信じられないかも知れないが、かつて「知性」を代表するキャラクターとして「哲学者」というのがあった。現実にはどうあれ、「哲学者」であることはアタマが良いこと、人として備わることのできる最も望むべき知性を身につけていることを意味した。いや、要するに、そういう時もあったということだ。証拠としては貧弱だが、トランプのK(キング)に哲学者の図柄が使われていたことだってある。

     近現代においては、「知性」を代表するキャラクターのひとつは、「名探偵」というものになった。証拠としては貧弱だが、「偉人名探偵もの」みたいなジャンルがある。何よりも知性を重んじる現代人は、自分たちの価値観を歴史のあちらこちらに押しつける。つまり歴史上の偉人たちは「偉人」であるくらいだから、すぐれた「知性」の持ち主であるはずだ(「UFOをつくる宇宙人は高い知性を持つ」みたいな偏見である)。すぐれた「知性」の持ち主であるくらいだから、難事件だってきっと「名探偵」して解決してしまうはずだ、という訳である。

     知性の人=名探偵というイメージの確立に、最も貢献したのが、この史上最もキャラ立ちした名探偵シャーロック・ホームズであることは疑いない。ホームズの際だったところは、自分の方法論について強烈に自覚し、組織だった努力でそれを練り上げ、またその仕組みをワトスンのような人にも解説してしまうところだ。こうして我々は、「最も望むべき知性」がどのように構成されているのかを知る。これは事件の解明などよりずっとスリリングでありかつ知性的だ。そして彼の方法論をみれば、事件を解決するには、いわゆる知性だけではまるで足りないことがはっきり分かる。彼が化学実験に打ち込み、イーストエンドの下町に何人もの有為な友人を持ち、変装術に長け武術にも長じるのはそうしたためだ。彼は安楽椅子探偵にはほど遠かった。
     
     科学哲学の泰斗によるこの書は、自分の推理から漏れる数々の事実や可能性を見過ごした「まぐれ当たり」の感が強いと言われる(こともある)ホームズの推理を19世紀後半の論理学や科学的方法論の蓄積の中に位置づけ、彼の方法がほとんど常に不足している情報の下で、それぞれにはかなり危うい確率的推論同士を組み合わせ突き合わせることで、どのようにして事実と合致する「確率」を可能な限り高めることができるかに向かって組織されていることを証明する。あまり類書のない19世紀の科学思想や科学方法論についての解説書であるだけでなく、すべてを知らなければ確実なことは言えないという実に古典的な学問知(実際にはすべてを知ることなど不可能だから、ほとんどいつも何も言わない)と異なる、実際的な知のあり方を提示した本でもある。

    シャーロック・ホームズの推理学 (講談社現代新書)シャーロック・ホームズの推理学 (講談社現代新書)
    (1988/11)
    内井 惣七

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    推理と論理―シャーロック・ホームズとルイス・キャロル推理と論理―シャーロック・ホームズとルイス・キャロル
    (2004/01)
    内井 惣七

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    シャーロック・ホームズの記号論―C.S.パースとホームズの比較研究 (同時代ライブラリー (209))シャーロック・ホームズの記号論―C.S.パースとホームズの比較研究 (同時代ライブラリー (209))
    (1994/12)
    T.A.シービオクJ.ユミカー=シービオク

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    アブダクション―仮説と発見の論理アブダクション―仮説と発見の論理
    (2007/09/20)
    米盛 裕二

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    ベイジアンネットワークの統計的推論の数理ベイジアンネットワークの統計的推論の数理
    (2009/10/13)
    田中和之

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