『私はこうして◯◯語をマスターした』という本は腐るほど存在する。
     
     しかし、言語学習の研究者によれば、北米では研究者が複数の学習成功者の体験を収集し分析することはあっても、個人の学習履歴を本人が書籍にまとめることはほとんどない。
     ヨーロッパではロンブー・カトーの記録などいくつか例はあるが、毎年複数冊が出版される日本のような盛況には程遠いという。
     
     大量の語学学習成功者本は、他にはない貴重なデータ群であると言える。
     
     竹内理(2003)は、この種の著作120冊のうち97冊を入手し、普通の語学学習者の参考となる体験を得られるよう下記の7つの条件を満たすものを選び出し、著作のみでは情報の不足する場合については他の出版物、経歴表、本人への確認などで補完することで学習記録のデータを集め分析した。
     最終的に分析対象となったのは69冊、のべ185名(うち16名は重複)となり、対象言語は英語(101名)を筆頭に、アラビア語、中国語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、日本語,朝鮮語、ロシア語、スペイン語、タイ語であった。
     
    (選別条件) 
    1.著者の信念ではなく経験がベースになっていること
    2.学習方法に関する記述が具体的であること
    3.著者の高い外国語能力がなんらかの手段で確認できること
    4.著者が11~12歳以降に日本(あるいは対象言語が外国語となる地域)で本格的に学習をはじめたこと
    5.著者の留学経験が学習の初期~中期段階でほとんどないこと
    6.著者がETLL(例外的高度外国語学習能力保持者Exceptionally Talented Language Learner 。全人口の5%程度の割合で出現する*)ではなく、また特殊な外国語教授法も受けていないこと
    7.著者の家庭・教育環境にバイリンガル的要素がないこと

    *Seliger, H., Krashen, D. and Ladefoged, P. (1975). Maturational constraints in the acquisition of a native-like accent in second language learning. Language Sciences, 36, 20-22.
    Selinker, L. (1972). Interlanguage. International Review of Applied Linguistics, 10, 209-231.



     多くの資料を集めることで、特異で奇抜な学習法は背景に退き、多くの成功者に共通する学習ストラテジーが抽出される。
     その中には、北米の第二言語習得研究では、ほとんど重視されない「音読」のような方略が含まれる。

     体験本研究を含む語学学習成功者たちの研究が示唆するところも、次のような突飛なところのない、ありふれた結論となるが、普通の努力を出し抜ける方略(「ユダヤ人の秘訣」)をつい求めがちな我々にとっては、戒めになり励ましになるだろう。
     
    ・ありふれたことを挫折せず、 きちんとこなしておれば、 相当に高いレベルまで外国語を習得できる
    ・北米での研究をそのまま日本に移植してはならない
     
     以下、竹内理(2003)から、いくつかの項目を紹介する。
     


    発音ーまず音から入る

    ・「それこそ何百回となく繰り返し聞いて、発音、イントネーション、母音と子音の使い分けなどいろんな方法で分析して真似てみた」

    ・「(聞き、まね、繰り返したのち)自分の発音をテープに録音し、ネイティブスピーカーとの違いをチェックする」「(ネイティブ並になるまで)繰り返して練習を続ける」

    ・「ラジオでアナウンサーが今しゃべっているのを追いかけて、そのとおりにすぐいうの」「耳から今聞いたばかりのアナウンサーのきれいな発音を、そのとおりに復唱するわけ」



    ……多くの体験本が、発音に対して強い関心を持ち、外国語学習をまず音から入るべき、と主張する。これは語学学習の成功者の体験を分析した他の研究とも一致する。
     たとえばPurcell & Sulter(1980)は、発音の正確さにどれほどの関心を持つかが、ネイティブ並の発音能力を身につけられるかどうかの予測指標になるという。




    リスニングー聞き流しはまだ早い/画像は邪魔になる

    ・「テープを聞き流さないで、真剣に何回も何回も「深く」聞く」

    ・「聞き取れないところをそのまま聞き流すのではなく、テキストを理解した上で、何度も聞いたことで、効果が上がったのでしょう」

    ・「なまじ映像の助けがあると、耳がおろそかになりやすく、画面を見てnewsを聞き取れた(理解できた)と錯覚しやすいのである」



    ……初期から中期にかけては、聞き流して分かった気分になるよりも、できるだけ細かく聴き、聞き取った言語材料を確認する作業が重要である、という。また映像などの視覚情報が必ずしもリスニング向上の助けにならないことは、他の研究(例えば竹内2000、第3章など)とも一致する。




    リーディングー分析的に読む、母語を介さず読む

    ・「難解な文に出会ったらぶつ切りにしてその構文などをしっかりと把握しましょう」「読み飛ばしているといつまでも理解力は伸びません」

    ・「読解力を養うには速読によって大意をパッとつかむ訓練と、一字一句にこだわり正確さを期する訓練と双方から攻めるべきだろう」

    ・「(成功の秘訣は)水準の高い英文を毎週大量に読んだことだと考えています。もちろん、読み方は英語→日本語の訳読ではなく、英語を英語のまま理解するよう努力しました」


    ……〈分析的に読むこと〉と〈大意をとりながら読む〉ことは相反する要素を含んでいるが、学習段階や使用場面に合わせた使い分けがなされている。〈分析的に読むこと〉はリスニングにおける〈深く聞く〉に対応しており、学習段階の初期から中期にかけて使用されたことが報告されている。その後は〈大意をとりながら読む〉が優勢となっていく。




    音読ー語学のインフラ整備

    ・「最初から発音と音読を徹底して教えられた」「自宅でも繰り返し音読して、それがからだにしみついた」

    ・「音読と暗記はさけて通れない」「(音読は)暗記するつもりではなく、意味をこめて読むことが大切なのだ。この作業を1日4-5課分(または10分~30分)、毎日続けることだ」

    ・「次の日に学校で習う部分を何回も声を出して読み、学校から帰ってたらその日に学校で習ったところをまた何回も繰り返し音読した。同じ箇所を百回ぐらい読んだと思います」

    ・「ズラっと一行の文章が並んでいると、すぐそれを発音してペラペラと読んで、幾度も繰り返して、おしまい頃には、二行か三行までの文章なら、すぐ目をつぶってそれを暗記でいえたものです」


    ……音読は、単に読むことよりも、外国語の基礎力を作るための方略として、繰り返し登場する。音読されたものが内化され、アウトプットの際の資源となり、また間違えた外国語をみるとおかしい感覚を抱くためのリソースともなっている。



    スピーキングー例文の暗記と活用

    ・「強い意欲と、単純でばかばかしいまでの暗記(800程度の文型を覚えたこと)。この二つこそは、外国語を習得する上での必修の条件ではなかっただろうか」

    ・「英語をお経のように唱えて勉強した。一つの基本文型を基に、否定文・疑問文・付加疑問文・受動態・未来形・過去形・現在完了形……と、パタン変化が今でも口からスラスラ出てくる」「私の場合は、言葉が瞬間に出てくるように自分を造った」

    ・「暗記によりセンテンスパタンの引き出しをこしらえる。どの引き出しをいつ引っ張り出すかを、練習するのです」



    ……体験本には、コミュニケーション志向の〈新しい〉(とはもはや言えないが)言語習得観に対して、〈古い〉タイプの基本文型の暗記や反復を重視するものが多い。
     竹内はこの点について、教室の外で目標言語が話されている第二言語習得を主に対象としてきた北米の言語学習研究(これを背景に日本の英語教育はコミュニケーション志向へと転換した)と、教室の外で自然に目標言語に触れる機会のない外国語習得との違いに着目している。




    ライティングー読まないと書けない

    ・「読む、書く、の繰り返しによって、作文能力は上達していくのである」

    ・「多数の本を読むうちに、自然とその文体が身についたのである」

    ・「類似の表現をした他の著者の文章をできるだけ多く集めてそれを加工することにした」「英語らしい表現のストックをすこしでも多くふやすことである」


    ……ライティングについてのインプットの重要性が強調される。大量に読むことなしに、まとまった文章は書けないというのが、多くの体験本に共通してみられる指摘である。





    ボキャブラリーー一定レベルまではとにかく増やす

    ・「一定以上の語彙力を持たねばそれ(外国語の習得)を実現することはできません」

    ・「語彙力が一定レベルにまで達しなければ、語学力が日の目をみることはない」



    文法ー大人の学習者の武器

    ・「文法にくわしい教科書を読むことにした。すると、それまでランダムに入っていた単語(の使い方)が、見事に整理されていく。まるで霧が晴れ、視界がひらけていくような感じがした」

    ・「頭で納得するということが、大人の学習者にとっては重要な要素なのである」

    ・「(成人の英語学習には)英文法ができるかどうか、致命的に重要なポイントであると思う」


    ……体験本は、単語や文法の、意識的学習を排除しない。むしろ積極的にその意義を認める傾向が強い。受験英語に見られる、文法を自己目的化することを批判することは忘れないが、コミュニケーションの足場として文法を捉え、学習に活用している。




    メタ認知ー学ぶことを見つめること

    ・「外国語を学習している動機を明確にすることである」「使える機会があれば意識的にどんどん使うようにしている」「(上達の秘訣は)できるだけ多く外国語に接する時間を作り出すことでもある」

    ・「一日に最低一時間を優先的に確保し、こつこつ自分で努力するほうがより経済的、効率的」

    ・「明確な目標が強烈な動機となって、やる気をおこさせる。しかも、何段階にも小刻みに設定された目標のほうがよい」


    ……体験本で最も優勢な指摘は、学習方略のなかで〈メタ認知方略〉と呼ばれるものに分類される。
     語学学習の体験を自ら書きあらわすことそれ自体が、語学学習のメタ認知的方略を実践していることであるのだが、学習者自らが目標を設定し、環境を整備し、活動を行い、その成否の責任を負うという自律的学習Autonomous Learningの基礎となる〈メタ認知方略は、そのパフォーマンスの点でも、最重要なものである。
     〈どのようなやり方で勉強するか〉という個別の学習方略よりも、〈自分にあった学習方法を見つけ出し活用する〉というメタ方略の有無を見た方が、その学習者の成否をよく予想できるくらいである。
     というのも、失敗する学習者は例外なく、この〈メタ認知方略〉がダメだからである。


    (文献)
    ・Purcell, E. T. and Suter, R. W. (1980), PREDICTORS OF PRONUNCIATION ACCURACY: A REEXAMINATION. Language Learning, 30: 271–287. doi: 10.1111/j.1467-1770.1980.tb00319.x


    ・竹内理編著(2000)『認知的アプローチによる外国語教育』松柏社


    認知的アプローチによる外国語教育認知的アプローチによる外国語教育
    (2000/01)
    竹内 理

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    ・竹内理(2003)『より良い外国語学習法を求めて : 外国語学習成功者の研究』


    より良い外国語学習法を求めて―外国語学習成功者の研究より良い外国語学習法を求めて―外国語学習成功者の研究
    (2003/12)
    竹内 理

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    ・竹内理(2007)『「達人」の英語学習法 : データが語る効果的な外国語習得法とは』草思社


    「達人」の英語学習法―データが語る効果的な外国語習得法とは「達人」の英語学習法―データが語る効果的な外国語習得法とは
    (2007/11/23)
    竹内 理

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     ……上の本の内容を、英語に絞り、読みやすくしたもの。



    わたしの外国語学習法 (ちくま学芸文庫)わたしの外国語学習法 (ちくま学芸文庫)
    (2000/03)
    ロンブ カトー

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    少女:数学はどうやって勉強してるの?
    少年:得意じゃないから、語学とほとんど同じ。というか第二言語のつもりでやってる(Mathematics as a Second Language)。
     
    読書猿Classic 数学にはネイティブはいない:「語学としての数学」完全攻略=風景+写経アプローチ 読書猿Classic  数学にはネイティブはいない:「語学としての数学」完全攻略=風景+写経アプローチ このエントリーをはてなブックマークに追加

    少女:まえに、200ページくらいのテキストを用意して、目次を見て、全体をざっと見て…といってた、あれ?

    図書館となら、できること番外編/マイナー言語のBookishな学び方 読書猿Classic: between / beyond readers 図書館となら、できること番外編/マイナー言語のBookishな学び方 読書猿Classic: between / beyond readers このエントリーをはてなブックマークに追加


    テキストは〈分かる〉系より〈解ける〉系

    少年:そう。最初はなるべくコンパクトな本を使う。一冊で分からないところが他の本を見ると分かることがあるから、手に入るだけは確保するのも……
    少女:語学のときと同じ?
    少年:うん。ただマイナー言語とは違って数学関係の書籍はたくさんあるから、なんでも集めろってことにはならないけど。数学だと教科書未満の入門書は2種類に分けられる。勝手に〈分かる〉系と〈解ける〉系と呼んでるんだけど、最初は〈解ける系〉の本をメインにして、〈分かる〉系はサブにする。
    少女:その〈分かる〉系と〈解ける〉系って何?
    少年:〈分かる〉系は、その数式で何やってるか分からない、イメージ沸かないという人向けの解説本。〈解ける〉系は、イメージがどうのというより、試験があったりしてとにかく問題が解けないと困る人向けの本。受験参考書や「単位がとれる」みたいな奴がこれ。傾向の話なんで、どっちの要素も含む本もたくさんあるけど、ページ数が少なくしようとすると、どっちかに特化する。
    少女:なんで〈解ける〉系をメインにするの?
    少年:数学は「分からない」と思ってる人が多いんで、一般向けの数学書は〈分かる〉系の方が強い(もっというと、ただの〈慰め〉だったり〈糖衣錠〉にしただけのものが圧倒的に多い)。でも、分かった気になっても、解けないとそれっきりで数学と継続的な関係を取り結べないし、理解といっても「お話」レベルに終わっちゃう。もひとつ言うなら、それだと速やかに忘れてしまう。



    理解は遅れてやってくる

    少女:えー、じゃあ〈解ける〉系だと?
    少年:問題を解けるようになるための反復練習になる、というか、にする。語学の比喩をつかっていうと、外国語の単語を見て瞬時に思い出せないと、段々読むのが面倒になってくるでしょ? それに思い出すのに頭を費やすと、内容を理解するのに回せる/使える認知資源が少なくなって理解度も落ちる。数学だと、公式とか計算の仕方みたいなのがこれに当たるから、頭使わなくても解けるくらいにしとくと、込み入った展開を追うのでも、理解する方に頭の能力をより多く割ける。理解のために必要な認知資源を確保するための反復練習=自動化、というか。
    少女:やっぱり覚えた方がいいの?
    少年:よくある言い回しの丸暗記だけでも、とりあえず会話入門にはなる。というよりも、考えずに反射的にフレーズが出てくるまでパターン・プラクティスをやらないと、文法知識だけだと畳の上の水泳に終わっちゃう。うまくいかなくてモチベーションも下がるかもしれない。
    少女:それはそうかも。
    少年:ただ〈分かる〉が追いついてこないと、知識の関連付けが弱くて、応用が効かなかったり、テストが終わると急速に忘れたりもするけど。あとやっぱり〈解ける〉けど〈分かる〉までいってないと、なんだかもやもやする。それが〈分かる〉へ向かうモチベーションにもなるんだけど。その〈もやもや〉にたどり着いて、〈分かる〉が追いついてくるまで居続けるには〈解ける〉ことが必要なんだ。
    少女:「〈分かる〉は後から追いついてくる」って信じてた方が、暗記数学でも少しはやる気が出るかな。



    薄い〈読み〉を塗り重ねる

    少女:〈分かる〉系なら、なんとか読めそうな気がするけど、解くのって大変じゃない? テストじゃないけど、自分のアタマを試されてるみたいなプレッシャーもあるし。解けないと落ち込んで、結局挫折したりとか。
    少年:挫折しないためには、〈分からなくて苦しいから辞める〉というコンボをどこかで断ち切りたいけど、〈分からない〉対策と〈苦しい〉対策と〈辞める〉対策があるんだけど、はじめのうちは、表面をさらうように軽く〈飛ばし読み〉を繰り返すんだ。〈苦しい〉対策と〈辞める〉対策の二つに重点を置いて、「分からなくて当たり前、分からなくても先へ進もう」って感じかな。もちろん、あとで言うように理解も助けるから〈分からない〉対策でもあるけど。
    少女:? 軽く〈飛ばし読み〉ってどういうこと?
    少年:どんどん飛ばしていいから、とにかく最後まで行け、ということ。最初は目次を読んで、その次は大見出しだけ最後まで読む、とか。
    少女:じゃ見出しを読み終えた後は、どこ読むの?
    少年:繰り返し読むうちに、段々と細かいところまで踏み込んでいくんだけど、ぶっちゃけていえば、その時点(の自分の実力)で分かるところだけ拾って読む。いや、最初は「どこなら分かりそうか」を探すだけでもいい。これだと「分からないところがある」のが前提になってるから、〈分からない自分はバカ〉という無力感で挫折することが少ない。「完全に分かる/全く分からない」の二分法(白黒思考)や「全部わからないとダメ」みたいな完璧主義に陥らなくて済む。
    少女:でも、そんな薄い読み方、いくら繰り返しても理解につながらないんじゃない?
    少年:そう思うだろうけど、繰り返していくと、分かる部分が少しずつ増えていく。実験したいなら、1章とか1ページとか問題1つとか、短い分量を相手に〈分かるところだけ読み〉を、そうだな7~10回くりかえしてみるといい。ただ読むよりも書く方が効果が大きいから実感しやすいかも。あ、問題は解答とまとめて一つと考える。
    少女:うーん、ほんとかなあ。



    〈分からない〉に足を止めない

    少年:分からないところで立ち止まらないのは、理解は時間差で遅れてくることが多いから。納得できなくても、いろいろやっているうちに、後になってストンと胸に落ちるとか珍しくない。たとえばある定理の値打ちが分かるのは、それを応用して、他のやり方だとめちゃくちゃ面倒だったこととか、一見して大変そうなことが、簡単に解決できた時だったりする。テキストの構成でいうと、こういうのはその定理の初登場から見れば、もっと先に書いてあることなんだ。
    少女:応用で値打ちが分かるというのは、そうだと思う。あ、ひょっとして、それで〈解ける〉系の本がメインなの?
    少年:そう。〈分かる〉系の本は、面白い話を受け取って楽しめるけれど、応用したり自分でいろいろやってみること、ひっくるめて言えば〈体験〉が足りない。むしろ、いろいろ〈体験〉してみた後に〈分かる系〉の本を読むと、「ああ、あれはそうだったのか」となりやすい。
    少女:今のは分かった。テキストも終わりまで先に目を通しておいた方が、この定理が何に使われるかとか知っておくことができたりして、今やってることの意義とか意味とか文脈が分るってことよね?
    少年:うん。このやり方の元ネタは、ライプニッツが12歳で教師も辞書もなしにリウィウスが書いた『ローマ建国史』を、分かるところだけ拾い読みするのを繰り返し、ラテン語が読めるようになったエピソードなんだ。ライプニッツは哲学、微積分から法学、歴史、神学、言語学と何でもやった人だけど。
    少女:でも分からないところを飛ばすって、なんか罪悪感ない?
    少年:分かるけど、難しいって悩んだり無力感に苛まれたりするのって、そもそも脳のパフォーマンスを下げることなんだ。短期的には余計に理解しづらくなるし、覚えられなくなるし、学習効率は下がる。長期的には、学ぼうとする度に繰り返し不快な感情を浴び続けたら、誰だって学習意欲は下がるし、学ぶことをやめちゃうよ。



    ささやかだけど、やくにたつこと

    少女:うーん。勉強ってそもそもつらいことだと思ってた。
    少年:どのみち長距離走(マラソン)なのに、そこに崖上り(ロッククライミング)まで混ぜなくてもいい。できないことに正面からぶつかるかわりに、今できる簡単なことに細分化(ブレイクダウン)したり変換して取り組むのって、勉強以外なら、たとえば仕事をやる場合なら当たり前のことだと思う。
    少女:でも、今のやり方だと問題を自分で解いたりしないんだよね。大丈夫なの?
    少年:最初はね。繰り返し読んで、分かる部分を増やしていって、やれそうになったら問題を解く。
    少女:それって、問題も解答も何度も見た後だから、解けて当たり前じゃないの? 数学なんて解き方覚えればいいんだ、ってやつ?
    少年:ちょっと逆説っぽいけど、解き方を覚える一番良い方法は、自分で解くことなんだ。最初から解けるなら、そのルートを選択すればいい。なだらかな坂道にザイルはいらない。でもその問題を解くことが〈今自分ができること〉を越えているなら、今できるささやかなことをとにかくやる方がずっとましだ。少なくとも、やめてしまうよりは。
    少女:自力で解けない人も、答えを読むことくらいはできる、ってこと?
    少年:他にもいろいろある。答えを書き写すことだってできるかもしれないし、答えの最初の数行を見れば、あとは自分で解けることだってあるかもしれない。問題と答えを通しで読むのは、多分いろいろあるルートの中ではかなり簡単なもので、だから広い範囲の人が最初に使える手段だと思うけど。
    少女:楽すぎて効果があるか疑わしくない?
    少年:自分でそう思えるようになったら、もう少し負荷の高いこと、例えば問題+解答を書き写すことに進んでいいというサインだと思う。そのあたりはリハビリに近い。他の人にとっては簡単すぎる意味のないことでも、自分にとっては次へ進むための大事なステップになるかもしれない。それに、知らない外国語の文章を写すのが時に不可能と思えるほど難しいように、数学も間違えず書き写すのって結構大変なんだ。添え字の間違いに気付かず書き写す人は、自分で数式を展開しても、そこのところで間違えるかもしれない。
    少女:当たり前に思ってたけど、写すのもちょっとしたスキルなのかな?



    いくつもの〈当たり前〉を重ねて

    少年:それを当たり前に思える水準に達してないと、つまり注意力をそこに配らなくてもできるように自動化してないと、次の段階のスキルに回すべき注意が足りなくてミスが頻発する。ミス退治に注意を費やすと、新しいことを理解するのに注意が回らない。
    少女:リハビリかあ。歩くのにいっぱいいっぱいだと、尾行とかできないもんね。まずは歩く練習、その前に這う練習、って感じ?
    少年:書き写すのができるようになったら、今度は少し内容に踏み込んで読んでみる。例えば証明だったら、いくつのパートに分かれるかとか、そのあたりから。それができたら、証明をパートごとに分ける線を引いたり小見出しつけたり、単なる計算の部分と、そこを曲がるとゴールが見える証明の〈曲がり角〉を色分けしたり、注釈をつけたり、とスモール・ステップでいろいろ考えられる。もちろん、ある程度できたら、もっと進んでもいいけど。進まなくちゃダメ→やっぱできない→オレってダメな奴→理解力低下→ますます分からない、みたいなループに落ち込まない限り、いろいろできると思う。ぼくの場合は、表面読みを繰り返してて退屈してくると、何か別のことしたいって感じで思いつくことが多いけど。あ、あと悩んだり落ち込んだりすることに意識を費やさないように、音読して声で意識を占領するのも手。これは調子悪かったり、気持ちがふさいでやる気が出ないときにも使える。
    少女:そういえば読み方知らない数学記号ってある。
    少年:この際だから調べて覚えよう。

    数式を(なるべく簡単に)出して読む with ASCIIMathML 読書猿Classic: between / beyond readers 数式を(なるべく簡単に)出して読む with ASCIIMathML 読書猿Classic: between / beyond readers このエントリーをはてなブックマークに追加



    追補:覚えるためのシステム

    少女:「理解のために必要な認知資源を確保するための反復練習」って言ってたけど、最初からあんまり頑張りすぎると挫折しそう。
    少年:最初は、飛ばしても最後まで通して読むのを優先していいと思う。そのうち一周したら、覚えるものを拾う、みたいなルーチンにしてもいいかも。これもいきなり完璧に拾うんじゃなくて、まずは目次に出てくる分からない言葉(不明語)をチェックするくらいでいいとおもう。その後は見出しの中の不明語かな。
    少女:どうして、その二つ?
    少年:目次と見出しは、本文をインプットするときにも記憶の依り代になるけど、意味が分からないものは覚えにくいから。目次や索引をつかって、本文から定義や説明を探して拾う程度でいいと思う。これだと本文のつまみ食い的予習にもなる。どうもテキストの中で説明してないとか、このテキスト読むなら当然の前提にされている場合は、他のもっとやさしい本や事典なんか使って調べる。
    少女:あ、スマホが出てきた。
    少年:印つけたものや、あと暗記できそうなものは細切れ時間使って、どんどんi暗記+に入れる。これはフラッシュカード(暗記カード)のアプリだけど、最初はカードの表だけで書いて、カードをつくることに専念する。
    少女:カードの裏に覚えるべきことを書くのは、後回しでもいいの?
    少年:うん。カード作りはあくまで副業だから。i暗記+は、文字のほかに画像も貼り付けられるんで、数式処理アプリのMathStudioSpaceTime - Scientific computing in the palm of your handの後継アプリ)で方程式解いたりグラフを描いた奴とか、FastFingaで手書きで式を展開した奴も貼りつける。ただあんまり長くなると、大きすぎる画像になってダメなんで、そっちはEvernoteで保存する。公式みたいな短い数式はMathBot - TeX Equation TypesettingというアプリでTeXで書いてi暗記に貼り付ける。
    少年:入力できたものから何回も回して細切れ時間に暗記する。復習のタイミングを次第に間隔を広げていくスペースド・リハーサルを使うことになるけど、手作業だと面倒な復習のタイミング管理をi暗記に丸投げできる。

    math-iphone.jpg


    iPhone/iPod touchで使える数式処理アプリSpacetimeの超簡易マニュアル 読書猿Classic: between / beyond readers iPhone/iPod touchで使える数式処理アプリSpacetimeの超簡易マニュアル 読書猿Classic: between / beyond readers このエントリーをはてなブックマークに追加





     今日は、あまりにベタ過ぎて、普段なら吸い込まぬように姿勢を低くして全力で回避したくなるテーマについて書いてみる。
     
     年収が上がったり、かけっこが速くになるにはきっと役に立たないが、不運に見舞われたり、打ちのめされたり、他人や自分に裏切られたり、自分や他人に失望したり、知恵熱が出たりした時にも、いつも傍らにあって杖になり孫の手になり、あなたが覚えていたのより、ほんの少しだけましな自分に立ち戻らせてくれるような〈人生の一冊〉は、どうすれば見つかるのだろうか?
     言い換えれば、〈人間になる〉という教養の本当の目的に寄与し得る、語の真の意味での〈教養書〉とは、どのようにして出会うことができるのだろうか?
     
     いろいろ読むことによって、そして繰り返し痛い目に遭うことによって、黒歴史を何度も塗り重ねることによって、本なんて結局のところ紙の束でしかないと思い知ることによって、……といったところがよくある答えである。
     
     世の中で唱えられる教説のほとんどすべてが一面の真理を突いている程度には、これらの答えは正しい。
     だが効き目に関して言えば「大人になったら分かるよ」という言葉と似たり寄ったりのレベルである。
     「あえて」書き始めたのだから、確実性(当たり外れ)は等閑視して、せめて内野手の頭を越えるくらいの〈長打〉を狙って、いつにも増して暴言というバットを振り回していこう。 
     
     というわけで、あなたの〈人生の一冊〉は次のリストの中に見つかるはずである。
     もちろん乱暴この上ない決め付けだが、ヒト一体の利用可能な時間は有限である。1億2886万4880冊から10冊に減らすことは、それなりに意味がある。
     
     リストの中身は見てのとおり、いずれも定評のある自伝、というか定番の自伝系名著である。
     自伝に関して言えば、誰が選んでもそう変わらないリストになると信じる。
     といっても1000冊も続くリストなんて(書評の振りしたスパムサイトを作る以外)誰の役にも立たないから、コメントの中でも他の自伝を紹介するスタイルにして、リスト自体はできるだけ短くした。
     
     
     では、おそらくは未だ残る疑問、
    「そもそもなぜ自伝なのか?」
    「〈人間になる〉という教養の本当の目的に寄与し得る、語の真の意味での〈教養書〉の候補を、どういった理由で自伝に求めるのか?」
    という疑問に応じた後にリストに進もう。
     
     自伝は、言うまでもなく、ある人物についての人生の記録である。
     〈学ぶ〉ことが〈真似る〉ことに根ざすとすれば、ヒトがもっとも多く真似ることになるのは他のヒトであり、さまざまな状況に投げ込まれた際のその行動である。
     ヒトがヒトとなる学習過程の多くは、この行為で埋められている。

     もちろん人生はコピペできない。
     
     エラい人を真似ればエラくなれるというのは、ヒット商品からキャッチコピーをパクってくれば売れる、と考えるくらいの虫のいい暴論である。

     それでもなお、自伝は読むに価するテキストであり、知恵の宝庫である。 
     自伝は、その対象に最も近い人物=当人によって書かれたものである。
     したがって当人しか知り得ぬことが語られるが、一方では自分に都合のいい記述・解釈に流れる可能性が常に残る。
     自伝を、事実の記述と鵜呑みにすることは危険である。
     語ることは騙ること、自分語りは自分騙りでもある。
     しかし自伝から読み取るべきは、事実だけではない。
     その人自身によって、出来事がどのように語られるか、語りの中でどのように捉え直され意味づけされ、それが世界への働きかけをどのように生み出していくのか……つまり〈語り〉が〈騙り〉と最大限重なり合うところからこそ、我々は多くを学ぶことができる。
     
     何故か?
     
     ヒトは、ぬいぐるみに感情を、雨音にメロディを、システム・エラーに悪意を、焼いた骨のひび割れに神意を、夜空に散らばる星に神話の登場人物を、投影する/読み込む、度し難い生き物である。
     たとえば擬人化personificationが単にレトリックの手法であるだけでなく、ヒトの認知構造そのものに刻まれている(だからこそ、その技法は効き目がある)ものであるように、物語もまたヒトの認知構造に深く根ざしている。
     だからこそ物語は我々に強力に作用する。
     ヒトは、偶然に左右される事象や、相互に無関係でありただ同じ時に並列したに過ぎない事象であっても、物語りとして眺め、筋書きを追い、意図や動機を求め、ドラマのように/ドラマティックに語り上げ、クライマックスやカタルシスまで期待する。
     
     ヒトは、物語るサルである。
     
     物語を通して、伝達し、認識し、記憶し、そして構想する。
     我々は、世界について、そして自分について繰り返し物語ることで、周囲と自分の位置を確かめ、世界や他者に働きかけ、自分を再構築し、現在と未来を作り上げていく(この文脈においては、ドン・キホーテ原理もウェルテル効果もルート・メタファ説もナラティブ・シンキングも、瑣末なエピソードに過ぎない)。
     
     これが他人の〈自分語り〉=自伝に学ぶ理由である。

     さあ、先人の〈自分語り〉に耳を傾けよう。
     我々が、我々自身を語り、紡ぎ出すために。





    マルクス・アウレリウス『自省録』


    自省録 (岩波文庫)自省録 (岩波文庫)
    (2007/02/16)
    マルクスアウレーリウス

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     厳密に言えば、これは自伝ではない。
     しかし自分語りの観点から、このリストから外すことはできない。

     五賢帝の最後の一人、世界史上プラトンの理想を唯一体現した哲人皇帝は、自身のことを語っていない。かわりに自身に向けて語っている。
     これは何かを他人に伝えるために書かれたものではなく、折りにふれ自分を励まし勇気づけるために書き留められたものである(だから文庫で200頁足らずの短いものだけれど、折々に気に入ったところだけを少しずつ読むのがよい)。
     
     ぶっちゃけていえば、哲人皇帝は認知療法をやっているのである(ストア派は認知療法の思想的源泉である)。

    「君が何か外的な理由で苦しむとすれば、君を悩ますのはそのこと自体ではなくて、それに関する君の判断なのだ」(第8章47)
    「『自分は損害を受けた』という意見を取り除くがよい。そうすればそういう感じも取り除かれてしまう。『自分は損害を受けた』という感じを取り除くがよい。そうすればその損害も取り除かれてしまう。」(第4章7)
    「最初の知覚が報告するもの以上のことはいっさい自分に言ってきかすな。だれそれが君のことをひどく悪く言っている、と人に告げられた。これは確かに告げられた。しかし、君が損害を受けた、とは告げられなかった。」(第8章49)
    「『この胡瓜はにがい』。棄てるがいい。『道に茨がある』。避けるがいい。それで充分だ。『なぜこんなものが世の中にあるんだろう』などと加えるな。」(第8章50)
    「君の全生涯を心に思い浮かべて気持をかき乱すな。どんな苦労が、どれほどの苦労が待っているだろう、と心の中で推測するな。それよりも一つ一つ現在起こってくる事柄に際して自己に問うてみよ。……次に思い起こすがよい。君の重荷となるのは未来でもなく、過去でもなく、つねに現在であることを。」(第8章36)

     「死を恐れるな」「いらいらするな」「人を許せ」と繰り返し出てくるのは、別にあなたに道徳を説いているのではない。
     マルクス・アウレリウス自身が、繰り返し死の恐怖におそわれ、周囲や自分に対するいらだちを抑えきれず、他人に我慢がならなくなり、死後の名声が気になってたまらず、朝どうしてもベッドから出たくなかったのである。

     明けがたに起きにくいときには、つぎの思いを念頭に用意しておくのがよい。「人間のつとめを果たすために私は起きるのだ」。自分がそのために生まれ、そのためにこの世にきた役目をして行くのを、まだぶつぶついっているのか。それとも自分という人間は夜具の中にもぐりこんで身を温めているために創られたのか。「だってこのほうが心地良いもの」。では、君は心地よい思いをするために生まれたのか。小さな草木や小鳥や蟻や蜘蛛やミツバチまでがおのがつとめにいそしみ、それぞれ自分の分を果たして宇宙の秩序を形作っているのを見ないのか。
     しかるに君は人間のつとめがするのが嫌なのか。自然にかなった君の仕事を果たすために馳せ参じないのか。「しかし休息もしなくてはならない」。それは私もそう思う、しかし自然はこのことにも限度をおいた。同様に食べたり飲んだりすることにも限度をおいた。ところが君はその限度を越え、適度を過ごすのだ。しかも行動においてはそうではなく、できるだけのことをしない。
     結局君は自分自身を愛していないのだ。もしそうでなかったならば君は自己の(内なる)自然と意志を愛したであろう。他の人は自分の技術を愛してこれに要する労力のために身をすりきらし、入浴も食事も忘れている。ところが君ときては、款彫師が彫金を、舞踏家が舞踏を、守銭奴が金を、見栄坊がつまらぬ名声を貴ぶほどにも自己の自然を大切にしないのだ。上にいった人たちは熱中すると寝食を忘れて自分の仕事を捗らせ用途する。しかるに君には社会公共に役立つ活動はこれより価値のないものに見え、これよりも熱心にやるに値しないもののように考えられるのか。(第5章1)

     
     要するに「とっとと起きろ、俺」。




    『マイルス・デイビス自叙伝』


    マイルス・デイビス自叙伝〈1〉 (宝島社文庫)マイルス・デイビス自叙伝〈1〉 (宝島社文庫)
    (1999/12)
    マイルス デイビス、クインシー トループ 他

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     一転して自分で書いちゃいない自叙伝。
     しかし、それをいうなら『福翁自伝』だって『マルコムX自伝』だって『成りあがり How to be BIG―矢沢永吉激論集』だってそうだ。トマス・アクィナスや松本清張があんなに書けたのは口述筆記を使ったからだ。
     マイルスの語りをトゥループが書き留めまとめた自伝は、〈如是我聞〉とは反対の言葉で始まる。
     
     まあ、聞いてくれ。オレの人生で最高の瞬間は、・・・セックス以外のことだが、それはディズとバードが一緒に演奏しているのを初めて聞いた時だった。ちゃんと覚えている、1944年、ミズリー州セントルイスだ。
     当時のバードのソロは、八小節だったが、その中で奴がやったことといったらなかった。いまだに信じられないことだった。奴が吹き始めると、みんなカスんでしまうんだ。オレが演奏を忘れたみたいに、他の連中もバードに聞き惚れていた。だから、みんなよく自分のパートに出遅れていたのをおぼえている。みんな、ポカーンと大きな口を開けてステージに突っ立っていた。あの頃から、バードはものすごい音楽をやっていたんだ。
     初めてディズとバードを聴いた、1944年のあの夜のフィーリング、あれが欲しい。もう少しというところまでいったことはあるが、いつもあとちょっとだ。近いところまではいくんだ、でもやっぱり違う。それでもオレは、毎日演奏する音楽に、あれを求めている、もう一度あの体験を味わおうとしている。あのときの音を聴こう、感じようと求め続けている。




    アウグスティヌス『告白』


    告白 上 (岩波文庫 青 805-1)告白 上 (岩波文庫 青 805-1)
    (1976/06/16)
    アウグスティヌス

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     実は最初、対比列伝みたいに自伝をペアにして紹介することを考えていた。
     やめた理由は、単にペアにするだけでは、どうにもバランスが悪いケースが頻発したからだ。
     たとえば『フランクリン自伝 (岩波文庫)』の相方には、新井白石『折りたく柴の記』と渋沢栄一『雨夜譚』ぐらいをタッグにしないといけない。
     もっとも世界三大自伝のひとつアウグスティヌス『告白』となると、三大自伝の他の二つ、ルソー『告白』とゲーテ『詩と真実』に『カザノヴァ回想録』とバニヤン『罪びとのかしらに溢るる恩寵』を追加しても間に合わないので、この計画は断念した。

     もっとも赤裸々に書き込まれ、もっとも精緻に戦略的に作り込まれた、この形式の嚆矢にして完成形。
     忘れがたいエピソードを次から次に取り出す引き出しの豊かさ。
     放蕩と敬虔、知的な自負と謙遜(へりくだ)り、巨大な落差を経験させる完璧な構成。
     徹底的な心理分析と精確な描写が追う、当時の思想思潮のほぼすべてを巡りゆく精神遍歴。
     母の死。
     〈ジャンルとしての告白〉だけでなく、キリスト教の再生産メカニズムのひとつである〈制度としての告白〉をも仕込んでいるのだから、天下無双であってもおかしくない。

     後世への影響ということでいえば、アウグスティヌスは西洋思想で最重要な著作家だ。というより、思想の面からいえば、ここから西洋が始まるのである。
     アウグスティヌスが基礎を据えたキリスト教神学は、古代ギリシアに発する哲学が滅びることを許さなかった。
     アウグスティヌスの禁欲主義は修道院の実践の通底和音となり、また〈恩恵のみ〉〈見えざる教会〉の思想はルターやカルヴァンやコルネリウス・ヤンセンに影響を与え、プロテスタンティズムを生むもとなった。その自由意志論はショーペンハウアーやニーチェにまで影響を与え、その時間論は哲学的時間論の嚆矢として参照され続けている。




    トーベ・ヤンソン『ムーミンパパの思い出』


    新装版 ムーミンパパの思い出 (講談社文庫)新装版 ムーミンパパの思い出 (講談社文庫)
    (2011/05/13)
    トーベ・ヤンソン

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     ヒトじゃないものが書いた自伝もひとつくらい入れておこう。

     糸井重里によると、全国のお父さんというお父さんが皆「おれも昔は悪(わる)だった」と言い張るという。
     おやじの若い頃の悪さは、ルール違反者となることでルールの創成者ぶりっ子たらんとした欲望のヘタレた成れの果てである。
     そのような形でしか、人は父の物語を纏えない。

     しかし誇り高きムーミンパパの前半生は〈ちょいワル〉どころでは済まない。
     なにせあのムーミンをして「ぼく、パパの話がきゅうにふしぎなほうへ走るのに、だんだんなれちゃったよ。」と言わしめるほどの無軌道ぶりである。
     しかもこの〈若い頃の大冒険〉には、ムーミンパパのみならず、スニフのお父さんで謝らなくていい時でも常に「ごめんね」が口癖のロッドユール、スナフキン以上にフリーダムなその父ヨクサル、パパの親友でマッドサイエンティスト(?)のフレドリクソンが登場する。
     彼らはフレドリクソンが発明した〈海のオーケストラ号〉に乗り込み大航海で大冒険、ってどんだけアルゴ船やねん。
     ムーミンパパの語りは、あらゆる父の思い出話がそうであるように、ムーミンパパも最初からムーミンパパであった訳ではないことを語る。
     しかし語るのは現在のムーミンパパなので、どこまで行ってもカッコつけた勘違いトロールであることには変りない。
     漢(おとこ)を見せるムーミンパパ!
     さてヤンソンは、ムーミンパパの自伝を取り込んで物語にしているので、ムーミンパパが語る思い出話に対する子供たちのリアクションも活写している。
     なんとムーミン、スナフキン、スニフは、それぞれのパパを誇りに思い、誰のパパが一番かを言い争うのである。
     スナフキン、おまえもか!?



     
    『文盲 アゴタ・クリストフ自伝』


    文盲 アゴタ・クリストフ自伝文盲 アゴタ・クリストフ自伝
    (2006/02/15)
    アゴタ・クリストフ

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      「スイスに来て五年たった。わたしはフランス語を話す。けれども、読むことはできない。文盲に戻ってしまった。四歳で本を読むことのできたわたしが」

     『あしながおじさん』や『マルコムX自伝』が〈遅れてきた読書家〉の物語であるなら、この書は《読書という国》を追われた難民が言葉を取り戻すために抗い続ける物語である。

     著者クリシュトーフ・アーゴタは、『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の嘘』で知られるハンガリー出身の作家である。

     高校生のときに作詩を始め、卒業直後の高校の歴史教師と結婚。21歳のとき、1956年のハンガリー動乱から逃れるため、夫と共に生後4か月の娘を連れて命がけで亡命し、オーストリアを経てフランス語圏であるスイスのヌーシャテルに移住している。
     当初、時計工場で働き始め、後に店員、歯科助手と職を変えた。
     やがてパリで刊行されているハンガリー語文芸誌にハンガリー語で詩を発表し始めたたが、そのほとんどは出版されることもなかった。
     そして彼女の娘は、フランス語の中でことばを学んで成長していく。

    「あるとき、娘は泣き出してしまった。わたしが彼女の言うことを理解できないからだ。別の折りには、彼女のほうがわたしの言うことを理解できなくて、それで泣き出した」。
     「もし自分の国を離れなかったら、わたしの人生はどんな人生になっていたのだろうか、もっと辛い、もっと貧しい人生になっていただろうと思う。けれども、こんなに孤独ではなく、こんなに心を引き裂かれることもなかっただろう。幸せでさえあったかもしれない」

     亡命は彼女の曾祖父を奪い、母語を奪った。
     政治的事情で習得を強いられたフランス語は「私の母語を殺し続けている敵性語」、日々彼女から言葉を奪い続けていく。

     ついに彼女は、敵の言葉で書くことを決意する。
     生きるために、「たとえ誰一人興味を持ってくれなくても、ものを書き続けなければならない」と観念して。

     「この言語を、わたしは自分で選んだのではない。たまたま、運命により、成り行きにより、この言語がわたしに課せられたのだ。
     フランス語で書くことを、わたしは引き受けざるを得ない。これは挑戦だと思う。
     そう、ひとりの文盲者の挑戦なのだ」





    ハイゼンベルグ『部分と全体』


    部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話
    (1999/11)
    W.K. ハイゼンベルク

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     科学者が書いた自伝では『ご冗談でしょう、ファインマンさん』が鉄板である。
     何度読んでもおもしろいし、ためになる。
     だが、それ以上に何を語ればいいか思いつけない。
     他にはダーウィン、『ビーグル号航海記』ももちろん良いが、『ダーウィン自伝 』が面白みはちょっと控えめだが、滋味深くて地味にオススメ(本文は130頁ほどしかない)。あと湯川秀樹『旅人 ある物理学者の回想 』もいい。

     しかしこのリストでは、もっと陰鬱だが勇気を与えるものを選んだ。

     ハイゼンベルグがこの自伝というか回想録を書いて目指したのは二つ。
     ひとつは「科学は討論の中から生まれるものであることを、はっきりさせたいこと」。
     もうひとつは「近代原子物理学が提供した、新しい哲学的、道徳的かつ政治的な根本問題に関する議論に、できるだけ広範囲の人々の参加を望みたいこと」。

     したがって、回想録にはいくつもの対話が登場する。
     まずハイゼンベルグが18歳のとき出会い生涯読み込んだプラトンの対話篇。
     高校の同級生たちと交わしたヴァンダールング(ハイキング)しながらの会話。
     師ゾンマーフェルトから「一番才能ある弟子」として紹介されたパウリとの対話。
     それからナチス支配下のドイツで、多くの科学者たちが国外へ亡命する中、身の振り方を思い悩んでいた(後にドイツにとどまることを決断するのだが)ハイゼンベルグを訪れた、ヒットラーユーゲントのリーダーである青年との対話。

    「なぜあなたは建設に力を貸して下さらないのですか?」
    「もし若い学生諸君だけの問題ならば、私が正しいと信じていることのために、話し合いと協力によって寄与する自身があります。しかし革命の指導者は、物の道理に対する警告をとりあげようとせず、インテリを軽蔑することで多くの民衆を動かしてしまった。ドイツが破壊されようとしているときに、私にはその手助けはできません」
    「小さな改善でいったい何ができたでしょう。あなただって量子論では、これまでものを徹底的に打破したではないですか?」
    「自然科学では、すべてを放棄するなんてことはあり得ません。実りのある革命は、ある狭い輪郭のはっきりした問題を解くことに限ったとき、しかも最小限の変更にとどめるように努力したときにだけ遂行できるのです。歴史においても永続的な革命は、ただ狭く限られた問題を解決し、そしてできる限りわずかしか変更しないようなものであるはずだと考えています」




    『マキノ雅弘自伝 映画渡世』


    映画渡世・天の巻―マキノ雅弘自伝映画渡世・天の巻―マキノ雅弘自伝
    (2002/09)
    マキノ 雅弘

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     このリストに、『ベーブ・ルース自伝―不滅の七一四本塁打への道』や『カーネギー自伝』や『ダライ・ラマ自伝』や『諜報・工作―ラインハルト・ゲーレン回顧録』が入っていないのは、スポーツ選手や実業家や宗教家や諜報機関を軽んじているからではなく、どうせ読むなら面白いものが良いに決まっているからである。
     同じく、このリストに、オストロフスキー『鋼鉄はいかに鍛えられたか』やトロツキー『わが生涯』や、労働者たちには「鉱夫たちの天使」、米国上院議会に「すべての扇動家の祖母」、ジャーナリズムに「アメリカで最も危険な女性」と呼ばれたマザー・ジョーンズ(自伝はこちら)や、ルソーの弟子で「自由よ、汝の名の下でいかに多くの罪が犯されたことか」という有名な言葉を残し処刑されたジロンド派の女王ロラン夫人の回想録(ガリカ(フランス国立図書館の電子図書館)*で読める)や、バリバリのアメリカ社会党員で軽くレッド・パージされて一時期どこにも書くことができなくなったヘレン・ケラーのたくさんある自叙伝(たとえば『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』)が入っていないのは、大人の都合などではなく、ハイゼンベルグの先の引用でお腹いっぱいになってしまったからである(あと、このリストが亡命者ばかりになりそうだったからでもある)。
     
     だがマキノ雅弘は、別腹だ。

     父は「日本映画の父」と呼ばれた牧野省三。
     その省三に、赤ん坊のころからスクリーンに引っ張り出され、人生のはじまりが日本映画のはじまりと、ほとんど同じだった。
     子役に使いたい省三と、孫をかわいがりたい祖父との血なまぐさい対立だとか、少年時代を子役として過ごした上に「映画に専念しろ」と省三につめよられ反発して入った高校を赤痢でやめ、今度は助監督として走り回らねばならなくなったりとか、そのうち省三が自分のプロダクションを立上げ、18歳で初監督をする羽目になったりとか、またまた省三が「これからはトーキーや」と先見の明を発揮してしまい、トーキーの研究をせねばならなくなり日本初のディスク式トーキーを監督したりとか、そうこうするうちに父が多額の借金を残したまま死んでしまい、おまけに母・弟と対立、全国のマキノ系の映画館がどこそこが母・弟派へ、どこそこが雅弘派につくという戦国大名ばりのお家騒動があったり、ストライキがあったり撮影所が全焼したりでプロダクションは倒産、借金まるごと背負わなくてはならなくなったりとか、日本初の広告映画をとったりとか、伊藤大輔、溝口健二監督のトーキー映画にトーキー映画のプロとして録音技師をつとめたりとか、興したトーキー映画会社がまた倒産したりとか、日活の雇われ監督になって大量の娯楽映画をものすごい速さで撮影したりとか、他の組が撮影中止で空いた穴を埋めるべく、一本撮り終えたばかりのマキノ組が更にたった28時間の撮影時間で映画を完成させたり……、人生の、どこを切っても映画がほとばしる。
     
     このリストで一番、抱腹絶倒できる。





    レヴィ・ストロース『悲しき熱帯』


    悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)
    (2001/04)
    レヴィ=ストロース

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     人が現在の到達点を確認し他の人に示しそうとする時に、旅について/旅として語る流儀は古い。
     旅行記が、真実の相において訪れた土地や人を語るものでなく、それらの見聞(時に嘘ばなし)を通して著者自身を語るものである以上、これもまた我々の定義において自伝である。
     
     ソクラテスの弟子の一人であるクセノフォンが、1万人のギリシア人傭兵ともに自ら従軍したペルシア王位戦争の敗戦からギリシア兵をまとめて長途の退却戦を経て帰国するまでをつづった『アナバシス―敵中横断6000キロ』、カエサルの『ガリア戦記』(前50年ごろ)、ヴィルアルドゥワンの『コンスタンチノープル征服記』(13世紀初め執筆,出版は1585年),1248年からルイ9世に従って第7回十字軍に加わった. de ジョアンビルの回想録『聖ルイの歴史』(1309)、辻政信『潜行三千里』(1950)などはいずれも戦争という旅をめぐる回顧の記録である。

     ギリシア人パウサニアスの『ギリシア案内記』やマルコ・ポーロが,20余年の旅を終えて1295年にベネチアに戻った後口述した『世界の記述(東方見聞録)』、アンダルス生れのイブン・ジュバイルの旅行記や、モロッコ生れで、チュニジアとモルジブでは裁判官を務め、インドでは中国使節に任命され,エジプトでは2回結婚しモルジブでは4人の妻をめとったイブン・バットゥータの『都市の不思議と旅の驚異を見る者への贈物(大旅行記)』、アッバース朝カリフが921年にボルガ地方へ派遣した使節団の一人イブン・ファドラーンの『ヴォルガ・ブルガール旅行記』、玄奘の『
    大唐西域記』や文人たちがほとんど触れなかった地形,地質,水文,生物などの記述に富む徐宏祖『徐霞客遊記』など、取り上げるべき旅行記は多い。
     近くは、エリアス・カネッティ『マラケシュの声―ある旅のあとの断想』、チェ・ゲバラ『モーターサイクル・ダイアリーズ』やブルース・チャトウィン『パタゴニア』、金子光晴『マレー蘭印紀行』、沢木耕太郎『深夜特急』なども取り上げるべきかも知れない。
     
     けれども、ここではもう一つの旅を思い、人類学者のものを取り上げなくてはならない。
     
     ヒトは、その長い歴史の大半を旅に費やしてきた。
     大河流域に集落定住するまでの間、移動的採集狩猟民であった頃、北極圏や北米西部で定住生活と移動生活を季節的に交代させる半移動民であった頃、良質の石器材料や装飾品の交易のために方方の集落をめぐった頃、成人式の一部をなす配偶者を探し出す旅行儀礼に出かけた頃、旅は生活の大半であり、欠くべからぬものだった。
     
     集落定住の生活が一般化し、やがて都市の形成されるようになっても、特殊な技能を担う職人として、騎士として、商人として、のちには放浪学生として、ヒトは旅を続けた。
     職人の遍歴の旅は、本来は親方株が少なかったためにやむなく行われた慣行だったが、各地の職人が偏歴することで、技術水準は平均化し、共同体を超えた広域世界が統一的な文化を抱く礎となった。
     学生たちもまた、知を教師を求めて放浪の旅をしており、歌を唱っては布施をもらい旅を続けた。放浪学生の多くは自堕落な暮しを送り,酒と女にあけくれたが、その中でギリシア語,ラテン語,ヘブライ語などを中心とする学問を身につけていった者もいた。ブレスラウのような町にはかなりの数の学生を収容できる学寮もあったし,病気の学生を治療する病院まであった。中世の都市はいわば、旅する人々の仮の宿りとして存在していた。
     
     民族学(ethnology)が独立の科学として成立したのは19世紀半ばであるが,大航海時代以来,世界の諸民族についての知識がヨーロッパにおいて蓄積されたことが,基本的な条件になっている。

     エスノグラフィーはいつも、ヒトが自身が暮らす世界を抜け出て行われた旅の産物に他ならなかった。

     レヴィ・ストロースは、自身の旅のはじまりについて、哲学を捨てやがて民族学へ赴く(これもまた一つの旅だ)ことになった理由のひとつを自分の資質に求めて言う。

     一定の土地をじょうずに耕作しておき、年ごとにそこから収穫を得るような資質が私には欠けていた。私の知性は新石器時代の人間の知性なのである。インディアンが耕地にするために草原を焼く火のように、私の知性は、ときに未墾の土地を焼くのである。それは、土壌を肥沃にし、そこから大急ぎでなにがしかのとりいれをするのにはおそらく役立つであろう。そしてその後に、荒廃した土地を残すのである。
     
     こうしたヒトは旅を続けるほかない。





    『チェッリーニ わが生涯』


    チェッリーニ自伝―フィレンツェ彫金師一代記〈上〉 (岩波文庫)チェッリーニ自伝―フィレンツェ彫金師一代記〈上〉 (岩波文庫)
    (1993/06/16)
    ベンヴェヌート チェッリーニ

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     自伝リストなら必ず登場すべきルソーとゲーテとスタンダールが今回選外となったが、かわりに彼らも絶賛した自由すぎる最後のルネサンス人、ベンヴェヌート・チェッリーニ(1500-1571年)の自伝を召喚しよう。
     女児の誕生を望んでいた両親によって「Benvenuto」(英語のwelcome、ようこそ)と名付けられた彼は、15歳で金銀細工師の徒弟となり、19歳で家郷を出て各地を遍歴したあとローマに住み、約20年間主として同地で活躍。最初ラファエッロ派およびメダル製作者フォッパ・カラトッソらの影響を受けたが、のちミケランジェロの作風を模して工芸や彫刻の制作に従事。以後、彫金家、彫刻家、画家、音楽家として活躍した。
     題材にもモラルにも文体はおろか文法にも制限を受けつけない、人生そのとおりに奔放であるこの自伝を(身振り手振り剣を振り興が乗って大声で喚く老彫金家の語りを、彼の店で働く13歳の少年が書き留めた)、ゲーテは多作と多忙の中、7年がかりでドイツ語に翻訳し、これがブルクハルトをはじめとするルネサンス研究の先駆けをなした。
     音楽と文学を結び付けることに努め標題音楽という新ジャンルの基礎を築いたベルリオーズ(彼にもよい自伝 Memoires de Hector Berlioz がある)は、彫刻としてよりも鋳造技術としてよりも『自伝』が語る劇的な制作過程によって有名な青銅の『ペルセウス』像のエピソードを主題に、オペラ『ベンベヌート・チェッリーニ』(1838・パリ初演)を書いた。
     10年間に17部しか売れなかった『恋愛論』(ここにもチェッリーニへの言及がある)をはじめ伝説的不人気を誇ったスタンダールは、未完の自伝『アンリ・ブリュラールの生涯』に、自分の著作の運命をこう予言した。
     「……そしておそらくはベンヴェヌート・チェッリーニの自伝のように200年後に発見されるだろう」。
     また、死の直前まで繰り返し書き続けた遺書(全36通)のいくつかには、これも未完の自伝『エゴチスムの回想』の草稿に触れて、「……私の死後10年目に、誰か信心家でない印刷業者に与えるか、あるいは誰もそれを印刷したがたない場合にはどこかの図書館に寄贈するようにお願いしたい。ベンヴェヌート・チェッリーニは死後150年にして出版された。」とある。





    ナボコフ『記憶よ、語れ』


    ナボコフ自伝―記憶よ、語れナボコフ自伝―記憶よ、語れ
    (1979/05/30)
    ウラジミール・ナボコフ

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     すべてをかけて自分の魂を愛し、ほかのものはすべて運命にまかせる、というのが母の奉持する単純な法則だった。「いいこと。よおく憶えておいてちょうだいね」と母は陰謀でもたくらむような調子で言って、自分が愛するいろいろなものに------たとえば、春のくすんだ乳白色のそらをますます高くあがっていく雲雀や、夏の夜さかんに遠くの森の写真をとっている無声電光や、褐色の土の上に楓の落葉がえがいている模様や新しい雪の上に点々とつづいているくさび形の足跡などに------私の注意を惹いた。それにまた、自分の世界の有形的部分が数年後に消滅すると予感しているかのように、わが家の田舎の屋敷内のあちこちに残っているいろんな時の刻印の跡に、非常に敏感だった。
     
     
     人は、倉庫の片隅に忘れられたファイルキャビネットから紙鋏みのひとつを抜き出すようには、過去を思い起こすことができない。
     意図と意思を抱いて、都合と偏見を跡が残るくらいに強く押し付けながらでないと、記憶は意識に戻ってこない。
     思い出そうとすることが過去を改竄する。
     我々は、捏造する以外のやり方では想起することができない。
     では、あらゆる過去語りは、自己粉飾の釈明account、自己憐憫の繰言garrulityに過ぎないのか。
     
     是、そして否。 
     
     一家はロシア革命で、財産を失い国を追われ、亡命先では夫(ナボコフにとっては父)を失う。
     ナボコフの母は、子供たちとも離れて、晩年をプラハの惨めな下宿で暮らす。
     
     
     ……まわりにいくつかあるがたがたの古家具の上には、マイコフからマヤコフスキーまでの好きな詩を数年にわたって書き写したアルバムが何冊かのっていた。ベッドの傍の緑色の布をかけた石鹸箱には、かすんだ小さな写真が数枚壊れかかった額縁に入れられて置かれていた。
     だが本当はそれらの品は必要ではなかった、母からは何も失われてはいなかったから。旅回り一座の役者たちが、台詞を憶えているかぎり、嵐のヒースの野や霧の城や魔法の島をどこへでも運んで行くように、魂が大切にとっておいたものを母はすべて持っていた。