今回は嫌な感情に自分を乗っ取られそうになったときの対処法について。

     平常心とは、決して揺らがない石の心でなく、もう少しマシだった自分にいつでも立ち戻れることをいう。

     紹介するスキルは、いつにもまして特別なものではない。むしろ普段/自然に、多くは知らぬうちに、我々がすでに使っているようなスキルである。

     マインド・スキルというものは、知ってはいてもいざというとき使えないことが少なくない。特に悪感情に襲われそうになった場合には、リセット・スイッチを押すことはおろか、そんなスイッチがあることさえ忘れてしまうことの方が多い。
     
     では、人は悪感情に対していつも何の抵抗もなく心を明け渡しているかといえば、そんなことはない。
     たとえば精神的に追い詰められた人が、怒りを爆発させることがある。怒れる大人の多くは、恐怖や不安や傷ついた自尊心を覆い隠すために怒っている、といっても過言ではない。これは、恐怖や不安といった感情と怒りの感情が両立しないという人間の仕様を利用した対処法の例である。
     
     もちろん無意識に普段使いしているやり方がベストのものであるとは限らない。
     その場しのぎの即効的解決法は、長期的にはかえって問題をこじらせる副作用を持つ場合も多い。
     不安を怒りで紛らすことが習慣化した人は、自分や周囲の人間関係をほとんど常に怒りの炎で焼き続けてしまうかも知れない。気付いたら、人間関係の焼け野原にひとりきりということだってなくはない。
     もちろん、恐怖・不安と両立しないものは怒りだけではない。たとえば最初期に開発された行動療法である系統的脱感作法は、身体的弛緩が恐怖・不安と両立しないことを利用している。

     しかし今回は、感情に別の感情をぶつけるというガチンコなアプローチ(これらは難しく専門的なトレーナーを要する)以外のものを集めてみた。

     以下は、すでに使っている感情についての自分のスキルを思い出し、点検し、できれば善用するためのリストである。



    1 注意を変える

     不安や恐怖という感情は、推論という知的操作によって薪をくべられ燃え上がる。「もし〜となったら……」と未来を思い描くことなしに不安や恐怖は維持されない。
     このことを情報処理の面から見れば、不安や恐怖に陥る人は、ネガティブな未来予測に大切な認知リソースを消耗してしまい、他の知的作業に回せないことになる。平たく言えば、不安や恐怖によってアタマが悪くなる。情報処理能力が下がり、理解力が下がり、記憶力も下がる。
     より悪いことに、他の可能性を検討するための認知リソースも残らなくて、感情とそれを支える推論の悪循環から、ますます抜けにくくなる。

    circulus_vitiosus.png

     
     火を消すには、燃えるための条件を取り除けばいい。
     普通の火の場合は、温度を下げたり、酸素の供給をさまたげたり、可燃物を取り除いたりする。
     
     感情の火を弱めるには、その存続条件を除けばいい。悪循環ならば、そのループの連なりのどこかを弱めればいい。
     一つの方法は、注意という限りある認知リソースを別に振り向け、ネガティブな未来予測に費やされる分を減らすことである。



    (1)触覚に自分を譲り渡す

     思考・推論という高い水準の作業に振り向けていた注意を、より低い水準に振り向けなおす。
     一番簡単なのは触覚に注意を向けることだ。
     自分の置き所を、ぐるぐる思考の閉回路から、身体と外界の接触面に移すのである。
     
     「ライナスの毛布」が一番有名だが、触覚に注意を振り向けることで不安や恐怖だけでなく怒りなどの感情も沈める効果がある。
     いくらか時間が取れるなら、パンの生地をこねたり、粘土をいじるのもよい。

     しかしストレスフルな出来事は家の外にこそある。外出するのにいつも古い毛布やもふもふしたぬいぐるみを連れていく訳にはいかないし、ポケットにいつも生地や粘土を用意しておくのもあんまりだ。
     
     この効果は人間の仕様によるものだから、実は必ずしも、いつもの決まった毛布でなくても、手でもふもふしなくてもよい(いつもの決まった儀礼的行為は、それだけで効果が上乗せされはするが)。

     たとえば、座っていて手を膝の上に置いているなら、指先で触れている布の感触に意識を集中しよう
     頭のなかでどんな感触であるかを言葉にして実況中継してみるといい。悪い感情と悪い推論の連鎖が、いつのまにかゆるやかにほどけていく。

     集中するのはどの部分の触覚でもいい。顔に当たる空気の動きでも、腰を下ろしたソファの柔らかさでも、足がふれているカーペットの感触でも、普段意識していないものなら何でも利用できる。
     たとえばテスト中に我を失ったら、固く握り締めているペン軸の感触に一時的に意識を移すことで自分を取り戻せる。



    (2)聴覚の窓を開け放つ

     中には自分の感覚に意識を合わせることで悪感情のループに入っている場合もある。
     たとえば体に痛みがあり、それを和らげるために怒りを維持している場合などがそうだ。
     眠ろうと努力すればするほど、それに躍起になることで神経は興奮し、ますます眠りから遠ざかるのもそう。
     自分の状態に注意が向きすぎるなら、引き離そうと努めるよりも、別のこと=自分から離れたものに注意を移すのがよい。

    a.自分のそばの音を聞くことから始めよう。
      自分自身が発する音(鼓動、息の音)は避けた方がよい。

    b.次に、その音よりも、自分から離れたところから聞こえてくる、音を探す。

    c.次々により遠い音を探して、そこに意識を移動させることを繰り返す。
     たとえば部屋の中にいるときは、室内の音から始めて、室外の音に、そしてより遠い音に移っていく。

    d.目を開けてはじめても、音に集中していくと、自然に目を閉じる人も多い。
     目を開けていても、やがて何も見ていない(見えるものに気を止めない)状態になる。

    e.自分の状態と、自分の周囲の状況が気にならなくなったら、手元を見ることに戻ってこよう。



    (3)注意が必要な作業を始める

     まとまった時間が取れるなら、注意が必要な作業を行うことも使える。
     あらゆる作業はいくらか注意が必要だが、失敗してもどうってことないものがいい。
     
     勝ち負けにこだわらない場合のスポーツは、この条件を満たしている。
     たとえば飛んできたボールを打ち返すには、どうしたって注意を払わなくてはならない。
     
     体力なくて飛んだり跳ねたりが無理でも、たとえば片足立ちを続けたり、線の上から外れないように歩くことはできる。平均台から落ちれば痛いが、両足をついたり地面の上の線から外れても問題はない。
     
     手のひらの上に棒を立たせて、倒れないように頑張ってみる、というのもある。




    2 認知を変える

     我々の感情や行動は、我々が何をどう考えるかによって影響を受ける。
     ここまではいい。
     しかし自分の考えだからといって、必ずしも思い通りにできる訳ではない。
     ここが難しい。

     けれども思考を変えることはまるでできない訳ではない。
     実のところ、我々は普段から思考を変えることで感情の問題に対処している。
     この無自覚に行っている認知の変容からも、我々は学ぶことができる。



    (1)体験や感動のサイズを変える

     良い出来事を悪い出来事に、悪い出来事を良い出来事に、考えの方向を180度ひっくり返すのは大変だ。
     しかしその〈大きさ(サイズ)〉なら、我々は既に/普段から変えてしまっている。それが習い性になってさえいる。

     たとえばあなたは良い結果を出して、誰かが褒めてくれたり高く評価してくれたとしよう。
     慎み深いあなたは「いや、たまたまうまくいっただけですよ」とか「いや、もっとすごい人がいます。私なんか全然です」と口にしたり心のなかで言ったりするだろう。
     そうして喜び過ぎないように、良い出来事の大きさ(サイズ)を小さくしてしまう。
     加えてこうした割引行為は、日本社会だと〈謙虚さ〉として美徳の一つに数えられるので、周囲にも受けがよくて習慣化しやすい。

     しかしここでのポイントは、(誰もがとは言わないが)多くの人が、ものの見方を変えて感情をコントロールするスキルを、既に習得済みであるどころか常用さえしていることである。
     
     スキルとして自覚できれば、トレーニングすることだってできる。使いどころや使う方向を変えることもできる。
     似たようなことを言ってる人がいないか探してみると、ミルトン・エリクソンの弟子のひとりスティーブン・ランクトンが、そういうエクセサイズを奨めていた。

     日本の読者向けにいうと、ドラえもんの〈オーバーオーバー〉(てんとう虫コミックス第13巻、初出 小学五年生76年12月号)を毎日脱ぎ着してみるのである。
     体験の意義や意味を〈小さくする〉ことに慣れているなら、逆方向の〈大きくする〉を意識的にやってみる。心の前屈が癖になっているなら時には後ろに反ってみる。

     S(スモール)サイズの幸運や幸福な出来事を、〈オーバーオーバー〉を着てL(ラージ)サイズに感じてしまう人を想像する。そしてその人が何と言って感動するかをセリフにしてみる。
     アホらしい。
     ではSサイズの不運や不幸な出来事をLサイズに感じてしまう人は? そして自分が普段そうしていないと誰が言えるだろう。

     このオーバー・オーバー・エクセサイズには望外の効果がある。
     SS(極小)サイズの幸運や幸福な出来事を拾い上げることのできる感度が身につくのだ。なんだか毎日を丁寧に行きている幸せな人っぽいではないか。
     しかし好事魔多し。当然、SS(極小)サイズの不運や不幸な出来事を拾い上げることだってできるようになる。
     だが、このことは生活の質QOLをあまり悪化させない。何しろSS(極小)サイズだし、そいつらを見下ろすことだってできるからだ。
     我々を苦しめるのは、不幸というよりも、見上げてなくてはならないような我々を圧倒するほどの不幸の大きさだったことを知る。



    (2)誰かの視点から眺める

     Lサイズの出来事をSサイズにしてしまうことで思い出した。
     
     漫画家の水木しげるは、何百年生きる妖怪から見れば人間の悩みなんてどうってことない、みたいなことをどこかで言っていた。

     妖怪の視点に立つことが無理でも、他の人の視点から物事を眺めるぐらいだったら何とかなるかもしれない。

     映画監督のビリー・ワイルダーは、師匠のエルンスト・ルビッチの名前を入れたモットーをオフィスに掲げていた。


     How would Lubitsch have done it?
    (ルビッチならどうする?)




     マイケル・マハルコはもっと贅沢に、伝説の名経営者や歴史上の偉人たちからなるドリーム・チーム的な役員会(賢人会議)を想像して、そこに重要な案件を検討してもらうという発想法を紹介している。「◯◯たちならばどう考える? How would ◯◯ have thought it?」という、複数人分版だ。
     そう想像するのだが、あなたが招集したい偉人たちが口にした名言や著作からの引用などを普段から集めておくと、この作業はやりやすい。ビジネス向け私淑である。


     たとえ偉人で無くても、誰か他の人の視点で考えるエクセサイズを普段からしておくことは役立つ。
     ピンチの時、たとえばジェームズ・ボンドなら余裕を持ってこの危機に冷静に対処できる(はず)と考えても、そうできない自分を落ち込ませるだけかもしれない。
     むしろ些細なことに動揺しまくって際限なくモノを落としまくるウッディ・アレンを思い浮かべた方が心の慰めになる気もする。
     慰めにならなくともウッディ・アレンを思い浮かべた時点で勝ち負けで言えば勝ちだ。

     誰の視点に立つかは、それまで重要ではない。有能そうな人間のマネをしているつもりになっても賢くなっているわけではない。

     しかし(自分でない)誰かの視点に立つだけで、我々はいくらかの冷静さを取り戻すのである。



    (3)間MAをあける(MA:Moments of Awareness)

     問題状況にはまり込んだ自分から完全に抜け出すことは不可能でも、自分の向きを変えることならできるかもしれない。
     
     いくつか方法があるが、簡潔に洗練されたものに、以下の方法がある。
     
     問題状況と自分の間に隙間をあけて、向きをかえるためのスペースを生み出す。
     欠点は、多くのマインド・スキルと同様に、このテクニックを知っていても、悪感情に我を忘れてしまい使うべき瞬間には思い出せないことが多いことだ。
     テクニックを使うことを思い至れるほど冷静になれるならば、ほとんど問題は解決しているじゃないか、という批判もある。
     
     それでも紹介する理由は、実際に使えなくとも、利用可能なテクニックが存在すると知っているだけでも、自分を取り戻すことに少しは役に立つからだ。
     「ああ、さっきこの手を使えばよかった」と事後的に思い出すことを繰り返すうちに、少しずつだが必要な場面で使えるようにもなる。


     テクニックは3つの自問用の質問と深呼吸を伴う1つの自分への指示からなる。
     
    (質問1)今この瞬間に何が起きているのだろうか?
      (次の補足質問を加えてもいい)
          ・私は今何をしている/感じている/考えているのだろうか?

    (質問2)今この瞬間に私は何を望んでいるのだろうか?

    (質問3)今この瞬間に自分が望む結果を手に入れることを私は邪魔していないだろうか?
      「私は〜〜を選ぶ」と自分に言って問いかけを終える。

    (深呼吸)深呼吸して、前に進もう


     たとえばこんな風にして使う。
     
     プレゼンや発表の後、質問者から自分が知らない文献やデータがひどく重要なものとして紹介され、あなたのプレゼン・発表との関連について尋ねられた。
     第三者として見ればたいしたことのない状況だが、プレゼン・発表だけで一杯一杯だったあなたは軽いパニックに陥る。頭は真っ白、あくまで友好的な質問者の表情さえも、あなたの無知を嘲笑しているみたいに感じてしまう。自分の不勉強・準備不足がうらめしい。こんなことも知らないなんて聞いている人はさぞかし自分を馬鹿だと思うだろう……。
     しかし幸いにしてパニックになったら見るようにといわれたカードを手元に置いていたことに気付くことができた。

    (質問1)今この瞬間に何が起きているのだろうか?
    →(答1)私はプレゼン・発表中である。答えられない質問を受けたせいで、今まさにパニックに陥っている。


    (質問2)今この瞬間に私は何を望んでいるのだろうか?
    →(答2)私は無事にプレゼン・発表を終えることを望んでいる。この質問タイムが過ぎれば終えることができるのに。


    (質問3)今この瞬間に自分が望む結果を手に入れることを私は邪魔していないだろうか?
    →(答3)邪魔している。私はここにもう居たくないのに、私が何か話さないと質問は投げられっぱなしで、この場に縛り付けられたままだ。司会だって終わりにすることができない。何か言えば、持ち時間は来ている、終了だ。私は、答えられないにしても何か話すことを選ぼう。



    (深呼吸)深呼吸して、前に進もう

    →スーハー、スーハー、スーハー。「ご、ご質問ありがとうございます。大変興味深いのですが、簡単にお答えできるほど、よく理解できていないのが残念です。できれば後ほど詳しくお話できたらと思います。」





     〈間をあける〉の中の3つの質問は、問題を解決する魔法の言葉ではない。
     考え方の向きをほんの少し変えるために、問題と自分の間に、少しの隙間をつくるためのものだ。
     
     困難の真っ只中にいる人には全世界そして過去現在未来のすべてが敵(どっちを向いてもダメ、いつまでたってもダメ)に感じられるものだ。
     しかし将来にわたって全面的に苦境が広がっているとしても、対することができるのは今ここの一点だけである。
     だから(質問1)は、自分が困難に接している、今現時点のこの一点に、自分を連れ戻す。
     (質問2)で、大きな問題の方ではなく、ささやかな自分の欲求の方へ自分を連れ戻す。
     そして(質問3)で、ささやかな欲求を実現するための、自分の中にあるかぎりの障害に目を向けさせる。今この瞬間に変えることができるのは、全世界の中で自分だけだから。
     こうして最も小さいフィールド〈今・ここ・自分〉で実施可能な最低限の方策に立ち戻させるのだ(たとえば「もっと勉強すればよかった」という時間的に長期に関わることは、その通りだとしても、今ここで考えることではない)。



    (4)推論のはしごを降りる

     技法としてはこれまでのものより大掛かりであり、とっさに使うためのものではない。
     本来は、相容れない相手や理解できない信条をもつ者や行動をする者と折り合うためアプローチであり考え方である。

     しかし〈自分〉という時々相容れなくなる相手と付き合うにも有用であるので紹介する。 


     我々が「事実」として受け取り、取り扱うものはすでに推論やさまざまなデータの統合した人工物である。

     たとえば同僚たちが大勢いる中、あなたは上司に厳しい口調で叱責されているとしよう。
     この情景をビデオカメラで撮影したものを、異なる惑星の我々と組成の違う知的生命体(たとえばアンモニアベースの体液が流れ、メタンガスを呼吸し、音波ではなく臭いを放って互いにコミュニケーションをとる知的生命体)に見てもらうとしよう。激しく揺れながら音を発している上下に長いたんぱく質の塊(これが上司だ)の近くに、あまり動かないより小さなたんぱく質の塊(これがあなた)が見える。その向こうに、同種のたんぱく質塊がいくつか(これらが同僚)あるのは分かるが、それだけだ。
     〈怒り〉や〈叱責〉といったものは、この情景を文化的に解釈して(あるいは文化的解釈を当てはめて)はじめて認識することができるものである。
     
     我々はこうした解釈をほとんど意識せず自動的にやってしまうが、〈生の事象〉に何重ものかぶせられる解釈や推論を、細かく分けてみると以上のようになる。
     
    ladder_of_inference.jpg

    (下から上へ)
    1.(ビデオに記録できるような、生の)observable data
    2.事実の中から自分が注意を向け選択したもの selected some details
    3.その選択された事実に、自分が付け加えた意味 added meanings , based on the culture around me
    4.その事実の意味に基づいた推論 assumptions based on the meanings
    5.推論から導かれた結論 drawed conclusions from the assumptions
    6.結論から生まれた確信 beliefs about the world
    7.確信に基づく行動 actions based on my belief


     同じ場面に置かれても、そのどこに注目して意識するかは人と場合によって異なる(ことがある)。
     同じものに注目しても、それにどんな意味づけを与えるかは人と場合(とくにその人がどんな文化の内にいるか)によって異なる(ことがある)。
     同じ意味づけを与えたとしても、それを元にどんな推論を行うかは人と場合によって異なる(ことがある)。
     同じ推論をすすめたとしても、そこからどんな結論を得るかは人と場合によって異なる(ことがある)。
     同じ結論を得たとしても、そこからどんな信念が生まれるかは人と場合によって異なる(ことがある)。
     同じ信念が生まれたとしても、どんな行動に及ぶかは人と場合によって異なる(ことがある)。

     先の「同僚たちが大勢いる中、あなたは上司に厳しい口調で叱責された」にもどってみよう。
     あなたは感覚データの中から、上司の表情や声(と言葉)に注目する。周囲に同僚がいることにも気付いている。
     注目した事柄から、上司が怒りを覚えていること、その怒りの矛先が自分に向けられていると解釈する。こうして「上司に厳しい口調で叱責されている」という認識ができあがる。
     しかしあなたの認知プロセスはここで止まらない。さらに「同僚たちが大勢いる中で叱責した」という側面が合わされ、「ただ叱責するだけなら他に誰もいないところでできたはずだ。上司はわざと自分に恥をかかせようとしているのだ」と推論する。
     これまでの上司とのネガティブなやり取りを記憶から引っ張り出され、「上司は自分を嫌っているのだ」という結論や、さらには「こいつは部下の叱り方も知らない冷酷な人非人に違いない」「こんな奴が出世するなんてこの会社は~」という信念にまで行き着くかもしれない。
     
     強い感情を帯びた推論や信念をとっさに対象化して分析するのは、大抵の人間にはまず不可能である(あえて言えば、状況を宇宙人として眺めるやり方は、独立して採用できるかもしれないが、これは先に述べた(2)誰かの視点から眺めるの一バリエーションである)。
     
     時間をおいてでさえ、自分の強い感情を帯びた推論や信念を対象化して分析することは難しい。
     強い感情を向けられた相手になっている場合も無理だ。
     岡目八目、激しい感情のやり取りから第三者的な距離をとれてはじめて分析は可能となる。
     自分自身の感情については、安全圏に逃れ、十分時間をおいて頭が冷えてから、怒りの内容を書き言葉など外に出してみて、さらに時間をおいて見直してみるなど、何重にも距離を置く工夫がいる。
     
     しかしまるで不可能かというとそうではない。
     いきなりはできなくても、少しずつトレーニングすることは可能である。

     自分や身近な相手について分析するのは難しいから、まずはまるっきりの赤の他人についてやってみるのがいい。
     激しい感情(例えば怒り)を表している人を選び、どんな推論のはしごを上りつめて怒っているかをステップごとに考えてみるのだ。
     分析結果を相手に伝えると間違いなく仲違いにつながるから、最初は対面しようがない、フィクションの登場人物や三面記事で報道されている人など、結果を伝えようのない相手を選ぶ。
     
     激しい感情(例えば怒り)を持っている人について、次のことを考え書き出していく。
     
    ・何を信じて怒っているのか?
    ・どんな結論を得て、そう信じているのか?
    ・どんな推論を経て、そう結論したのか? とくに、今その場で起こっていないどんな出来事と結びつけたのか?
    ・どんな意味づけを元にして、そうした推論は行われたのか?
    ・どこに注目して、そんな意味づけをしたのか?
    ・元の出来事について、映像と音声だけで記録できるのはどんなことか?

     
     もちろん当てずっぽうになるが、分析結果が正しいことよりも(心理描写のちゃんとした小説などを素材にすると〈答え合わせ〉もできなくはないが、作者が何らかの〈答え〉を提示しているとしても、それもあり得る解釈のひとつである)、出来事から感情までの間に何段階ものステップがあることを体感することの方により大きな意義がある
     段階があることを実感できれば、怒りの理由をつかまえて他人に伝達可能な形で表すための道筋が開けるからだ。
     出来事が自分をダイレクトに怒らせるのだ(←受身・自発の助動詞が用いられているのに注意)、という者と、出来事について自分はこう考えた、その意味をこう受け取ったから怒っているのだ(←私を主語とする発言に変わっている)、という者とは、雲泥の差がある。