目掛けた一冊(たとえば誰かに勧められた書物)だけを読む、孤立した読書を〈点の読書〉と呼ぶ。
     このブログでは繰り返しになるが、知識がそうなように、書物もあらゆる文献もまたスタンドアローンでは存在できない。一冊の書物、ひとつの文献は、他の多くの文献と、たとえば参照関係や影響関係を介して、直接・間接につながっている。そのつながりを追って進む読書を〈線の読書〉と呼ぶ。
     さらに、文献同士を結ぶつながりをまたいで、あるいは逆らって、文献と文献を突合せ縒り合わせて、著者も文献も予期していなかった結びつきを創りながら編み上げながら進む読書を〈面の読書〉と呼ぶ。

    点の読書、線の読書、面の読書 読書猿Classic: between / beyond readers 点の読書、線の読書、面の読書 読書猿Classic: between / beyond readers このエントリーをはてなブックマークに追加


     〈一冊〉という単位(パッケージ)は、書物流通の単位であって、我々の知的営為の単位ではない。
     何か読まなくてはならない場合に、これさえあれば足りる完全な〈一冊〉が存在すると信じることは、読書の幼年期にある者だけに許される。
     世界にあるのは、どんな場合でも、それだけでは足りない不完全な数冊、数十冊、数百冊であって、だからこそ我々には読み通す以上のことが求められる。たとえば読み合わせること、読み比べること、読みつなげること、そして未だ文献のない領域に踏み出すこと。
     〈点の読書〉を取り扱う文献の数だけ繰り返さなくてはならないと考えると、複数の文献を扱うことはよほどの難事業に思えるかもしれない。
     〈面の読書〉のためには、取り扱う文献を俯瞰し一望することができると取り組みやすい。

     以下に示すのは、複数の文献を一望化することを助け、〈面の読書〉を実装することを支援する文献表の作り方である。
     取り扱うすべての文献のすべての箇所にランダムアクセスし、複数の文献について縦断的/横断的(あるいは斜交い)に読む助けとなる。
     



    ステップ1.見出し埋め

     取り扱う文献を集め、1つの文献につき1行をつかって、文献のタイトルと各パートの見出しを拾い出し、順に左から右のマス(セル)へと入力していく(表計算ソフトをつかうとよい)。

    文献名パート1パート2パート3パート4
    再軍備とナショナリズム : 戦後日本の防衛観第1章 二つの再軍備-西ドイツと日本第2章 吉田内閣による再軍備第3章 積極的再軍備論の登場と展開第4章 日本における社会民主主義の分裂


     このステップはすべての文献について最後までやり切っておく。
     すると、たとえば以下のような表(マトリクス)ができる。
     
    step1.png
    (クリックで拡大)


     
     この作業は、能動的に目次・見出しを読む通すことで読解のための背景情報を頭にインプットすると同時に、取り扱う全文献の内容を1枚に集約するための外部記憶(外部表象)を用意するものである。
     これで取り扱うすべての文献を一望できる基礎ができたことになる。以降の作業は、この表(マトリクス)に加筆することが中心となる。
     
     もちろん、目次や見出しを拾うだけでは内容がよく分からない文献も少なくないだろう。
     たとえば標準的な構成の論文から拾ってきた場合、見出しと配列順はほとんど同じになって、論文の内容について有益な情報は含まれていないかもしれない。
     また古い文献では、見出しがなく、ただ「一」「二」…と数字が振られているだけだったりするが、この場合も同様である。
     これらの文献については、次のステップでそれぞれのパートの概要を拾い上げて、追加入力することになる。
     

     
    ステップ2.概要埋め

     見出しを入力したマトリクスの各セル(マス)ごとに、その文献のその見出しのパートの概要を入力していく。
     
     目次・見出しに欠落があったり、内容を示すだけの情報がまだ得られてない文献がある場合は、そうした文献から概要埋めの作業をはじめる。
     
     最初から詳しい概要を入力する必要はない。
     初期段階は〈どこに何が書いてある〉が一望できることが重要であるから、何について書いてあるかを示すキーワードを入力するだけでも十分である。
     
     欠落が埋まり、どの文献についても〈どこに何が書いてある〉かが可視化できれば、必要最小限の作業は終わったことになる。
     このままステップ3へ進んでもいいし、どの文献のどの箇所からでもいいので、より詳しく内容を拾い上げて表を埋めていくのでもかまわない。
     概要埋めをさらに進める際に一つのやり方は、見出しから疑問文をつくり、その答を本文中に探すというものである。多くの文献では、すでに著者が問いを立てて、それに答える形で論旨が進められるものも少なくない。文献のそれぞれのパートで問い、また問いを発見していけば、概要埋めは進んでいくだろう。
     
     すると次のような表(マトリクス)となる(赤文字が今回、追加入力した部分)
     
    step2.png
    (クリックで拡大)




     
    ステップ3.同項結び

     〈どこに何が書いてある〉かが可視化できていれば、このステップに進むことができる。
     表(マトリクス)の中で、同じ/似た項目・内容があれば、同じ色をつけたりマーキングしたり、丸で囲んだり、囲んだ上に線で結んだりして、関連が分かるようにする。

     すると次のようになる。

    step3.png
    (クリックで拡大)





    ステップ4.面の読み

     通常、2.概要埋めの充実化と3.同項結びは、両者を往復しながら進められる。
     たとえば、概要埋めの充実化が進むと、それまでの粗い見出しでは見えなかった関連性が発見される。
     また同項結びで結ばれたそれぞれの箇所を読み比べることで、おおまかに読むだけでは気付かなかった異同が浮かび上がり、より詳しく読むべき箇所やトピックに注意がいく。

     この段階で既に、複数の文献の間を自在に読み回っていることに気付くだろう。
     もちろん、概要埋めや同項結びを行ってから、ひとつひとつの文献を通しで読むことも良い。
     すでにその文献だけでなく、今回集めた他の文献についても、全体構成が可視化されている。それぞれの文献をバラバラに読むのでなく、一まとまりのものとして読む準備ができている。

     さらに同項結びも加えた表(マトリクス)を座右に読み進めれば、たとえば「このテーマについて他の文献はどう扱っているか?」とか「この論文の説明は難しい。他の文献にもっとやさしい説明はないだろうか?」と思ったそのときに、どの文献のどこを参照すればよいか、あなたが作った表(マトリクス)が教えてくれる。
     すでに文献の間には、あなたがこの先何度でも行き来できる何本もの〈連絡通路〉が設置されていることになる。

     より多く同項結びされたトピック/内容を持っている文献は、他の文献とより多くの共通部分を持つ文献である(例の表でいえば「帰納法と発見」や「ミル型論証と生態学」がそうだ)。
     そうした文献を先に読みこめば、他の文献についてはどこが違っているか拾うだけで済む。
     こんな風に、同項結びされたコンテンツ・マトリクスは、集めた文献のどれから先に読めば効率的かを教えてくれる。

     

    ステップ5.発見事項の抽出/整理

      コンテンツ・マトリクスは同項結びが増えるほど見やすいものではなくなっていく。
     その頃には、発見した事項をまとめなおす動機付けが生まれているだろう。次へ進むときが来た。
     複数の文献の間で共通して登場するトピックが発見できたら、あるいは比較すべき異同に気付いたら、それらを項目として表に追加し、それぞれの文献ではどうなのかを追記していこう。この際、一番左欄の文献名のすぐ右側に、新たな列を挿入していく。
     追記のための情報や参照すべき箇所は、少なくともそのヒントは、すでにコンテンツ・マトリクスの中にあるはずである。

     今や、以前
    集めた文献をどう整理すべきか?→知のフロント(前線)を浮かび上がらせるレビュー・マトリクスという方法 読書猿Classic: between / beyond readers 集めた文献をどう整理すべきか?→知のフロント(前線)を浮かび上がらせるレビュー・マトリクスという方法 読書猿Classic: between / beyond readers このエントリーをはてなブックマークに追加
    で紹介したレビュー・マトリクスを進む段階である。

     先に今回のコンテンツ・マトリクスを作っておくことは、文献マトリクスの作成の前作業にもなる。
     コンテンツ・マトリクスは、まとめるためのトピック(列項目)を考え出さなくても(これが最も難しい)、目次や見出しを機械的に集めることでマトリクスの枠を作ってしまえる。
     後は足りない情報を補いながら、内容を充実化することと、複数の文献を縦断/横断しながら読んでいくことが同時並行的に行われる。取り掛かりやすく、行き詰まりにくい。
     特に、標準的な構成をとる論文(だとどこから何を抜き出すか検討がつけやすい)以外の文献を相手にする場合に、コンテンツ・マトリクスから入ると助かることが多い。



    FAQ(よくある質問)

    (表が横に大きすぎる)
    Q1. 論文と書物を同じ表に入れると、書物の行が横に飛び出て見にくいんだけど。
    A1. 論文とともに、詳しい目次のある書物を扱う場合は、書物の各1章分ごとに1行を割り当てると、表の横幅(列数)について文献ごとの食い違いが大きくなり過ぎません。

    (表が縦に大きすぎる)
    Q2. 扱う文献の数が増えると表が縦に広がりすぎて一望できなくなるけど。
    A2. 同じ/似た項目・内容を結んでしまうと、スクロールしながらでも意外となんとかなります。
     あと、表が縦に広がりすぎるのは、文献の数よりも、ひとつのセルにたくさん書き込む方が原因になるようです。自分でわかる範囲で縮めるなりキーワードだけにするなりすると、コンパクトになります。

    (表が複雑すぎる)
    Q3. 言われたとおり、関連あるところを結んでいったらスパゲッティ状に混み合って、訳がわからなくなったぞ。
    A3. 複雑になりすぎたら、発見した事項をまとめなおす良い機会です。
     他に複雑さを軽減するコツとしては
    (1)同じ/関連する項目だからといって、すべてを囲んだり、つないだりする必要はありません。
    特にどの文献にも出てくる内容/トピックは囲む必要はないです(むしろ表全体の属性としてメモしておくべき)。例につかった表だと、ベーコンやミルや帰納法は、マーキングもしてません。
    (2)色付け/マーキング→囲む→囲んだものをつなぐ順で作業するといいです。つなぐのは最重要なものだけにします。そこまでの重要度がないものは色付け/マーキングだけでもなんとかなります。
      
    (面倒すぎる)
    Q4. こんなものわざわざ作らなくても、どことどこが繋がるか/関連してるかぐらいすぐわかるし覚えていられる。わざわざ表を作るまでもない。
    A4. 元々〈面の読書〉を支援するための道具なので、なくてもできる人は使う必要は無いでしょう。ただ、作業しておくと定着度は違いますし、作業したものを残しておくと、時間をおいてから助かったりします。




    (例につかった文献)
    赤川元昭(2009)「仮説構築の論理--演繹法と枚挙的帰納法」『流通科学大学論集 流通・経営編』 22(1), 81-104.
    赤川元昭(2010)「仮説構築の論理--消去による帰納法」『流通科学大学論集 流通・経営編』 22(2), 149-163.
    赤川元昭(2010)「ベーコンと新しい帰納法」『流通科学大学論集 流通・経営編』 23(1), 39-61.
    大垣俊一(2007)「ミル型論証と生態学」『Argonauta』14, 3-9.
    岡本慎平(2011)「推論と規範 : J.S.ミル『論理学体系』における生の技芸とその構造について」『哲学』 63, 73-87, 2011-00-00
    岡本慎平(2012)「他者の心と神の実在:J.S.ミルの類推論法と意識の諸問題」関西倫理学会2012年度大会 2012年11月3日
    佐々木憲介(1993)「J.S. ミルの具体的演繹法 (1)」『經濟學研究』 43(3), 67-84.
    佐々木憲介(1994)「J.S.ミルの具体的演繹法 (2・完)」『經濟學研究』 44(1), 17-34.
    中桐大有(1974)「帰納法と発見(上)」『人文學』 (126), 1-20.
    中桐大有(1974)「帰納法と発見(下)」『人文學』 (127), 80-98.



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     今日では、「数学は役に立つ」という表現は、ほとんど冗語である。
     しかし20世紀に入ってもまだ、そう口にすることは、上品な人たちの怒りを買い嘲笑を受ける危険があった。
     
     数学は蔑まれていたのではない。
     むしろ《役に立つ》以上のものとして扱われていた。
     
     誤解を恐れずに言えば、数学は、ラテン語や古代ギリシア語と同様に、古典古代の精華を今に引き継ぐ《古典科目》のひとつであった。
     実利性を欠くが故に、エリートが学ぶべきもの、エリートしか学べないものとしての地位を保っていた。
     イギリスでは19世紀の半ばになっても、オックスフォードやケンブリッジといった大学では、数学、ラテン語、古代ギリシア語の三つを身につければよかった。
     そのかわり、大学に残り自分の研究をやろうとするならフェローとなる必要があったが、それには、難関であったトライポス(優等卒業試験)をパスし、しかも優秀な成績(おおよそ上位3人まで)をとらなくてはならなかった。
     そして1850年頃まで、数学のトライポスをパスしないことには、ラテン語やギリシア語のトライポスを受けることすらできなった。
     1870年に初等教育法ができ、一般大衆のための教育制度が整うまでは、中等教育を担うのは、名門オックスブリッジへの予備門の性質を持ったパブリックスクールだけだった。そこでの数学もまた形式陶冶のためのもので、それ自体の価値より、学習を通じて知的能力が鍛錬されることを目指しており、ユークリッド(エウクレイデス)の原論(ストイケイア)が未だ幅をきかせていた。
     こうしてイギリスの数学教育は、ヨーロッパで最も遅れたものになっていた。
     
     
     しかし時代の流れが最も速く流れているのも、この国であった。
     他の国々に先駆けて産業革命を成し遂げた、その技術的優位のおかげで、当時のイギリスは繊維製品をはじめとする工業製品の世界的・独占的供給者となった。
     〈世界の工場〉の担い手たるブルジョアたちは、国政への参加と自由貿易の確立という長年の要求を掲げて貴族・地主たちと激しく戦い、勝利をおさめた(1832年の第1次選挙法改正,1846年の穀物法廃止)。
     実のところ、1880年ごろまでは上院下院とも国会議員の圧倒的多数は地主たちが占め、穀物法廃止も直ちに大量の穀物の海外からの流入をもたらし地主たちの農園収入を減らした訳ではなかった。地主たちは退場せず、むしろブルジョアの方が自分たちを地主化しようとした。すなわち、競って田舎に土地と邸宅を買い求め、パブリック・スクールに自分の子息を送り込んだ。
     
     一方、イギリスには、国の技術的優位を担う多くの技師・技術者たちと、数ではさらに多い労働者たちがいた。
     かつて農村で生活と混然一体となっていた労働は、工場のそれへと移行した。かつて当然だった家族単位の労働(農業であれ,家内工業であれ,大半の商業であれ)はバラバラになり、家族集団とはまったく別の編成で行われるようになった。
     それまで人は、家族と共に働く中で職業に必要な知識を学んでいた。家族を離れて徒弟奉公に出たとしても、徒弟先もまた家族的経営でその業を営んでいたのだった。
     生産単位としての家族の解体は、家庭や共同体がもっていた職業などについての教育機能を低下させていった。
     しかし科学研究が興隆し、次々と産業での応用に流れ込んでいた時代、学ぶべきものは増えこそすれ減りはしなかった。
     教育の場=学びの場を、これまでとは違った形で再建しなければならないのは必然だった。

     それ故に、数学教育における最も徹底した革命は、その最も遅れた国、最も保守的だった国に起こる。

     口火を切ったのは、理想主義に傾く若者ではなかった。
     彼はもう何十年もの間、イギリスで、それからあの極東の小国で、工学とそのための数学を教えてきた老練の教師だった。
     彼はパブリック・スクールで始めて実用数学を教え、その手腕を見込まれ、工業化を担う最初の技師たちを育てるため日本へ赴いた。
     教室ばかりでなく、フィールドワークでも常に学生に発問し、自然科学ならどんな知識を呼び寄せてもよいから答えてみよと迫り、時には水利の難問を抱える村を学生たちとともに解決することもあった。
     日本では、イギリスに帰国後も仕事を続けることになる共同研究者と出会った。相棒は実験を、彼は数学を、それぞれ担当することが多かった。そして二人は実験室に学生たちを呼び寄せ、答の決まった実験実習ではなく、まだ世界で誰も解いたことのない問題に挑む自分たちの研究に参加させた。彼の学生たちは、イギリスの学術誌に発表された論文の中で賛辞をおくられた。
     彼の任期はわずか数年であったが、学生たちに強烈な印象と影響を与えた。彼の教え子たちは、発明を行い、事業を起こし、工事を指揮し、そして後進を育てた。
     彼もまた、日本での経験から多くの知恵と自信を得た。どの著作の前文も、この時の経験に触れないものはない。


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    John Perry (1850-1920)


     日本の工学教育の源流を担ったジョン・ペリー(1850-1920)の名は世界を駆け巡った後、彼が去った半世紀後に再び日本でも聞かれることになるだろう。
      20 世紀初頭イギリスに始まり、世界に拡散した数学教育改造運動の提唱者として、すなわち誰もが自然科学を、そのために数学を、学ぶべきであり、また学ぶことができると世界を説得した一人として。






    1864 ベルファスト

     1850年、マクスウェルがケンブリッジ大学の聖ペテロカレッジに入学したその年に、ジョン・ペリーは北アイルランド、ロンドンデリー州のガーヴァー(カルヴァ)という小村で生まれた。
     アイルランドの首府ベルファスト、ペリーが14歳まで学校(Model School)に通い徒弟奉公に出たその町までは80kmの距離がある。
     
     前述したとおり、この時代のイギリスにはまだ初等教育の制度は整っていなかった。技術者向けの教育を施す学校も存在していなかった。
     ペリーたちの世代の技術者が、やがて新設される技術学校で最初の教師になっていくのだが、彼ら自身はこれまで職人たちが通ってきた道、すなわち徒弟奉公に出て実地に経験を積むのが通常だった。
     
     しかし新しい波が技術者たちにも押し寄せてきていた。
     工業上の実際問題を解くために、19世紀半ばまでは、ギリシア以来の静力学だけで間に合うことがほとんどだった。そのために必要な数学は連立一次方程式か、せいぜい二次方程式の解法までだった。
     だがここに電気の時代が来ようとしていた。
     ペリーが徒弟奉公に出た1864年には、ウィリアム・トムソンに示唆を受け、電磁気学の研究を続けていたマクスウェルがファラデーの直感と実験的研究の成果を連立微分方程式にまとめることに成功した。
     これと前後して、敷設されたもののすぐに不通になってしまった、大西洋を横断する海底電信ケーブルの計画見直しがトムソンに依頼されていた。トムソンは実験と計算を繰り返して必要な銅線および絶縁部の断面積を割り出し、また水圧から水深を測定するケミカルチューブを発明してケーブルの強度を計算するための水圧データを集めた。1866年には完成した新ケーブルは十分な性能を示し、商業的な成功を収める事になった。トムソンはこの功績によりナイトの爵位を得ている。
     
     
     14歳で徒弟となったペリーはすでに三角法、代数、幾何学などの知識をいくらか持っていた。
     しかし実地に学ぶ以上の技術を身につけようと手に入れた2冊の技術書で、彼は知らない数学記号と出会う。
     
    dydx.png

    (Perry, J. ed. (1901),‘ The Teaching of Mathematics, Discussion on the Teaching of Mathematics, Macmillan. p.9.)

    「他の子供たちは他の贅沢品を欲しがったかも知れないが、私が欲しかったのは dy/dxと∫の知識だった。振り返ってみると、これらの記号の使い方について、私は数年間憧れていたように思う。教えてくれる人は誰もいなかった。私は才能あるエンジニアを数多く知っていたが、彼らも私を助けてはくれなかった。しかしついにこの知識を得られる機会を得た。」




    1868 ベルファスト

     4年の徒弟奉公の後、1868年、ペリーは鋳物工場に勤めながらではあったが、同じベルファストにあったクイーンズ・カレッジに通い出した。
     カレッジでは、ジェームズ・トムソン(先に触れたウィリアム・トムソンの兄)が受け持つ工学のクラスに出席した。
     意欲はあったが、学業ははかばかしくはなかった。
     同級生が安々と問題を解いていく間、ペリーは四苦八苦しながら1題1題と悪戦苦闘した。
     カレッジにいる間ずっと、自分は愚鈍であるという意識に悩まされた。
     
     長い教師生活を経た後、ペリーは自身のこの経験を振り返っている。
     級友たちは問題の解き方を知っていた。解法のコツを教えられ(何故なら、それが当時の学校で教える大部分であったから)、そのコツを使って教科書の問題を高速に(そして機械的に)処理していた。
     それに引き換え、ペリーは、やっと手に入れることができた心の道具mental tool(ペリーは微分積分の原理をそう呼んだ)を、あらゆる問題に片っ端から応用したくて、実際にそれを試していた。それがアカデミックなものであろうとなかろうと、そして解ける見込みがあろうとなかろうと。
     つまり、ペリーは、公式というルールを知らずプレイしていたのだが、実は違う種目をプレイしていたのだ。
     


    1871 ブリストル
     
     1870 年、ペリーはクイーンズ・カレッジを優等で(金牌をもらって)卒業し、バチュラー・オブ・エンジニアリングとなった。
     アイルランドからイングランドへ行き、1871年ブリストルのクリフトン・カレッジで物理と数学を教える職(物理学講師と数学教師心得)を得た。
     クリフトン・カレッジは、1862年に創立、1877年に国王認可を得ることになる新設のパブリック・スクールだった。
     前述のとおり、パブリック・スクールは、ケンブリッジやオックスフォードへ行くためにラテン語や古代ギリシア語を教えるようなところだから、そこでの数学はユークリッドの原論を教えるのが当然だった。
     ところがペリーは1873年から、クリフトン・カレッジで「実用数学」を教え始めた。時に23歳、この後、終生つづくことになる伝統数学との戦いが、ここに始まることになる。加えて、ペリーの数学教育の武器となるツール、たとえばペリーの代名詞となる〈方眼紙 Squared Paper〉も、この時使い始めた。方眼紙は、数式をまだよく知らない人にも、それどころか十分に読み書きができない人にも、数的関係を目に見える形にして示し気付かせることのできる強力なツールだった。
     (ペリーの回想によれば)1876年頃まで、方眼紙は非常に高価なものだった。したがって多くの人はその使い方を知ってはいたが、実際にはごく少数の人が特別な場合にしか使わないものだった。
     
     

    1874 グラスゴー

     しかしペリーは1874年にはクリフトン・カレッジを去り、スコットランドのグラスゴー大学にイギリスではじめて物理学研究室をつくったウィリアム・トムソンの無給助手となった。
     ペリーは、ウィリアムの兄ジェームズ・トムソンの工学のクラスにいたので、おそらくは目下ウィリアムが抱えている案件についても知らされていたのかもしれない。
     というのは1873年(明治6年にあたる)、極東の島国に新たな工学教育機関、工学寮(明治10年1月からは工部大学校と改称、英名Imperial College of Engineering)が創設され、イギリスから9名の教授陣がすでに赴任していたからだ。彼らの人選はグラスゴー大学のウィリアム・ランキンとウィリアム・トムソンがあたっていた。
     


    1875 東京

     工学寮は、日向内藤家上屋敷跡地、現在の千代田区霞が関三丁目に創設された。
     予科、専門科、実地科(いずれも2年)の3期6年制を採用し、土木、機械、造家(建築)、電信、化学、冶金、鉱山、造船の各科を有した。1865年創設のカールスルーエ工科大学を皮切りに生まれた(大学とは別立ての)ドイツの工科大学とくらべても、2倍の修業年限となる、同時期のヨーロッパにも類を見ない(そして勿論イギリスにはない)本格的な工学教育機関だった。実質的に現在でいう修士課程を含み、実際、優等で卒業した者にはMaster of Engineerringが与えられた。
     

    koubudai-l.jpg
    工部大学校



     すでに第1期生が予科を終え、専門科に進もうとしていた。
     グラスゴーで1年を過ごし、その間に最初の著作『An Elementary Treatise on Steam(初等蒸気学)』を上梓したペリーは、1875年8月土木工学担当の助教師(Joint Professer)として日本に赴任した。
     ペリーに遅れ、1876年には造家学(いまの建築学)担当のジョサイア・コンドル(鹿鳴館、ニコライ堂など設計)、鉱山・鉱石・地質学担当のジョン・ミルン(日本地震学の父)、物理学・電信学のトマス・グレイが赴任し、工学寮は全科の教員を揃えることになる。

     ペリーはここで、すでに教頭格として赴任し、物理学・電信学を担当していたウィリアム・エアトン(1847 - 1908)と出会った。ペリー(在任1875-79)とエアトン(在任1873-78)が共に日本にいた期間は数年に過ぎないが、その間に50篇以上の共同の論文を発表した。マクスウェルをして「電気学の研究の中心は今やイギリスから東京へ移った」と言わしめたというフォークロアがあるほどだった。エアトンはペリーが来日するまで一本も論文を出していないから、二人の共同研究にどんな化学反応があったのか、互いに得がたい存在であるのは確かだった。二人の研究には、電磁気学に属するものが多いが、中には「フーリエの〈熱の理論〉に基づく石の熱伝導率について」「東京における重力加速度の決定」「これまで地震観測で無視されてきた1つの原則について」「日本の魔鏡 The Magic Mirror of Japan」といったものもある。
     
     工学寮は高価な実験装置を準備できるだけの力があったらしい。ペリーとエアトンが日本でまとめた最初の論文「諸気体の電気伝導率」は、1865年に発明されたばかりのスプレンゲルの水銀空気ポンプを使った真空放電実験を扱ったもので、実験は1877年3月4日から11日にかけて行われた。ペリーとエアトンは3月18日にもう、在日の科学者・技術者(つまりお雇い外国人)相互の交流を目的とした日本アジア協会Asiatic Society of Japanでこの研究を報告している。
     この研究発表には二人の多産ぶりの理由の一端があるが、もうひとつ、日本での彼らの共同研究の特徴もすでに現れている。
     ペリーとエアトンは、自分たちの研究に、学生たちをつねに参加させていた。
     「諸気体の電気伝導率」の末尾には、二人の日本人KawaguchiとNishitakaの研究協力への賛辞が述べられている。工学寮の卒業名簿にはニシタカという姓は見つからないが、この年、電信科の第1期生には川口武一郎という学生が4年生で在籍していた。つまり専門科を終えていない学生を、実験に参加させていたのである。
     別の論文において、このあたりの事情は次のように説明されている。
     「我々が過去数年間おこなってきた他の実験と同様に、この研究もまた、実験室の学生に教えるのに我々が採用したプラン、すなわち普通大学でやるように〈学生たちによく知られた実験を繰り返させる〉のではなく、〈現在の知識の限界を彼ら自身の研究で、少しでも切り拓くようにさせる〉という教授プランに基づくものであった。…〈ごく未熟な学生たちにも、オリジナルな研究の助手として仕事をしてもらう〉というこのやり方は、〈実験的な作業において、さもなければ生じ得ないような熱意を作り出す〉ことを、我々は知ったのである。」
     ペリーとエアトンの共同研究のテーマが多岐に及んでいるのも、ひとつには学生の実験指導を兼ねたためであった。
     
     二人の論文以外に、ペリーたちがどんな指導をしていたか知る資料には、『旧工部大学校史料付録』(1931)に収められた卒業生の回顧録がある。
     修学旅行に出かけたペリー先生と学生一行、川崎でちょうど建築中だった鉄橋のところに差し掛かると、架けられたばかりの電線が強風で音を立てている。ペリー先生は突然立ち止まり、
    「ここに自然がある」
    といって学生たちの顔を見回す。
    「どういう訳で音が鳴っているのか、誰か答えてみよ」
    と問いを投げてくる。問うのは土木の先生で、問いは音響学に属するが、もちろんペリー先生は一向におかまいなし。
    「自然科学なら何でも持ってこい」
    と学生たちに答えさせようとする。
     別のとき、ペリー先生はまた学生を連れて利根川畔を旅行した。印旛沼で、地層に貝の化石を見付けると
    「これを講釈しろ」
    という。その時分は学生たちも地質学を習っていたから何とか答えることができた。
     また銚子に行った時は、土地の地形に詳しい案内者を伴い、河口を検分して学生たちに略図を作らせた。何をするのかと思っていたら、築港の案を2種類つくれ、という。学生の案を待って、甲案と乙案をそれぞれ批評して教える。
     一事が万事この調子で、なんでも見当たり放題、何学だろうとお構いなしに、問題を出して答えを待つのである。こんな具合だから、実地の事柄は随分と速く覚えることができたと、卒業生は回想している。
     
     ペリーは土木工学とともに数学も担当した。
     工学寮の数学は、予科1年では毎日1時間半ずつ、予科2年では数学と力学の講義をそれぞれ週3回と週2回のこれも1時間半ずつ行っていたが、専門科で実際問題を解決するには、これでも不十分だった。
     ペリーは、定義と公理から始めるユークリッド流を取りやめ、定規とコンパスで図形を描くかわりに方眼紙を使って関数値をグラフに描かせるようにした。そのためには分数よりも、精度を指定した小数を使わせ、そして、なるだけはやく微分積分に進ませ、自分の道具にさせるのである。
     パブリック・スクールでは抵抗を持って迎えられたペリーの「実用数学」だったが、日本には
    「技術者臭い数学では知性の鍛錬はできない」などと言い出す守旧派はおらず、この新しい国にはすぐにでも技術を学び実地に役立てる必要があった。
     
     こうして工学寮は、辰野金吾、高峰譲吉、藤岡市助、井口在屋、志田林三郎、田辺朔郎ら明治の工学界・産業界の指導者・技術者を輩出し、日本の工学教育の基礎を築くことになる。
     

    1879 ロンドン

     工学寮(と後の工部大学校)で教えた後、イギリスに帰った教師たちは工部大学校のような工学学校をつくることに奔走した。
     前述のように、イギリスにはまだ工学教育を専門とする高等教育機関は存在していなかった。技術者教育は、ペリーや校長格のダイヤーがそうだったように、徒弟修行と夜間学校のような、本来異質なものを本人の努力が束ねる形で成り立っていた。

     科学史に登場するものとしては、わずかに1845年にドイツから科学者ホフマンを招いて設立された王立化学学校 (Royal College of Chemistry)が存在したが、実態は、出席義務もなく、したがって学生は週に1〜6日好きなだけ登校して、試験もなく、修学年限すら決まっていない(半数の学生は半年で退学した)ような、現在の学校のイメージからはかけ離れたものだった。
     ペリーやエアトンが工学寮で教えていた頃にはもうひとつ理系の学校として、王立鉱山学校(Royal School of Mine)が存在した。これはずっと学校としての体裁を備えたもので、ジョン・ティンダル(1820-1893、ティンダル現象の発見者)やエドワード・フランクランド(1825-1899、有機金属化合物の発見、原子価の概念の先駆者)、トマス・ヘンリー・ハクスリー(1825-1895、ダーウィンの番犬)など、新しい世代の科学者に就職口を与えていた。
     
     そして1878年、City and Guilds of London Institute(C&G)という団体が、まさに科学技術教育を進行する機関として女王の認可状を受けて設立された。
     C&Gがはじめに行ったのは、長州五傑も学んだロンドン大学ユニバーシティ・カレッジに機械工学講座を新設することだった。
     ペリーよりも1年早く(1878年)、そして任期満了を待たずイギリスに帰国したエアトンは、C&Gの設立その他の動きを知っていたらしく、新設の機械工学講座の応募に合わせて帰国した節がある(ユニバーシティ・カレッジはまた、グラスゴー大学でトムソンにつく前にエアトンが学んだ母校でもあった)。しかし、このポストには9人の応募があったが誰も採用されなかった。
     C&Gは続いて1878年中にもう一つ、今度はロンドンのフィンズベリーに工学・工業を専門とする初の学校Finsbury College of the City and Guilds of London Technical Instituteを設立した。この学校には14〜17歳のための全日制コースと工学局試験受験者のための夜間コースがあり、Collegeというものの中等教育機関として設立されたものだった。エアトンはこれにも応募し、今度は応用物理学の教授に就任することができた。


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    Finsbury College of the City and Guilds of London Technical Institute


     1879年、エアトンより1年遅れてペリーはイギリスに帰国した。すでにフィンズベリーの工業学校のポストは埋まっており、ペリーは教師を続けることを希望していたが、ほかに工学の教師の口はなかった。
     ペリーはMessers. Latimer Clark, Muirhead &Co.という会社に就職し、電動線工場で設計から労働者の雇用係まで様々な仕事を担当した。その傍ら、エアトンの研究室に通い、日本で行ったのと同様に共同研究を進め、就職が決まる4年間に二人で13本の論文を発表した。
     1882年、ペリーはフィンズベリー工業学校に機械工学と応用力学の教授として採用された。
     この時フィンズベリーにはエアトンの他に、のちに日本でも〈発見的教授法Heuristic Method〉〈実験室教授法(Laboratory Teaching〉で知られるようになる化学者ヘンリー・アームストロング(1848-1937)がいた。ペリーはアームストロングと終生の友人となった。ちなみにエアトンとアームストロングは仲がよくなかったらしい。
     もっともC&Gはフィンズベリー校が創設後、ただちに同じくロンドンのサウスケンジントンにCentral Institutionという学校の設立にとりかかっていた。こちらは3年制の工業専門学校であり、フィンズベリーを出た者がさらに学べる工学の高等教育機関であった。1884年にこれが完成すると、フィンズベリー校の創立時メンバーであったエアトンとアームストロングはそちらの教授として移っていくこととなり、ペリーが彼らと共にいたのは2年間ほどだった。
     
     ペリーはフィンズベリーに採用後、すぐに2冊めの著作として『Practical Mechanics(実用力学)』にとりかかり、1883年に出版した。
     この教科書は、ペリーがフィンズベリーで何をどのように教えようとしたのか(ティーンエイジャーの他に、かつてのペリーのように働きながら学ぶ徒弟修業の人たちもやってくるだろう)、そして日本の工学寮での教授経験(そこでは一国を背負って立つエリートたちを教えた)から何を得てどんなことを信じるようになったかを教えてくれる。


    PracMecha.png

    (John Perry(1883), Practical Mechanics CASSELL & COMPANY. p.v.)

    前書き
    本書は、数学を知らない読者non-mathematical readersに、力学を学ぶ方法を提示する試みである。読者はこの本をただ読むだけでは、あまり得るところはないであろう。力学の講義を聴講して補ったとしても、多くは得られまい。しかし私はこう信じる。講義によって本書について徹底した理解を得てから、簡単な装置(最低の実験室にでもある、この講義でやることしか確かめることのできない装置)を使ってありふれた実験をするなら、また本書の中で勧められるやり方でこの本を活用するなら、短期間のうちに労力が十分報われるだけの活きた知識を得ることができるだろう。私はまた、こうしたやり方で得られる精神陶冶mental trainingは、ふつう精神陶冶のために学ぶと人びとが信じている古典とユークリッドから得られるものにも劣るものではないと確信している。


     そしてこう続ける。

     
     The principle of my method is one which I have tested in practice during the last twelve years, in an English Public School, at the Imperial College of Engineering in Japan, and in other places.(ibid. )

     私の方法の原則は、過去12年間、イギリスのパブリック・スクールや日本の工学寮(工部大学校)Imperial College of Engineeringその他で実際に試してきたものである。



     少し後で、ペリーはこのように指摘する。

     
     The primary fact in technical education not yet sufficiently recognised is this that illiterate men often acquire and possess a useful knowledge of the principles underlying their trade. But the theory usually acted upon is that a man must be quite ignorant of the principles of his trade unless he has been led up to them through weary years' study of the elementary principles of science.(ibid. )
     技術教育において未だ十分認められていない第一の点は、無学な人びともしばしば、自分の職業の基礎となる諸原理について、有用な知識を獲得し身につけているという事実である。これに対して、ふつう信じられている考えは、科学の初歩的な原理について何年もうんざりするほど教えられていなければ、人は自分の職業に関する諸原理についても何も知らないに違いない、というものである。

     
     しかし、これは事実ではない。
     ちょっと目端の利く見習いなら(これはペリー自身の経験でもあるだろう)次のことに気づいている。無学でも、他の者より多くの信頼と儲けを得ているよく出来た職人は、仕事で出会う複雑な事象の奥に潜む法則について精確な知識を持っている。
     しかし学校で学んだ人が、こうした知識のあり方を認めないのには理由がある。ペリーはまた、別の経験からこのことを知っている。これまでの学校は、次のように教え、また次のように知識を扱ってきたからである。
     
     
     In giving this knowledge, however, the usual plan of operations is to act on the assumption that the man knows nothing, because he did not begin his previous study with Euclid's axioms, and to teach him the elementary principles as schoolboys of no experience are taught. Now, the standpoint of an experienced workman in the nineteenth century is very different from that of an Alexandrian philosopher or of an English schoolboy, and many men who energetically begin the study of Euclid give it up after a year or two in disgust, because at the end they have only arrived at results which they knew experimentally long ago.
    (Ibid. p.vii.)
     しかし、前もってユークリッドの公理を学んでいないなら何も知らないものとして、無経験な生徒に教えるように初歩的な原理から教えこむのが、知識を与えるに際しての普通のやり方なのである。しかし今、19世紀の経験ゆたかな労働者が立っている場所は、アレキサンドリア時代の哲学者やイギリスの生徒たちのそれとは、全く違う。それに精力的にユークリッドの学習を始める人ですら、1年か2年後には嫌になってやめてしまうのだ。なんとなれば、彼らが最終的に到達するのは、自分たちがとっくの昔に経験的に知っていた結論なのだから。

     
     ペリーは再び、ユークリッドの知と切り結ぶところまでやってきた。
     ユークリッド流の教え方が、知っている者を知らない者として扱う転倒したやり方であるならば、それをもう一度ひっくり返せないだろうか。
     
     すなわち、学校で無知扱いされている子どもたちを、労働者がそうだったように、既に経験から何事かを学んでいる者として扱うこと。
     
     それは可能だとペリーは言う。計12年間のイギリスのパブリック・スクールや日本の工学寮での経験がそれを確信させる。
      
     I am inclined to believe that if, instead of forcing the workman to study like a schoolboy, we were to teach the boy as if he had already acquired some of the experience of the workman, and made it our business to give him this experience, we should do better than at present. That is, let the boy work in wood and metal, let him gain experience in the use of machines, let him use drawing instruments and scales, and you put him in a condition to understand and appreciate the truth of the fundamental laws of nature, such a condition as boys usually arrive at only after years of study. (ibid. )
     私は次のことを信じたいと思う。労働者を生徒のように学ばせようと強制するのでなく、労働者が持っているある種の経験を生徒も持つように教えるべきなのだ。そうした経験を生徒に与えることが我々の仕事であるなら、我々は今よりずっとうまく教えることができるはずである。すなわち、生徒に木材や金属で作業をさせよう。機械を扱う経験をさせよう。製図用具と定規を使わせよう。そうすれば、自然の基本法則の正しさを理解しその価値を認めることができる状態、普通なら何年か後でないと到達しない状態に生徒を導くことができる。


     『Practical Mechanics(実用力学)』の序文であったはずが、ペリーの筆は完全に数学教育の改革に踏み込んでいる。後年展開される改革案の基本的な部分は、実地での検証を経て、この時点ですでにペリーの深いところに刻まれていた。
     
     そしてペリーは、徒手空拳の理想家ではなく、具体的方策をいくつも準備できる実務家だった。
     彼の武器庫の一端を『Practical Mechanics(実用力学)』にも見ることができる。摩擦をあつかった第2章の第6節は「The use of Squared Paper」と題され、数学のみならず力学教育に方眼紙の使用することの利点が述べられている。

      
    6. The use of Squared Paper.
     And here we come to a matter of the greatest importance to the practical man, which the old-fashioned books on mechanics and old-fashioned teachers of Science Classes seem not to know anything about. How do we practically compare two things whose values depend on one another ? How do we find out the law of their dependence? It is a strange fact that there should be a class in the community who have a little difficulty in manipulating decimals in arithmetic, but it is almost a stranger evidence of neglected education that so many people should be ignorant of the great uses to which a sheet of squared paper may be put.
     A sheet of squared paper can be bought very cheaply. … This sheet will enable me first of all to correct for errors of observation in the above series of experiments ; and, secondly, to discover the law which I am in search of.
    (Ibid. p.7)

    6.方眼紙の使用
     ここで我々は実際家にとって最も重要な事項へ進む。これは旧式の力学書や旧式の科学教師たちが全く知らないものである。我々は実際、互いに依存しあう2つの事項をどのように比較するだろうか? その依存関係の法則をどのように見つけ出すだろうか? 小数を扱うのが苦手なクラスがあることも奇妙な話だが、多くの人々が方眼紙がもたらす役割を知らないでいることも、さらにおかしことで、教育を軽視するものである。
     1枚の方眼紙は非常に安く買える。…方眼紙を使うことで、第1に上記の(摩擦の)実験において、測定誤差を修正することができる。第2に、私達が探している法則を発見することが可能になるのである。

     
     
     1876年頃まで高価だった方眼紙が、ここでは安価で手に入るようになっていることが、まず注目される。
     ペリーが、元々数学で使っていた方眼紙を、物理学や工学の授業にも適用拡大したのは、日本の工学寮でだった。それはできるだけ早く自然科学や工学を学ぶ必要のあった日本とその学生のニーズにマッチしていた。
     数学を知らない読者non-mathematical readersに力学を学ぶ方法を提供するこの書でも、方眼紙の役割は重要である。数式を扱うのが苦手な人達も、測定値を丁寧に方眼紙上にプロットしていけば、自分でその法則性に気付き、現実の測定値はそこからずれることをも知ることができる。だからこそ実際家と実際家を育てる教育にとって、方眼紙は欠くべからざるツールだった。
     
     
     
     
    1896 ロンドン

     実のところ、イギリスの数学教育の立ち遅れはすでに問題となっていた。科学研究や技術応用の進展からますます乖離していたことや、生徒たちだけに焦点を合わせても、ペリーも言ったように挫折する者が少なからずいることなどが特に重大だった。しかし数学教育関係者や数学者の提案はペリーよりずっと穏当なもので、分かりにくいユークリッドをどのように教えれば分かりやすくなるのか、といったものが多かった。
     たとえば1871年にロンドン大学のハーストらによって設立された幾何学教育改良協会(Association for the Improvement of Geometrical Teaching)がつくった幾何学の教科書 The Elements of Plane Geometry (Vol.1 1884)(Vol.2 1888) は、単純な概念から順に学習できるようユークリッドの命題を分類し直した点で、それまでの原典主義を脱した画期的なものだったが、作図には定規とコンパスを使用するという原則や、定義から出発し命題を順に証明する教授法は変わらず引き継がれていた。
     
     対してペリーの『Practical Mechanics(実用力学)』は力学の教科書だが、これまで見たとおり、現行の数学教育の前提を批判し、新しい教育法を提案する過激な内容を含んでいた。
     ペリーは従来の教育関係者よりも、時代の要請を受け量質ともに勢力を広げつつある技術者、工学者たちの列に属していた。
     時代のニーズを掴んでいたこの書は版を重ねることとなり(1886年に第3版、さらに1889年,1891年,1893年,1896年に重版)、ペリーが日本へ渡る前に書いた『初等蒸気教程』も版を重ねていた。

     こうしてペリーの名は次第に知られるようになり、工業教育の中心人物のひとりと目されるようになった。特に、系統だった正規の教育を受けていない労働者への教育(その必要は日増しに増していた)では、第一人者と見なされるようになっていた。

     数学教育に打ち込みながら、エアトンとの多産な共同研究はつづいていた。教育・研究の両面で業績を積み上げていたペリーは、1896年、王立理科学校Royal College of Scienceの数学および力学の教授に就任することになった。
     この学校は、財政難から一時は王立鉱山学校と合併した王立化学学校が、1881年に理科師範学校The Normal School of Scienceとして再び独立し、1890年に王立理科学校へと改組改名し、エアトンやアームストロングが所属する中央工科学校Central Instituteと同列の、工学高等教育機関となったものだった。
     
     ペリーはフィンズベリーを去ることが本決まりになると、フィンズベリーでの経験をまとめ、中等教育向けの2つの教科書『The Calculus for Engineers(技術者のための微積分)』『Applied Mechanics(応用力学)』を執筆した。
     一冊目は、タイトルどおりペリーが書いた初の数学書であり、そのテーマは、ペリーが徒弟時代につまづき学校で学ぶきっかけとなった微積分だった。
     これは旧来の徒弟修業では学ぶことができないが、新時代の技師・技術者には不可欠であるという、時代が要請する工学教育の中で象徴的な位置を占める科目だった。


    PREFACE.
     THIS book describes what has for many years been the most important part of the regular course in the Calculus for Mechanical and Electrical Engineering students at the Finsbury Technical College. It was supplemented by easy work involving Fourier, Spherical Harmonic, and Bessel Functions which I have been afraid to describe here because the book is already much larger than I thought it would become.
     The students in October knew only the most elementary mathematics, many of them did not know the Binomial Theorem, or the definition of the sine of an angle. In July they had not only done the work of this book, but their knowledge was of a practical kind, ready for use in any such engineering problems as I give here.
    (John Perry(1897), The Calculus for Engineers. p.v.)
    序文
     本書は、長年に渡りフィンズベリー工科学校の機械工学と電気工学の生徒たちのために行われた微積分の正規授業の最も重要な部分を記したものである。この他にフーリエ関数や球面調和関数、ベッセル関数に関する簡単な演習があったが、本書は私が考えていたよりすでに大きなものになっているので今回は割愛した。
     10月の時点で生徒たちは最も初歩的な数学しか知らず、ほとんどの生徒が二項定理もsinの定義も知らなかった。翌年の7月には、彼らは本書の演習をやり終えただけでなく、その知識は実用的なものになっており、私が出した工学上のどんな問題に対しても応用できるようになっていた。


     ペリー式の数学教育の特徴は、その速さと実用性である。
     第一章の冒頭には、その理由と、本書が読者として想定する範囲が述べられている。


    INTRODUCTORY.
    1. The Engineer has usually no time for a general mathematical training—more's the pity—and those young engineers who have had such a training do not always find their mathematics helpful in their profession. Such men will, I hope, find this book useful, if they can only get over the notion that because it is elementary, they know already all that it can teach.
     But I write more particularly for readers who have had very little mathematical training and who are willing to work very hard to find out how the calculus is applied in Engineering problems. I assume that a good engineer needs to know only fundamental principles, but that he needs to know these very well indeed.
    (Ibid. p.1)

    序論
    1.エンジニアにはふつう一般数学のトレーニングに費やす時間がない。さらに残念なことだが、そうした数学のトレーニングを受けたことがある若いエンジニアは、数学が自分の仕事に役立つと必ずしも気付かない。こんな初歩的な本に書いてあることぐらい知ってるよ、という意識を捨てさえすれば、彼ら(数学を学んだことのあるエンジニア)もきっと本書が役に立つものだと気づいてもらえると、期待する。
     しかし、彼ら若手エンジニアよりむしろ、特にこれまで数学のトレーニングを受けたことがないが懸命に勉強する意欲のある人たちに向けて、エンジニアリングの問題にいかに微積分が応用できるかを分かるように、私は書いた。よいエンジニアというものは基礎的な原理をただ知るだけでなく、しっかりと知る必要があると、私は考える。



     王立理科学校に移った1896年頃から、ペリーは社会的な発言を求められ、また自身もそうした発言を行う機会が増えた。
     労働者向けの講演を行い、工学の教科書を書くのは、これまでのペリーの教育・研究活動の延長線上にあったが、1900年ペリーが書いた「England's Neglect of Science(イングランドの科学軽視)」という文章が『Nature』誌(7月5日号)に掲載された。板倉聖宣によれば、研究論文以外で公にされたペリーの最初の文章である。さらに同誌8月2日号には「The Teaching of Mathematics数学の教育」という文章が掲載された。
     いずれもイギリスの自然科学教育、数学教育の後進性と停滞性を批判し、新しい考えに立った教育法の必要を訴えたものだった。
     これまで教科書に埋め込む形で書いてきた自身の科学/数学教育論を、より広い世界に訴えるべくペリーは動き出した。



    1901 グラスゴー

     1901年9月14日グラスゴーで開催されたBritish Association(大英学術協会)主催の「数学教育シンポジウム」に、ペリーは招かれ講演を行った。
     これがのちにペリー運動と呼ばれる、ドイツ、フランス、アメリカ、日本における国際的な数学教育改革の呼び水となった運動の発端となる。
     
     先に触れたように、ペリーは数学においても教育においてもメインストリームから非常に離れたところにいた。そして、その後の世界に広がった改革運動を見れば、最もラディカルな主張は、最初のペリーの講演にあったことが分かる。主張は薄められ、現実と妥協しながら拡散したのだ。

     他の教育改革者の議論が「どのように教えるべきか(how to teach)」に集中したのに、ペリーは「何を教えるべきか(what to teach)」すら越えてさらに奥へと進み、「何のために数学を教えるのか(why to teach)」にまで踏み込んだ。
     「どんな内容を子どもたちに教えなければならないか、またどんな方法で教えなければならないかを決定するものは、有用性usefulnessである」と述べ、「役に立つか」どうかという基準から、数学教育を再構成することを提案した。
     
     ペリーが考える有用性の概念は、普通考えられるものよりも広く深い。
     「数学が何の役に立つのか?」という質問に対して、ペリーはざっと思いつくこととして、有用性の例を8つを挙げる(Perry, J. ed. (1901),‘ The Teaching of Mathematics, Discussion on the Teaching of Mathematics. pp.4-5.)。


    (1) In producing the higher emotions and giving pleasure. Hitherto neglected in teaching almost all boys.
    (1)高次の感情を呼び起こし、心に喜びを与えること。これまではほとんどすべての子供たちの教育で無視。

    (2) [a] In brain development. [b] In producing logical ways of thinking. Hitherto neglected in teaching most boys.
    (2)a. 頭脳の開発。b. 論理的な思考法の育成。これまではほとんどの子供たちの教育で無視。

    (3) In the aid given by mathematical weapons in the study of physical science. Hitherto neglected in teaching almost all boys.
    (3)物理科学の学習に際し数学的な武器によって与えられる手助け。これまではほとんどすべての子供たちの教育で無視。

    (4) In passing examinations. The only form that has not been neglected. The only form really recognised by teachers.
    (4)試験に合格すること。無視されてこなかったただ一つの項目。教師たちに実際に認められた唯一の項目。

    (5) In giving men mental tools as easy to use as their legs or arms; enabling them to go on with their education (development of their souls and brains) throughout their lives, utilising for this purpose all thier experience. This is exactly analogous with the power to educate one's self through the fondness for reading.
    (5)人々に自分の手足と同じように容易に使える知的ツールを与え、生涯を通じて彼らの教育(魂と頭脳の発展)と共に彼らが前進することを可能にさせること、しかも、この目的のために彼らの全経験を生かしながら。これはまさしく読書好きのおかげで自分を教育することができるのと同じである。

    (6) Perhaps included in (5): in teaching a man the importance of thinking things out for himself and so delivering him from the present dreadful yoke of authority, and convincing him that, whether he obeys or commands others, he is one of the highest of beings. This is usually left to other than mathematical studies.
    ( 6 )おそらく(5 )に含まれるであろうが、人に自己を求めて物事を考える重要性を教え、それによって現在の恐ろしい権力のくびきから自己を解放し、他人に服従しているか、他人を支配しているかにかかわらず、自分は最高の存在の一人なのだと確信させること。これは普通数学の学習がすることとはされていない。

    (7) In making men in any profession of applied science feel that they know the principles on which it is founded and according to which it is being developed.
    ( 7 )どのような応用科学の職業についている人々にも、その応用科学を基礎づけ、それに従って発展がなされている諸原理を理解していると感じさせること。

    (8) In glving to acute philosophical minds a logical counsel of perfection altogether charming and satisfying, and so preventing their attempting to develop any philosophical subject from the purely abstract point of view, because the absurdity of such an attempt has become obvious.
    (8 )鋭い哲学的知性の持主に、完全性についての、まったく魅力的で満足のゆく論理的忠告を与え、それによっていかなる哲学的論題も純粋に抽象的な観点から展開しようとすることをやめさせること。このような企ての不条理は明白になっているからである。



     ユークリッド流の教育が、「(2)a. 頭脳の開発。b. 論理的な思考法の育成。」を建前では標榜しながらも、現実には「(4)試験に合格すること。無視されてこなかったただ一つの項目。教師たちに実際に認められた唯一の項目。」しか実現していないところに、薪を背負わせて火をつけている。

     ペリーの講演につづいて行われた討論では17名の参加者が、ペリーの主張に賛成/反対を唱えた。
     もっともペリーの主張に真っ向から反対したのは2人だった。ほとんどの参加者が、現在の数学教育には何らかの改革が必要である点では一致していた。
     もっとも強固な反対を唱えたのは、当時ケンブリッジ大学の数学科の学科長であった数学者フォーサイス(A. R. Forsyth, 1858〜1942)だった。フォーサイスの批判は(1)最新の知識を教えても生徒は理解できない(ケンブリッジの優秀な学生にだって無理)、(2)有用性は数学や科学の発展の唯一の基準ではない、(3)労働者や技術者が数学を応用するなんて現実的には無理、という3点に集約された(Ibid. pp.35-36.)。

     
     (1)や(3)でないことを、ペリーは自身のイギリスと日本での経験から知っていた。





    (参考文献)

    ・John Perry (1874), An Elementary Treatise on Steam, Macmillan & Company.
    ・John Perry(1883), Practical Mechanics CASSELL & COMPANY.
    ・John Perry(1897), The Calculus for Engineers.(武田楠雄訳(1959)『技術者のための微分積分学』森北出版. )
    ・John Perry(1897), Applied Mechanics.
    ・John Perry (1900).ENGLAND’S NEGLECT OF SCIENCE.T. FISHER UNWIN.
    ・Perry, J. ed. (1901),‘ The Teaching of Mathematics, Discussion on the Teaching of Mathematics, Macmillan.(鍋島伸太郎訳(1936)『数学教育論』岩波文庫;丸山哲郎訳(1972)『数学教育改革論』明治図書)
    ・John Perry (1913), Elementary Practical Mathematics, London.(新宮恒次郎訳(1930)『ペリー初等実用数学』)

    なおペリーの著作の多くは、次のサイトからダウンロードできる。
    http://archive.org/search.php?query=creator:%22Perry,+John,+1850-1920%22


    ・三好信浩(1983)『明治のエンジニア教育:日本とイギリスの違い』中公新書695.
    ・小倉金之助訳(1998)『カジョリ初等数学史』復刻版3刷 共立出版.
    ・板倉聖宣(2000-2001)「ジョン・ペリーの生涯」『数学のたのしみ』No.20-23(日本評論社).
    ・小松彦三郎(2001)「なぜ数学は教育の中心にあるか(第43回総会講演)」 『理学専攻科雑誌』43巻1号,pp.176-203.
    ・公田 藏(2001)「John Perry と日本の数学教育」『数理解析研究所講究録』1195, pp.191-206.
    ・森山貴史(2004)「John Perryにおける数学教育目標論」『富山数学教育研究』Vol.4,pp.63-74.
    ・中西正治(2010)「ペリーの関数教育の考察 - 『ペリー初等實用數學』を通して」『三重大学教育学部研究紀要. 自然科学・人文科学・社会科学・教育科学』61, pp. 289-298.
    ・大下卓司(2011)「イギリスにおける数学教育改造運動」『京都大学大学院教育学研究科紀要』57: pp.435-448.





     どのようにすればよいか?(how to do)は、どんな場合に何をすべきか(what to do)に還元される。

     論文の書き方を説明するのに、〈論文には何が書いてあるべきなのか(構成要素は何か?〉〈なぜそれらの構成要素は必要なのか?〉を解説して、答えにかえよう。
     
     論文構成の標準的な型式(Style)を、その構成要素Introduction(序論), Methods(方法), Results(結果) And Discussion(考察)の頭文字を構成順に並べてIMRAD(いむらっど/ˈɪmræd/)と呼ぶ。
     頭文字は構成を記憶するには便利だが、なぜそれらの構成要素が必要なのか理由を納得した方が身につくだろう。

     以下に、論文の構成要素について、その論理構造を説明し、それぞれで何を書くのか簡単な例をいくつか挙げる。


     Introduction(序論)
      背景と必要性Backgroud and Necessity of the study 
      先行研究 Rrevious studies
     Methods(方法)
     Results(結果)
     Discussion(考察)
     Conclusion(結論)







    1.論文は「根拠付けられた主張」である

    trig-3.png

    (Why to write)
     論文の中核は「根拠付けられた主張」である。
     したがってその中心になるのは、上にある論証三角形である。
     結論Conclusionに論文全体の主張が書かれる。これを根拠付けるために
     論文では結果Resultsと呼ばれる部分に、得られたデータがまとめられ、
     考察Discussionと呼ばれる部分で、結果からなぜ結論の主張が言えるのかが、結果の解釈/分析を通じて、説明される。

    (What to write)

    結果Results
    1 図表でデータを掲示する
    2 データの傾向を述べる
    3 データの相違を述べる
    4 変化の有無、傾向を指摘する
    5 判明した事項を述べる

    検証型の考察Discussion
    1 結果を再確認する
    2 結果を解釈する
    3 結果と仮説との関係を示す
    4 原因を推測する
    5 予想と異なる結果について述べる

    論証型の考察Discussion
    1 中心的な問題や考察の視点を示す
    2 ある前提・条件・仮定のもとに議論する
    3 問いを立てて考察をすすめる
    4 比較して論を展開する
    5 対比させて論を展開する
    6 原因・結果を述べる
    7 根拠に基いて判断や主張を述べる
    8 問題点や反論を受け止めたうえで主張を述べる
    9 これまでの考察の要点を整理する

    結論Conclusion
    1 研究行動を振り返る
    2 研究結果をまとめる
    3 研究結果から結論を提示する
    4 研究結果を評価する



    2.新データが信頼できることを根拠づける

    trig-4.png


    (Why to write)
     根拠付けのベースになるデータは、多くの場合、新たに得られたものである。したがって、そのデータがでたらめでないこと、またデータ収集に際して不備や不正がないことが言えなくてはならない。
    そのために、データが信頼できることについて、次の論証三角形が必要になる。
     データを得た方法がすでに確立したものであれば、どのような手続きでデータを得たかを記述すれば、「何故その方法で得たデータが信頼できるのか?」については改めて論じなくてかまわない(ので省略されることが多い)

    (What to write)

    方法Method
    1 調査・分析対象を述べる
    2 対象を分類する
    3 実験・調査の方法、データ処理の方法を述べる
    4 理論的枠組を述べる



    3.その主張が新知見であることを示す

    trig-2.png


    (Why to write)
     学術の世界では、その研究で得られた知見が、既存の学問体系に何を付け加えるのか、既存の学問体系のどの部分を拡張するのか、どの方向へ一歩進ませるのかは、その研究を行った者/発表する者自身が明らかにしなければならない。
     つまり研究の〈住所登録〉は、その研究を行った者/発表する者が行わなくてはならないのだ。
     「この研究は新しい(新知見を含む)」ことの証明は、論文の最初(Introduction)に書かれることが多い。論文の最初を読めば、それを読むべきかどうか読者にすぐに分かるようにだ。
     「この研究は新しい」という主張を根拠付けるために
    論文の主張である結論Conclusionとともに、先行研究としてどのようなものがあるかが述べられる。論文の主張は、先行研究に対して、どこが異なり何が新しいのかが説明される。つまり、先行研究を背景に置くことで、この研究の新しさが明らかになるのである。

    (What to write)

    先行研究 Rrevious studies
    1 研究分野で共有されている知識を示す
    2 先行研究の存在を示す
    3 先行研究の全体的な特徴を示す
    4 先行研究の知見に言及する
    5 先行研究についての解釈を示す
    6 先行研究が不十分であることをしめす



    4.この研究の必要性、重要性を示す

    trig-1.png


    (Why to write)
     研究はただ新しければよい訳ではない。
     まだ誰もやってないことが証明できても、それだけでは、あまりにアホらしくて誰もやっていなかっただけかもしれない。
     「なぜ穴を掘るのか?」と問われ、「まだ穴が掘られていなかったから?」だけでは答えにならない。「埋蔵金をみつけるため」「タイムカプセルを埋めるため」とまで答えて、十全な答えになるのと同様に、この研究は何のためか?研究が追いかける問いに答えることで何が得られるかまで、説明する必要がある。
     研究の新しさを示すためには先行研究を背景に置く必要があったように、研究の必要性/重要性を示すためには社会的コンテキストを背景に置く必要がある。
     もちろんここで問われる有用性は、すぐに物質的利益が得られるものに限定されない。我々や我々の社会がどのようなものであるか/ないかが明らかになることは、それだけでも我々や社会を変える力となる。我々は不断に自身を解釈することで、我々の感じ方や考え方を作り直し、行動の仕方を作り変えている(こうした自己認識自体が、何人もの研究の蓄積によるものである)。その積み重ねで、我々自身や我々の社会を維持し作りなおしている。
     我々の知は、元から社会に埋め込まれている。だからこそ、社会への折り重なりを自覚的に掴み直し、研究の意義を社会的コンテキストを背景に捉え返す必要がある。

    (What to write)

    背景と必要性Backgroud and Necessity of the study
    1 研究対象を示す
    2 問題の現状を説明する
    3 状況の中で特に注目すべき事例に言及する
    4 疑問・推論を提示する
    5 研究の必要性・重要性を示す



    5.論文は4層の論証三角形から構成される

    bigtrig.png
    (クリックで拡大)


     繰り返そう。
     論文は、4つの論証の三角形からなる。

     中核になるのは、上から3つめの「この主張は正しい」という論証三角形である。
     ここで論文の主張(Conclusion(結論)に述べられる)が、Results(結果)と、それを結論に結びつけるDiscussion(考察)によって支えられる。

     Results(結果)の正しさを示すために、上から4つめの論証三角形「このデータは信頼できる」がある。
     このデータの信頼性はMethods(方法)によって支えられる。すでに確立した方法であれば、「なぜこの方法で確かなデータを得られるか」は改めて論じられない。

     この研究を、これまでの先行研究と結びつけ、どこが異なり新しいかを示すために、上から2つめの論証三角形がある。
     
     この研究が新しいことが示せても、さらにこの研究の意義を示すために、一番上の論証三角形がある。
     上2つの論証三角形は、Introduction(序論)の背景と必要性Backgroud and Necessity of the studyと先行研究 Rrevious studiesにおいて書かれる。



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