで間に合うことがほとんどだった。そのために必要な数学は連立一次方程式か、せいぜい二次方程式の解法までだった。
     だがここに電気の時代が来ようとしていた。
     ペリーが徒弟奉公に出た1864年には、ウィリアム・トムソンに示唆を受け、電磁気学の研究を続けていたマクスウェルがファラデーの直感と実験的研究の成果を連立微分方程式にまとめることに成功した。
     これと前後して、敷設されたもののすぐに不通になってしまった、大西洋を横断する海底電信ケーブルの計画見直しがトムソンに依頼されていた。トムソンは実験と計算を繰り返して必要な銅線および絶縁部の断面積を割り出し、また水圧から水深を測定するケミカルチューブを発明してケーブルの強度を計算するための水圧データを集めた。1866年には完成した新ケーブルは十分な性能を示し、商業的な成功を収める事になった。トムソンはこの功績によりナイトの爵位を得ている。
     
     
     14歳で徒弟となったペリーはすでに三角法、代数、幾何学などの知識をいくらか持っていた。
     しかし実地に学ぶ以上の技術を身につけようと手に入れた2冊の技術書で、彼は知らない数学記号と出会う。
     
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    (Perry, J. ed. (1901),‘ The Teaching of Mathematics, Discussion on the Teaching of Mathematics, Macmillan. p.9.)

    「他の子供たちは他の贅沢品を欲しがったかも知れないが、私が欲しかったのは dy/dxと∫の知識だった。振り返ってみると、これらの記号の使い方について、私は数年間憧れていたように思う。教えてくれる人は誰もいなかった。私は才能あるエンジニアを数多く知っていたが、彼らも私を助けてはくれなかった。しかしついにこの知識を得られる機会を得た。」




    1868 ベルファスト

     4年の徒弟奉公の後、1868年、ペリーは鋳物工場に勤めながらではあったが、同じベルファストにあったクイーンズ・カレッジに通い出した。
     カレッジでは、ジェームズ・トムソン(先に触れたウィリアム・トムソンの兄)が受け持つ工学のクラスに出席した。
     意欲はあったが、学業ははかばかしくはなかった。
     同級生が安々と問題を解いていく間、ペリーは四苦八苦しながら1題1題と悪戦苦闘した。
     カレッジにいる間ずっと、自分は愚鈍であるという意識に悩まされた。
     
     長い教師生活を経た後、ペリーは自身のこの経験を振り返っている。
     級友たちは問題の解き方を知っていた。解法のコツを教えられ(何故なら、それが当時の学校で教える大部分であったから)、そのコツを使って教科書の問題を高速に(そして機械的に)処理していた。
     それに引き換え、ペリーは、やっと手に入れることができた心の道具mental tool(ペリーは微分積分の原理をそう呼んだ)を、あらゆる問題に片っ端から応用したくて、実際にそれを試していた。それがアカデミックなものであろうとなかろうと、そして解ける見込みがあろうとなかろうと。
     つまり、ペリーは、公式というルールを知らずプレイしていたのだが、実は違う種目をプレイしていたのだ。
     


    1871 ブリストル
     
     1870 年、ペリーはクイーンズ・カレッジを優等で(金牌をもらって)卒業し、バチュラー・オブ・エンジニアリングとなった。
     アイルランドからイングランドへ行き、1871年ブリストルのクリフトン・カレッジで物理と数学を教える職(物理学講師と数学教師心得)を得た。
     クリフトン・カレッジは、1862年に創立、1877年に国王認可を得ることになる新設のパブリック・スクールだった。
     前述のとおり、パブリック・スクールは、ケンブリッジやオックスフォードへ行くためにラテン語や古代ギリシア語を教えるようなところだから、そこでの数学はユークリッドの原論を教えるのが当然だった。
     ところがペリーは1873年から、クリフトン・カレッジで「実用数学」を教え始めた。時に23歳、この後、終生つづくことになる伝統数学との戦いが、ここに始まることになる。加えて、ペリーの数学教育の武器となるツール、たとえばペリーの代名詞となる〈方眼紙 Squared Paper〉も、この時使い始めた。方眼紙は、数式をまだよく知らない人にも、それどころか十分に読み書きができない人にも、数的関係を目に見える形にして示し気付かせることのできる強力なツールだった。
     (ペリーの回想によれば)1876年頃まで、方眼紙は非常に高価なものだった。したがって多くの人はその使い方を知ってはいたが、実際にはごく少数の人が特別な場合にしか使わないものだった。
     
     

    1874 グラスゴー

     しかしペリーは1874年にはクリフトン・カレッジを去り、スコットランドのグラスゴー大学にイギリスではじめて物理学研究室をつくったウィリアム・トムソンの無給助手となった。
     ペリーは、ウィリアムの兄ジェームズ・トムソンの工学のクラスにいたので、おそらくは目下ウィリアムが抱えている案件についても知らされていたのかもしれない。
     というのは1873年(明治6年にあたる)、極東の島国に新たな工学教育機関、工学寮(明治10年1月からは工部大学校と改称、英名Imperial College of Engineering)が創設され、イギリスから9名の教授陣がすでに赴任していたからだ。彼らの人選はグラスゴー大学のウィリアム・ランキンとウィリアム・トムソンがあたっていた。
     


    1875 東京

     工学寮は、日向内藤家上屋敷跡地、現在の千代田区霞が関三丁目に創設された。
     予科、専門科、実地科(いずれも2年)の3期6年制を採用し、土木、機械、造家(建築)、電信、化学、冶金、鉱山、造船の各科を有した。1865年創設のカールスルーエ工科大学を皮切りに生まれた(大学とは別立ての)ドイツの工科大学とくらべても、2倍の修業年限となる、同時期のヨーロッパにも類を見ない(そして勿論イギリスにはない)本格的な工学教育機関だった。実質的に現在でいう修士課程を含み、実際、優等で卒業した者にはMaster of Engineerringが与えられた。
     

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    工部大学校



     すでに第1期生が予科を終え、専門科に進もうとしていた。
     グラスゴーで1年を過ごし、その間に最初の著作『An Elementary Treatise on Steam(初等蒸気学)』を上梓したペリーは、1875年8月土木工学担当の助教師(Joint Professer)として日本に赴任した。
     ペリーに遅れ、1876年には造家学(いまの建築学)担当のジョサイア・コンドル(鹿鳴館、ニコライ堂など設計)、鉱山・鉱石・地質学担当のジョン・ミルン(日本地震学の父)、物理学・電信学のトマス・グレイが赴任し、工学寮は全科の教員を揃えることになる。

     ペリーはここで、すでに教頭格として赴任し、物理学・電信学を担当していたウィリアム・エアトン(1847 - 1908)と出会った。ペリー(在任1875-79)とエアトン(在任1873-78)が共に日本にいた期間は数年に過ぎないが、その間に50篇以上の共同の論文を発表した。マクスウェルをして「電気学の研究の中心は今やイギリスから東京へ移った」と言わしめたというフォークロアがあるほどだった。エアトンはペリーが来日するまで一本も論文を出していないから、二人の共同研究にどんな化学反応があったのか、互いに得がたい存在であるのは確かだった。二人の研究には、電磁気学に属するものが多いが、中には「フーリエの〈熱の理論〉に基づく石の熱伝導率について」「東京における重力加速度の決定」「これまで地震観測で無視されてきた1つの原則について」「日本の魔鏡 The Magic Mirror of Japan」といったものもある。
     
     工学寮は高価な実験装置を準備できるだけの力があったらしい。ペリーとエアトンが日本でまとめた最初の論文「諸気体の電気伝導率」は、1865年に発明されたばかりのスプレンゲルの水銀空気ポンプを使った真空放電実験を扱ったもので、実験は1877年3月4日から11日にかけて行われた。ペリーとエアトンは3月18日にもう、在日の科学者・技術者(つまりお雇い外国人)相互の交流を目的とした日本アジア協会Asiatic Society of Japanでこの研究を報告している。
     この研究発表には二人の多産ぶりの理由の一端があるが、もうひとつ、日本での彼らの共同研究の特徴もすでに現れている。
     ペリーとエアトンは、自分たちの研究に、学生たちをつねに参加させていた。
     「諸気体の電気伝導率」の末尾には、二人の日本人KawaguchiとNishitakaの研究協力への賛辞が述べられている。工学寮の卒業名簿にはニシタカという姓は見つからないが、この年、電信科の第1期生には川口武一郎という学生が4年生で在籍していた。つまり専門科を終えていない学生を、実験に参加させていたのである。
     別の論文において、このあたりの事情は次のように説明されている。
     「我々が過去数年間おこなってきた他の実験と同様に、この研究もまた、実験室の学生に教えるのに我々が採用したプラン、すなわち普通大学でやるように〈学生たちによく知られた実験を繰り返させる〉のではなく、〈現在の知識の限界を彼ら自身の研究で、少しでも切り拓くようにさせる〉という教授プランに基づくものであった。…〈ごく未熟な学生たちにも、オリジナルな研究の助手として仕事をしてもらう〉というこのやり方は、〈実験的な作業において、さもなければ生じ得ないような熱意を作り出す〉ことを、我々は知ったのである。」
     ペリーとエアトンの共同研究のテーマが多岐に及んでいるのも、ひとつには学生の実験指導を兼ねたためであった。
     
     二人の論文以外に、ペリーたちがどんな指導をしていたか知る資料には、『旧工部大学校史料付録』(1931)に収められた卒業生の回顧録がある。
     修学旅行に出かけたペリー先生と学生一行、川崎でちょうど建築中だった鉄橋のところに差し掛かると、架けられたばかりの電線が強風で音を立てている。ペリー先生は突然立ち止まり、
    「ここに自然がある」
    といって学生たちの顔を見回す。
    「どういう訳で音が鳴っているのか、誰か答えてみよ」
    と問いを投げてくる。問うのは土木の先生で、問いは音響学に属するが、もちろんペリー先生は一向におかまいなし。
    「自然科学なら何でも持ってこい」
    と学生たちに答えさせようとする。
     別のとき、ペリー先生はまた学生を連れて利根川畔を旅行した。印旛沼で、地層に貝の化石を見付けると
    「これを講釈しろ」
    という。その時分は学生たちも地質学を習っていたから何とか答えることができた。
     また銚子に行った時は、土地の地形に詳しい案内者を伴い、河口を検分して学生たちに略図を作らせた。何をするのかと思っていたら、築港の案を2種類つくれ、という。学生の案を待って、甲案と乙案をそれぞれ批評して教える。
     一事が万事この調子で、なんでも見当たり放題、何学だろうとお構いなしに、問題を出して答えを待つのである。こんな具合だから、実地の事柄は随分と速く覚えることができたと、卒業生は回想している。
     
     ペリーは土木工学とともに数学も担当した。
     工学寮の数学は、予科1年では毎日1時間半ずつ、予科2年では数学と力学の講義をそれぞれ週3回と週2回のこれも1時間半ずつ行っていたが、専門科で実際問題を解決するには、これでも不十分だった。
     ペリーは、定義と公理から始めるユークリッド流を取りやめ、定規とコンパスで図形を描くかわりに方眼紙を使って関数値をグラフに描かせるようにした。そのためには分数よりも、精度を指定した小数を使わせ、そして、なるだけはやく微分積分に進ませ、自分の道具にさせるのである。
     パブリック・スクールでは抵抗を持って迎えられたペリーの「実用数学」だったが、日本には
    「技術者臭い数学では知性の鍛錬はできない」などと言い出す守旧派はおらず、この新しい国にはすぐにでも技術を学び実地に役立てる必要があった。
     
     こうして工学寮は、辰野金吾、高峰譲吉、藤岡市助、井口在屋、志田林三郎、田辺朔郎ら明治の工学界・産業界の指導者・技術者を輩出し、日本の工学教育の基礎を築くことになる。
     

    1879 ロンドン

     工学寮(と後の工部大学校)で教えた後、イギリスに帰った教師たちは工部大学校のような工学学校をつくることに奔走した。
     前述のように、イギリスにはまだ工学教育を専門とする高等教育機関は存在していなかった。技術者教育は、ペリーや校長格のダイヤーがそうだったように、徒弟修行と夜間学校のような、本来異質なものを本人の努力が束ねる形で成り立っていた。

     科学史に登場するものとしては、わずかに1845年にドイツから科学者ホフマンを招いて設立された王立化学学校 (Royal College of Chemistry)が存在したが、実態は、出席義務もなく、したがって学生は週に1〜6日好きなだけ登校して、試験もなく、修学年限すら決まっていない(半数の学生は半年で退学した)ような、現在の学校のイメージからはかけ離れたものだった。
     ペリーやエアトンが工学寮で教えていた頃にはもうひとつ理系の学校として、王立鉱山学校(Royal School of Mine)が存在した。これはずっと学校としての体裁を備えたもので、ジョン・ティンダル(1820-1893、ティンダル現象の発見者)やエドワード・フランクランド(1825-1899、有機金属化合物の発見、原子価の概念の先駆者)、トマス・ヘンリー・ハクスリー(1825-1895、ダーウィンの番犬)など、新しい世代の科学者に就職口を与えていた。
     
     そして1878年、City and Guilds of London Institute(C&G)という団体が、まさに科学技術教育を進行する機関として女王の認可状を受けて設立された。
     C&Gがはじめに行ったのは、長州五傑も学んだロンドン大学ユニバーシティ・カレッジに機械工学講座を新設することだった。
     ペリーよりも1年早く(1878年)、そして任期満了を待たずイギリスに帰国したエアトンは、C&Gの設立その他の動きを知っていたらしく、新設の機械工学講座の応募に合わせて帰国した節がある(ユニバーシティ・カレッジはまた、グラスゴー大学でトムソンにつく前にエアトンが学んだ母校でもあった)。しかし、このポストには9人の応募があったが誰も採用されなかった。
     C&Gは続いて1878年中にもう一つ、今度はロンドンのフィンズベリーに工学・工業を専門とする初の学校Finsbury College of the City and Guilds of London Technical Instituteを設立した。この学校には14〜17歳のための全日制コースと工学局試験受験者のための夜間コースがあり、Collegeというものの中等教育機関として設立されたものだった。エアトンはこれにも応募し、今度は応用物理学の教授に就任することができた。


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    Finsbury College of the City and Guilds of London Technical Institute


     1879年、エアトンより1年遅れてペリーはイギリスに帰国した。すでにフィンズベリーの工業学校のポストは埋まっており、ペリーは教師を続けることを希望していたが、ほかに工学の教師の口はなかった。
     ペリーはMessers. Latimer Clark, Muirhead &Co.という会社に就職し、電動線工場で設計から労働者の雇用係まで様々な仕事を担当した。その傍ら、エアトンの研究室に通い、日本で行ったのと同様に共同研究を進め、就職が決まる4年間に二人で13本の論文を発表した。
     1882年、ペリーはフィンズベリー工業学校に機械工学と応用力学の教授として採用された。
     この時フィンズベリーにはエアトンの他に、のちに日本でも〈発見的教授法Heuristic Method〉〈実験室教授法(Laboratory Teaching〉で知られるようになる化学者ヘンリー・アームストロング(1848-1937)がいた。ペリーはアームストロングと終生の友人となった。ちなみにエアトンとアームストロングは仲がよくなかったらしい。
     もっともC&Gはフィンズベリー校が創設後、ただちに同じくロンドンのサウスケンジントンにCentral Institutionという学校の設立にとりかかっていた。こちらは3年制の工業専門学校であり、フィンズベリーを出た者がさらに学べる工学の高等教育機関であった。1884年にこれが完成すると、フィンズベリー校の創立時メンバーであったエアトンとアームストロングはそちらの教授として移っていくこととなり、ペリーが彼らと共にいたのは2年間ほどだった。
     
     ペリーはフィンズベリーに採用後、すぐに2冊めの著作として『Practical Mechanics(実用力学)』にとりかかり、1883年に出版した。
     この教科書は、ペリーがフィンズベリーで何をどのように教えようとしたのか(ティーンエイジャーの他に、かつてのペリーのように働きながら学ぶ徒弟修業の人たちもやってくるだろう)、そして日本の工学寮での教授経験(そこでは一国を背負って立つエリートたちを教えた)から何を得てどんなことを信じるようになったかを教えてくれる。


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    (John Perry(1883), Practical Mechanics CASSELL & COMPANY. p.v.)

    前書き
    本書は、数学を知らない読者non-mathematical readersに、力学を学ぶ方法を提示する試みである。読者はこの本をただ読むだけでは、あまり得るところはないであろう。力学の講義を聴講して補ったとしても、多くは得られまい。しかし私はこう信じる。講義によって本書について徹底した理解を得てから、簡単な装置(最低の実験室にでもある、この講義でやることしか確かめることのできない装置)を使ってありふれた実験をするなら、また本書の中で勧められるやり方でこの本を活用するなら、短期間のうちに労力が十分報われるだけの活きた知識を得ることができるだろう。私はまた、こうしたやり方で得られる精神陶冶mental trainingは、ふつう精神陶冶のために学ぶと人びとが信じている古典とユークリッドから得られるものにも劣るものではないと確信している。


     そしてこう続ける。

     
     The principle of my method is one which I have tested in practice during the last twelve years, in an English Public School, at the Imperial College of Engineering in Japan, and in other places.(ibid. )

     私の方法の原則は、過去12年間、イギリスのパブリック・スクールや日本の工学寮(工部大学校)Imperial College of Engineeringその他で実際に試してきたものである。



     少し後で、ペリーはこのように指摘する。

     
     The primary fact in technical education not yet sufficiently recognised is this that illiterate men often acquire and possess a useful knowledge of the principles underlying their trade. But the theory usually acted upon is that a man must be quite ignorant of the principles of his trade unless he has been led up to them through weary years' study of the elementary principles of science.(ibid. )
     技術教育において未だ十分認められていない第一の点は、無学な人びともしばしば、自分の職業の基礎となる諸原理について、有用な知識を獲得し身につけているという事実である。これに対して、ふつう信じられている考えは、科学の初歩的な原理について何年もうんざりするほど教えられていなければ、人は自分の職業に関する諸原理についても何も知らないに違いない、というものである。

     
     しかし、これは事実ではない。
     ちょっと目端の利く見習いなら(これはペリー自身の経験でもあるだろう)次のことに気づいている。無学でも、他の者より多くの信頼と儲けを得ているよく出来た職人は、仕事で出会う複雑な事象の奥に潜む法則について精確な知識を持っている。
     しかし学校で学んだ人が、こうした知識のあり方を認めないのには理由がある。ペリーはまた、別の経験からこのことを知っている。これまでの学校は、次のように教え、また次のように知識を扱ってきたからである。
     
     
     In giving this knowledge, however, the usual plan of operations is to act on the assumption that the man knows nothing, because he did not begin his previous study with Euclid's axioms, and to teach him the elementary principles as schoolboys of no experience are taught. Now, the standpoint of an experienced workman in the nineteenth century is very different from that of an Alexandrian philosopher or of an English schoolboy, and many men who energetically begin the study of Euclid give it up after a year or two in disgust, because at the end they have only arrived at results which they knew experimentally long ago.
    (Ibid. p.vii.)
     しかし、前もってユークリッドの公理を学んでいないなら何も知らないものとして、無経験な生徒に教えるように初歩的な原理から教えこむのが、知識を与えるに際しての普通のやり方なのである。しかし今、19世紀の経験ゆたかな労働者が立っている場所は、アレキサンドリア時代の哲学者やイギリスの生徒たちのそれとは、全く違う。それに精力的にユークリッドの学習を始める人ですら、1年か2年後には嫌になってやめてしまうのだ。なんとなれば、彼らが最終的に到達するのは、自分たちがとっくの昔に経験的に知っていた結論なのだから。

     
     ペリーは再び、ユークリッドの知と切り結ぶところまでやってきた。
     ユークリッド流の教え方が、知っている者を知らない者として扱う転倒したやり方であるならば、それをもう一度ひっくり返せないだろうか。
     
     すなわち、学校で無知扱いされている子どもたちを、労働者がそうだったように、既に経験から何事かを学んでいる者として扱うこと。
     
     それは可能だとペリーは言う。計12年間のイギリスのパブリック・スクールや日本の工学寮での経験がそれを確信させる。
      
     I am inclined to believe that if, instead of forcing the workman to study like a schoolboy, we were to teach the boy as if he had already acquired some of the experience of the workman, and made it our business to give him this experience, we should do better than at present. That is, let the boy work in wood and metal, let him gain experience in the use of machines, let him use drawing instruments and scales, and you put him in a condition to understand and appreciate the truth of the fundamental laws of nature, such a condition as boys usually arrive at only after years of study. (ibid. )
     私は次のことを信じたいと思う。労働者を生徒のように学ばせようと強制するのでなく、労働者が持っているある種の経験を生徒も持つように教えるべきなのだ。そうした経験を生徒に与えることが我々の仕事であるなら、我々は今よりずっとうまく教えることができるはずである。すなわち、生徒に木材や金属で作業をさせよう。機械を扱う経験をさせよう。製図用具と定規を使わせよう。そうすれば、自然の基本法則の正しさを理解しその価値を認めることができる状態、普通なら何年か後でないと到達しない状態に生徒を導くことができる。


     『Practical Mechanics(実用力学)』の序文であったはずが、ペリーの筆は完全に数学教育の改革に踏み込んでいる。後年展開される改革案の基本的な部分は、実地での検証を経て、この時点ですでにペリーの深いところに刻まれていた。
     
     そしてペリーは、徒手空拳の理想家ではなく、具体的方策をいくつも準備できる実務家だった。
     彼の武器庫の一端を『Practical Mechanics(実用力学)』にも見ることができる。摩擦をあつかった第2章の第6節は「The use of Squared Paper」と題され、数学のみならず力学教育に方眼紙の使用することの利点が述べられている。

      
    6. The use of Squared Paper.
     And here we come to a matter of the greatest importance to the practical man, which the old-fashioned books on mechanics and old-fashioned teachers of Science Classes seem not to know anything about. How do we practically compare two things whose values depend on one another ? How do we find out the law of their dependence? It is a strange fact that there should be a class in the community who have a little difficulty in manipulating decimals in arithmetic, but it is almost a stranger evidence of neglected education that so many people should be ignorant of the great uses to which a sheet of squared paper may be put.
     A sheet of squared paper can be bought very cheaply. … This sheet will enable me first of all to correct for errors of observation in the above series of experiments ; and, secondly, to discover the law which I am in search of.
    (Ibid. p.7)

    6.方眼紙の使用
     ここで我々は実際家にとって最も重要な事項へ進む。これは旧式の力学書や旧式の科学教師たちが全く知らないものである。我々は実際、互いに依存しあう2つの事項をどのように比較するだろうか? その依存関係の法則をどのように見つけ出すだろうか? 小数を扱うのが苦手なクラスがあることも奇妙な話だが、多くの人々が方眼紙がもたらす役割を知らないでいることも、さらにおかしことで、教育を軽視するものである。
     1枚の方眼紙は非常に安く買える。…方眼紙を使うことで、第1に上記の(摩擦の)実験において、測定誤差を修正することができる。第2に、私達が探している法則を発見することが可能になるのである。

     
     
     1876年頃まで高価だった方眼紙が、ここでは安価で手に入るようになっていることが、まず注目される。
     ペリーが、元々数学で使っていた方眼紙を、物理学や工学の授業にも適用拡大したのは、日本の工学寮でだった。それはできるだけ早く自然科学や工学を学ぶ必要のあった日本とその学生のニーズにマッチしていた。
     数学を知らない読者non-mathematical readersに力学を学ぶ方法を提供するこの書でも、方眼紙の役割は重要である。数式を扱うのが苦手な人達も、測定値を丁寧に方眼紙上にプロットしていけば、自分でその法則性に気付き、現実の測定値はそこからずれることをも知ることができる。だからこそ実際家と実際家を育てる教育にとって、方眼紙は欠くべからざるツールだった。
     
     
     
     
    1896 ロンドン

     実のところ、イギリスの数学教育の立ち遅れはすでに問題となっていた。科学研究や技術応用の進展からますます乖離していたことや、生徒たちだけに焦点を合わせても、ペリーも言ったように挫折する者が少なからずいることなどが特に重大だった。しかし数学教育関係者や数学者の提案はペリーよりずっと穏当なもので、分かりにくいユークリッドをどのように教えれば分かりやすくなるのか、といったものが多かった。
     たとえば1871年にロンドン大学のハーストらによって設立された幾何学教育改良協会(Association for the Improvement of Geometrical Teaching)がつくった幾何学の教科書 The Elements of Plane Geometry (Vol.1 1884)(Vol.2 1888) は、単純な概念から順に学習できるようユークリッドの命題を分類し直した点で、それまでの原典主義を脱した画期的なものだったが、作図には定規とコンパスを使用するという原則や、定義から出発し命題を順に証明する教授法は変わらず引き継がれていた。
     
     対してペリーの『Practical Mechanics(実用力学)』は力学の教科書だが、これまで見たとおり、現行の数学教育の前提を批判し、新しい教育法を提案する過激な内容を含んでいた。
     ペリーは従来の教育関係者よりも、時代の要請を受け量質ともに勢力を広げつつある技術者、工学者たちの列に属していた。
     時代のニーズを掴んでいたこの書は版を重ねることとなり(1886年に第3版、さらに1889年,1891年,1893年,1896年に重版)、ペリーが日本へ渡る前に書いた『初等蒸気教程』も版を重ねていた。

     こうしてペリーの名は次第に知られるようになり、工業教育の中心人物のひとりと目されるようになった。特に、系統だった正規の教育を受けていない労働者への教育(その必要は日増しに増していた)では、第一人者と見なされるようになっていた。

     数学教育に打ち込みながら、エアトンとの多産な共同研究はつづいていた。教育・研究の両面で業績を積み上げていたペリーは、1896年、王立理科学校Royal College of Scienceの数学および力学の教授に就任することになった。
     この学校は、財政難から一時は王立鉱山学校と合併した王立化学学校が、1881年に理科師範学校The Normal School of Scienceとして再び独立し、1890年に王立理科学校へと改組改名し、エアトンやアームストロングが所属する中央工科学校Central Instituteと同列の、工学高等教育機関となったものだった。
     
     ペリーはフィンズベリーを去ることが本決まりになると、フィンズベリーでの経験をまとめ、中等教育向けの2つの教科書『The Calculus for Engineers(技術者のための微積分)』『Applied Mechanics(応用力学)』を執筆した。
     一冊目は、タイトルどおりペリーが書いた初の数学書であり、そのテーマは、ペリーが徒弟時代につまづき学校で学ぶきっかけとなった微積分だった。
     これは旧来の徒弟修業では学ぶことができないが、新時代の技師・技術者には不可欠であるという、時代が要請する工学教育の中で象徴的な位置を占める科目だった。


    PREFACE.
     THIS book describes what has for many years been the most important part of the regular course in the Calculus for Mechanical and Electrical Engineering students at the Finsbury Technical College. It was supplemented by easy work involving Fourier, Spherical Harmonic, and Bessel Functions which I have been afraid to describe here because the book is already much larger than I thought it would become.
     The students in October knew only the most elementary mathematics, many of them did not know the Binomial Theorem, or the definition of the sine of an angle. In July they had not only done the work of this book, but their knowledge was of a practical kind, ready for use in any such engineering problems as I give here.
    (John Perry(1897), The Calculus for Engineers. p.v.)
    序文
     本書は、長年に渡りフィンズベリー工科学校の機械工学と電気工学の生徒たちのために行われた微積分の正規授業の最も重要な部分を記したものである。この他にフーリエ関数や球面調和関数、ベッセル関数に関する簡単な演習があったが、本書は私が考えていたよりすでに大きなものになっているので今回は割愛した。
     10月の時点で生徒たちは最も初歩的な数学しか知らず、ほとんどの生徒が二項定理もsinの定義も知らなかった。翌年の7月には、彼らは本書の演習をやり終えただけでなく、その知識は実用的なものになっており、私が出した工学上のどんな問題に対しても応用できるようになっていた。


     ペリー式の数学教育の特徴は、その速さと実用性である。
     第一章の冒頭には、その理由と、本書が読者として想定する範囲が述べられている。


    INTRODUCTORY.
    1. The Engineer has usually no time for a general mathematical training—more's the pity—and those young engineers who have had such a training do not always find their mathematics helpful in their profession. Such men will, I hope, find this book useful, if they can only get over the notion that because it is elementary, they know already all that it can teach.
     But I write more particularly for readers who have had very little mathematical training and who are willing to work very hard to find out how the calculus is applied in Engineering problems. I assume that a good engineer needs to know only fundamental principles, but that he needs to know these very well indeed.
    (Ibid. p.1)

    序論
    1.エンジニアにはふつう一般数学のトレーニングに費やす時間がない。さらに残念なことだが、そうした数学のトレーニングを受けたことがある若いエンジニアは、数学が自分の仕事に役立つと必ずしも気付かない。こんな初歩的な本に書いてあることぐらい知ってるよ、という意識を捨てさえすれば、彼ら(数学を学んだことのあるエンジニア)もきっと本書が役に立つものだと気づいてもらえると、期待する。
     しかし、彼ら若手エンジニアよりむしろ、特にこれまで数学のトレーニングを受けたことがないが懸命に勉強する意欲のある人たちに向けて、エンジニアリングの問題にいかに微積分が応用できるかを分かるように、私は書いた。よいエンジニアというものは基礎的な原理をただ知るだけでなく、しっかりと知る必要があると、私は考える。



     王立理科学校に移った1896年頃から、ペリーは社会的な発言を求められ、また自身もそうした発言を行う機会が増えた。
     労働者向けの講演を行い、工学の教科書を書くのは、これまでのペリーの教育・研究活動の延長線上にあったが、1900年ペリーが書いた「England's Neglect of Science(イングランドの科学軽視)」という文章が『Nature』誌(7月5日号)に掲載された。板倉聖宣によれば、研究論文以外で公にされたペリーの最初の文章である。さらに同誌8月2日号には「The Teaching of Mathematics数学の教育」という文章が掲載された。
     いずれもイギリスの自然科学教育、数学教育の後進性と停滞性を批判し、新しい考えに立った教育法の必要を訴えたものだった。
     これまで教科書に埋め込む形で書いてきた自身の科学/数学教育論を、より広い世界に訴えるべくペリーは動き出した。



    1901 グラスゴー

     1901年9月14日グラスゴーで開催されたBritish Association(大英学術協会)主催の「数学教育シンポジウム」に、ペリーは招かれ講演を行った。
     これがのちにペリー運動と呼ばれる、ドイツ、フランス、アメリカ、日本における国際的な数学教育改革の呼び水となった運動の発端となる。
     
     先に触れたように、ペリーは数学においても教育においてもメインストリームから非常に離れたところにいた。そして、その後の世界に広がった改革運動を見れば、最もラディカルな主張は、最初のペリーの講演にあったことが分かる。主張は薄められ、現実と妥協しながら拡散したのだ。

     他の教育改革者の議論が「どのように教えるべきか(how to teach)」に集中したのに、ペリーは「何を教えるべきか(what to teach)」すら越えてさらに奥へと進み、「何のために数学を教えるのか(why to teach)」にまで踏み込んだ。
     「どんな内容を子どもたちに教えなければならないか、またどんな方法で教えなければならないかを決定するものは、有用性usefulnessである」と述べ、「役に立つか」どうかという基準から、数学教育を再構成することを提案した。
     
     ペリーが考える有用性の概念は、普通考えられるものよりも広く深い。
     「数学が何の役に立つのか?」という質問に対して、ペリーはざっと思いつくこととして、有用性の例を8つを挙げる(Perry, J. ed. (1901),‘ The Teaching of Mathematics, Discussion on the Teaching of Mathematics. pp.4-5.)。


    (1) In producing the higher emotions and giving pleasure. Hitherto neglected in teaching almost all boys.
    (1)高次の感情を呼び起こし、心に喜びを与えること。これまではほとんどすべての子供たちの教育で無視。

    (2) [a] In brain development. [b] In producing logical ways of thinking. Hitherto neglected in teaching most boys.
    (2)a. 頭脳の開発。b. 論理的な思考法の育成。これまではほとんどの子供たちの教育で無視。

    (3) In the aid given by mathematical weapons in the study of physical science. Hitherto neglected in teaching almost all boys.
    (3)物理科学の学習に際し数学的な武器によって与えられる手助け。これまではほとんどすべての子供たちの教育で無視。

    (4) In passing examinations. The only form that has not been neglected. The only form really recognised by teachers.
    (4)試験に合格すること。無視されてこなかったただ一つの項目。教師たちに実際に認められた唯一の項目。

    (5) In giving men mental tools as easy to use as their legs or arms; enabling them to go on with their education (development of their souls and brains) throughout their lives, utilising for this purpose all thier experience. This is exactly analogous with the power to educate one's self through the fondness for reading.
    (5)人々に自分の手足と同じように容易に使える知的ツールを与え、生涯を通じて彼らの教育(魂と頭脳の発展)と共に彼らが前進することを可能にさせること、しかも、この目的のために彼らの全経験を生かしながら。これはまさしく読書好きのおかげで自分を教育することができるのと同じである。

    (6) Perhaps included in (5): in teaching a man the importance of thinking things out for himself and so delivering him from the present dreadful yoke of authority, and convincing him that, whether he obeys or commands others, he is one of the highest of beings. This is usually left to other than mathematical studies.
    ( 6 )おそらく(5 )に含まれるであろうが、人に自己を求めて物事を考える重要性を教え、それによって現在の恐ろしい権力のくびきから自己を解放し、他人に服従しているか、他人を支配しているかにかかわらず、自分は最高の存在の一人なのだと確信させること。これは普通数学の学習がすることとはされていない。

    (7) In making men in any profession of applied science feel that they know the principles on which it is founded and according to which it is being developed.
    ( 7 )どのような応用科学の職業についている人々にも、その応用科学を基礎づけ、それに従って発展がなされている諸原理を理解していると感じさせること。

    (8) In glving to acute philosophical minds a logical counsel of perfection altogether charming and satisfying, and so preventing their attempting to develop any philosophical subject from the purely abstract point of view, because the absurdity of such an attempt has become obvious.
    (8 )鋭い哲学的知性の持主に、完全性についての、まったく魅力的で満足のゆく論理的忠告を与え、それによっていかなる哲学的論題も純粋に抽象的な観点から展開しようとすることをやめさせること。このような企ての不条理は明白になっているからである。



     ユークリッド流の教育が、「(2)a. 頭脳の開発。b. 論理的な思考法の育成。」を建前では標榜しながらも、現実には「(4)試験に合格すること。無視されてこなかったただ一つの項目。教師たちに実際に認められた唯一の項目。」しか実現していないところに、薪を背負わせて火をつけている。

     ペリーの講演につづいて行われた討論では17名の参加者が、ペリーの主張に賛成/反対を唱えた。
     もっともペリーの主張に真っ向から反対したのは2人だった。ほとんどの参加者が、現在の数学教育には何らかの改革が必要である点では一致していた。
     もっとも強固な反対を唱えたのは、当時ケンブリッジ大学の数学科の学科長であった数学者フォーサイス(A. R. Forsyth, 1858〜1942)だった。フォーサイスの批判は(1)最新の知識を教えても生徒は理解できない(ケンブリッジの優秀な学生にだって無理)、(2)有用性は数学や科学の発展の唯一の基準ではない、(3)労働者や技術者が数学を応用するなんて現実的には無理、という3点に集約された(Ibid. pp.35-36.)。

     
     (1)や(3)でないことを、ペリーは自身のイギリスと日本での経験から知っていた。





    (参考文献)

    ・John Perry (1874), An Elementary Treatise on Steam, Macmillan & Company.
    ・John Perry(1883), Practical Mechanics CASSELL & COMPANY.
    ・John Perry(1897), The Calculus for Engineers.(武田楠雄訳(1959)『技術者のための微分積分学』森北出版. )
    ・John Perry(1897), Applied Mechanics.
    ・John Perry (1900).ENGLAND’S NEGLECT OF SCIENCE.T. FISHER UNWIN.
    ・Perry, J. ed. (1901),‘ The Teaching of Mathematics, Discussion on the Teaching of Mathematics, Macmillan.(鍋島伸太郎訳(1936)『数学教育論』岩波文庫;丸山哲郎訳(1972)『数学教育改革論』明治図書)
    ・John Perry (1913), Elementary Practical Mathematics, London.(新宮恒次郎訳(1930)『ペリー初等実用数学』)

    なおペリーの著作の多くは、次のサイトからダウンロードできる。
    http://archive.org/search.php?query=creator:%22Perry,+John,+1850-1920%22


    ・三好信浩(1983)『明治のエンジニア教育:日本とイギリスの違い』中公新書695.
    ・小倉金之助訳(1998)『カジョリ初等数学史』復刻版3刷 共立出版.
    ・板倉聖宣(2000-2001)「ジョン・ペリーの生涯」『数学のたのしみ』No.20-23(日本評論社).
    ・小松彦三郎(2001)「なぜ数学は教育の中心にあるか(第43回総会講演)」 『理学専攻科雑誌』43巻1号,pp.176-203.
    ・公田 藏(2001)「John Perry と日本の数学教育」『数理解析研究所講究録』1195, pp.191-206.
    ・森山貴史(2004)「John Perryにおける数学教育目標論」『富山数学教育研究』Vol.4,pp.63-74.
    ・中西正治(2010)「ペリーの関数教育の考察 - 『ペリー初等實用數學』を通して」『三重大学教育学部研究紀要. 自然科学・人文科学・社会科学・教育科学』61, pp. 289-298.
    ・大下卓司(2011)「イギリスにおける数学教育改造運動」『京都大学大学院教育学研究科紀要』57: pp.435-448.




     いつでも旅立てるように、一切合財を二つのトランクにまとめて、眠りにつく。
     すんでのところでナチスの手を逃れて以来、レオ・シラード(1898〜1964)の習慣は生涯変わることがなかった。

     シラードはいつも移動していた。
     どの国にも、どの組織にも、どの町にも、そしてどの分野にも、落ち着くことなく。
     ひとつのところに腰をすえて積み重ねるよりも、次の扉を開ける方をシラードは選んだ。そしてそれを選び続けた。

     コスモポリタンな科学者コミュニティですら彼には狭すぎた。
     自らの成果を学術論文で著し同業の研究者たちの承認を得ることよりも、特許をとることの方をシラードは好んだ。
     知的営為にとって、大学を含めて〈組織〉に属することは決してプラスにならないと信じた。そして特許は組織に属しないための手段であると考えた。
     
     シラードが得た特許は多い。
     その中には、X線センサー素子を皮切りに、電子顕微鏡や線形加速器、サイクロトロン、ベータトロン、そして何より、中性子による核連鎖反応や人類初の原子炉となる黒鉛型原子炉、そして使用済み核燃料を再び核燃料にするための増殖炉などがある。
     友人だったアルバート・アインシュタインとは、液体金属をつかった冷蔵庫の特許をとっている。


    EinsteinSzilard.jpg
       アインシュタイン(左)とシラード(右)


     科学研究者としてのシラードは洞察力に富み、その尽きることなく沸きあがるアイデアに、誰もが舌を巻いた。
     一方、数学的才能については本人としても十分ではなく、おかげで理論的研究を諦めることになった。
     実験物理学を選んだものの生来の不器用者であり、なお悪いことに根気という才能を著しく欠いていた。
     地道な作業が必要となるとあからさまに興味を失った。
     のちに、世界初の原子炉「シカゴ・パイル1号」を共に完成させた、あの人格者フェルミにすら、怒りを買うこともしばしばだった。

     他人のために一切の見返りを求めず世界中を駆け回ることも辞さない徹底した人道主義者だったが、他人のすることに容赦できない度を越した自己中心主義者でもあった。
     愛すべき純粋さと傷つきやすい魂を持て余し、不誠実であるよりはむしろ無神経であることを選んだ。
     血を見ることに耐えられない平和主義者であり、世界政府や世界法による戦争の廃絶を本気で考えるほどの理想主義者であると同時に、人間に理想を重ねてみることのできず常に最悪の事態を予感し確信する極端な悲観主義者だった。

     そして悪いことに、時代はシラードの悲観主義の方を追いかけた。
     彼の絶望的予測はよく当たった。

     
     1920年代半ばにすでに、シラードはヴァイマール体制の衰退を予知し、世界恐慌の後にはナチスが政権をとるだろうと予想していた。
     そして1933年1月にナチスが政権を握ると、シラードは生涯続けることになる2つのトランクの荷造りを始めている。
     2月には、ベルリンやブダペストで友人や親族に対してヨーロッパからの脱出を呼びかけて回った。しかし、ほとんど相手にされなかった。
     しかし2月27日にあの国会議事堂放火事件が起こり、それを口実に共産党への弾圧がはじまった。シラードは放火事件はナチスの陰謀だと主張した。友人たち、たとえばマイケル・ポランニーは、その考えを杞憂だと笑って取り合わなかった。
     月がかわって、3月23日には全権委任法が成立し、ヒトラーによる独裁体制が始まった。
     3月30日、シラードはひとりオーストリア行きの列車に乗った。
     3月31日には国境で「非アーリア人」に対する取り締まりが始まった。
     
     1933年9月、ドイツから次々脱出してくる学者の受け入れ先を探し、また彼らへの支援を取り付けるためにヨーロッパ中を駆け回っていたシラードは、原子核を発見した核物理学の父アーネスト・ラザフォードの講演の記事を読んだ。ラザフォードは核エネルギーの利用を絵空事だと断じていた。
     シラードはそれを読んで、核エネルギーの開発と核戦争を描いたH・G・ウェルズのSF小説『解放された世界』(1914年)を思い出した。ウェルズの大ファンだったシラードは、この小説をドイツ語に翻訳するほど読み込んでいた。
     シラードは考え続け、ある日、ロンドン・サザンプトン通りの交差点で信号待ちをしている間に、ひとつのアイデアを思いついた。
     中性子(それは1932年に J.チャドウィックらによって発見されたばかりだった)を原子核にぶつけ、原子核からちょうどいい具合に中性子を飛び出させることができれば……、つまり飛び出た中性子が他の原子核にぶつかり、またその原子核から飛び出た他の原子核にぶつかり……と、連鎖的に反応を引き出す事ができれば、莫大な核エネルギーを取り出すことができるのではないか、というのが、その思い付きだった。

     ほとんど生物学研究の道を選びかけていたシラードはこれ以後、この核エネルギー(原子力)という(第二)のプロメテウスの火と伴走する。
     プロメテウス(Προμηθεύς/Promētheus)はギリシア神話に登場する、神々から火を盗み人間に与えた者であり、その名はpro(先に、前に)+metheus(考える者)、「先に/先を考える者」を意味する。
     
     シラードは中性子による連鎖反応のアイデアをまとめたが、アイデアがナチス・ドイツに洩れないように、それを論文として公表しなかった。かわりに特許を取得することを選び、亡命先だったイギリスで、軍にこの特許を譲渡し秘密扱いにするよう申請した。

    SzilardPatent.png

    (from https://www.google.com/patents/US2161985


     
     もっともこの時点でシラードは、ウランにたどり着いていなかった。
     亡命中の不安定な地位もあって、シラードは十分な実験を行う状況になかった。
     1936年にナチス・ドイツが条約を破棄して軍をラインラントに進駐させると、ヨーロッパ中が戦争になると確信したシラードは、大西洋を渡る機会をうかがった。
     1938年初頭、ニューヨークに赴いたシラードは、そのままこの地にとどまり、ヨーロッパに戻らぬことを決意する。
     
     ニューヨークで細々と実験を続けながら、未だ連鎖反応が生じる元素を発見できなかったシラードは、この頃には半ば連鎖反応は不可能なのではと思うようになっていた。
     そんな矢先、ドイツのオットー・ハーンらが、天然に存在するもっとも重い元素であるウラン(原子番号92)に中性子を照射し、その結果生ずる微量な反応生成物を注意深く化学分析して,ウランのほぼ半分の質量をもつバリウム(原子番号56)の存在をつきとめた研究を知った。
    かつてのハーンの共同研究者 L. マイトナーは,この実験結果を伝え聞くや,O. R. フリッシュとともに,この現象を,原子番号92のウランが原子番号56のバリウムと原子番号36のクリプトンに割れる核分裂として説明した。
     シラードはこれを聞き、自分が見当違いの場所を探していたことを知り、単なる核分裂ではなく、ウランを使えばこの反応を連鎖的に引き起こすことができると改めて確信した。
     そして恐怖した。
     なぜならドイツの研究者によるこの発見は、今や人類が手にし得る最大の力に、あのナチス・ドイツの手が届こうとしていることを意味するから。
     何とかしなければ。しかしアメリカで安定した地位を持たない自分に何ができるのか。しかし何とかしなければ。
     
     その頃、コロンビア大学には、理論物理学者としてベータ崩壊の理論を完成させ、また実験物理学者として自然に存在する元素に中性子を照射することによって40種類以上の人工放射性同位元素を生成していたエンリコ・フェルミがいた。1938年これらの業績によりノーベル賞を受賞したフェルミは、妻ラウラがユダヤ人であるため、ムッソリーニから迫害を受けていた。ストックホルムで賞を受け取った後、そのままアメリカに亡命したのだった。
     オットーらの核分裂実験を知り、フェルミもまた、ウランによる核連鎖反応の可能性を思いついたが、その可能性は低いと考えていた。
     
     シラードはイジドール・ラビとともに、コロンビア大学にフェルミを尋ね、連鎖反応の実験に取り組むよう強力に働きかけた。
     気乗りでないフェルミをなんとか口説き落とし、シラードもまたコロンビア大学で研究をつづけることになった。
     1939年3月、シラードのグループとフェルミのグループは、それぞれ別の装置を用いてウランの核分裂実験を行い、ともに複数の高速な二次中性子が放出されることを確認した。
     またしてもシラードはこの研究成果を公表しないことを主張し、他国で同様の研究に携わる者たちにもそれを求めた。
     しかしシラードの主張は科学者コミュニティに受け入れられず、まずフランスのフレデリック・ジョリオ=キュリーらがシラードの要請を断って同様の実験を公表した。こうなるとコロンビア大学でも、先んじて得ていた発見を公表しない訳にはいかなかった。間借りの居候にも等しいシラードには、フェルミや大学当局の主張を払いのけるだけの力がなかった。
     
     世界はこうして知る。
     ウランの同位体が得られれば、都市ひとつを消し去ることのできる原子爆弾を作ることが可能であると。知らせは、4月末にはセンセーショナルなニュースとなって、瞬く間に広がった。
     シラードはさらに急がねばならなくなった。
     
     シラードはアメリカ政府に繰り返し、ナチスが核爆弾を開発する危険性とそれに対抗するためアメリカでも強力な研究支援の必要とを訴えていた。
     しかし組織に属さない、風変わりな亡命科学者の主張は聞き届けられなかった。
     
     1939年8月には旧友アインシュタインに、ルーズベルト大統領宛に、ナチスの核開発の危険と研究の支援を訴え、アメリカの原子爆弾開発のきっかけのひとつとなったことで知られる手紙を書かせた。
     その一方、シラードは、プルトニウム生産のための原子炉の作成にあたっていたフェルミの助手として潜り込み、1942年12月2日、シカゴ市街にある大学構内の競技場に作られた世界初の原子炉「シカゴ・パイル1号」の臨界に立ち会った。

     世界初の原子炉「シカゴ・パイル1号」は1942年12月2日に臨界を記録した。
     先見者にして悲観主義者シラードはフェルミに対し、この時
    「この日は人類にとっての暗黒の日として記憶されるだろう」
    と言った。

     最高機密の性格をおびた大規模な科学者の戦時動員であるマンハッタン計画と、あらゆる意味で組織に属することができない知的自由人シラードの間に、軋轢が生じない訳がなかった。
     異なるグループのメンバーとは意見交換すら禁じるような、機密上のさまざまな制約は多かれ少なかれ科学者たちの反発を呼んだが、悲観主義すぎる理想主義者であるシラードの許容量は彼らよりはるかに低かった。加えて彼は、あからさまに楯突くことを選ぶ人間だった。
     対立は決定的なものになった。
     シラードから見れば、計画の秘密主義的運営こそが、研究の進展を遅らせ、ナチス・ドイツに勝利を連合国に敗北をもたらしかねない最大の障害だった。
     逆に軍関係者から見れば、シラードこそが、計画の運営に何かと逆らい、あろうことか声高にドイツの勝利を予言しさえする親ドイツな敵性外国人だった。
     計画の指揮官であるレズリー・グローヴズ准将は、シラードをスパイの容疑で戦争終結まで拘束することを主張した。
     逮捕拘留こそされなかったものの、シラードはマンハッタン計画から隔離され、軍の監視(盗聴や尾行)を受けるようになった。
     無論、シラードはやられっぱなしではなかった。
     シラードには、政府が遅れて研究に乗り出す前に取得した、核分裂など核エネルギーに関する特許があった。これを楯に取った要求に、管理者たちはしぶしぶシラードの復帰を認めざるを得なくなった。
     
     しかし先が見えすぎる故に移り気なシラードの関心はすでに次の問題に、つまりいかに核エネルギーを兵器に利用するかから、兵器として利用された核エネルギーをいかに監視・管理するか、に移っていった。
     連合軍が勝ち進む中、ナチスによる核爆弾開発の可能性が消えると、シラードは再びアインシュタインを通じて大統領とコンタクトを取ろうとした。かつては核爆弾の開発を促すために、そして今度は核爆弾の使用を思い留めようとするために。
     ここでもシラードはいくらか先を見ていた。
     日本に対して原爆を使用し、その存在が世界に明らかになれば、数年でソ連も原爆を開発し、両国を破滅させかねない核開発競争に突入する、というのがシラードの主張だった。
     アインシュタインの紹介状により大統領夫人(エレノア・ルーズベルト)との面会の約束を取り付けたが、実現より速くルーズベルト大統領は急死した。トルーマン大統領との接触工作からやり直し、バーンズ国務長官と会談が実現する頃には1945年の5月が終わろうとしていた。
     シラードは主張を説明したが、バーンズはソ連が合衆国より短い期間で核兵器を開発する可能性を理解できなかった。バーンズは、核兵器の使用がむしろ、対ソ連関係で合衆国が優位に立つことに繋がると考え、また爆弾を使用しなければ多額の資金を投じたマンハッタン計画の意義を議会に説明できないと主張した。

     1945年7月16日にニューメキシコ州のアラモゴード軍事基地の近郊の砂漠で人類最初の原爆実験(トリニティ実験)が実行された。この原子爆弾のコードネームはガジェット (Gadget) と呼ばれた。

    ・7月24日 - ハリー・S・トルーマン大統領、ソ連スターリン書記長に原爆開発を明かす。
    ・7月25日 - アメリカ空軍参謀総長のカール・スパーツ大将、広島、小倉、新潟、長崎のいずれかの都市に8月3日以降に原爆を投下するよう命令。
    ・8月6日 - ガンバレル型ウラン235原爆リトルボーイ、広島へ投下。
    ・8月9日 - 爆縮方式プルトニウム239原爆ファットマン、長崎へ投下。

     広島と長崎への原爆投下のニュースによって、シラードは自分たちの努力が報われなかったことを知った。
     戦争が終わっても、シラードの悲観は止まず、彼は行動し続けた。
     アメリカとソ連の科学者による討論によって、原子爆弾に関するソ連との協定づくりを狙ったり、マンハッタン計画に参加した科学者の原爆に関する発言が軍に封じられていることを新聞社に暴露した。
     水素爆弾の開発に反対を公言し、その理由としてコバルト爆弾のアイデアをぶつけた。水爆のタンパー(覆い)をコバルトに替えるだけで、長期の強い影響を残すコバルト60を含む放射性降下物が生じて、シェルターへの短期間の退避など役に立たなくなる、というのである。
     
     なおもシラードは、感心させたり当惑させたりしながら、科学者やその他の人びとの間を移動し続けた。


     彼の名を冠したジョークがある。
     物理学者が二人、立ち話をすれば必ず、どこからともなくシラードがあらわれて、話に割り込んでくるというのだ。
     1950年代、西側のひとかどの物理学者で、シラードと顔をあわせたことのないものはいない、とすら言われた。
     この現象を物理学者たちは「シラード効果」と呼んだ。



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    (参考文献)
    シラードの証言シラードの証言
    レオ・シラード,S.R.ウィアート,G.W.シラード,伏見 康治,伏見 諭

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