「活字好き」なんて言葉があるが、昨今電子版組が増えて、ページをなでると文字ごとに膨らみがある「本当の活字本」は、実はほぼ絶滅の危機に瀕している。

     「活字好き」と「本好き」とは、そのうちイコールで結べなくなるにちがいない。

     そもそもが、活字=本というのは行き過ぎた話である。
     『書物』という書物の中で、森銃三は、「活字本ばかり読んでると、人間に深みがでない」という説を紹介している。今では「活字本以外に本があるんですか?」と聞き返されそうな意見である。

     日本で活字印刷が普及するには、欧米に比べれば遥かに遅く、明治に入ってからである。活字印刷の技術を知らなかった訳ではないし、日本人は本を読まなかった訳ではない。それどころか驚くべき識字率と書籍販売量を誇っていたのである。

     それが活字導入については逆に仇になった。江戸時代の出版の主流を占めたのは、いうまでもなく版本(木版刷りの本)である。一文字づつ活字を拾ったりせず、1ページ分を1枚の版木に刻むのだ。

     販売数の大部分をしめた書籍は、庶民向けの平仮名でかかれたものだった。
     筆しか筆記具がない時代が長いから、仮名などは版本でも続けて書かれる。
     しかもその多くが絵入りの草双子本だったから、絵を組み込んだレイアウトに草書のつづけ字が流れ込む格好になって、もっともポピュラーな本は、活字印刷なんかでは間に合わないものになってしまっていた。

     明治末期、政府からの通達で、変体がなの使用が禁止される。
     人が一度身につけたものは容易に失われないけれど、身につける必要のなくなったことは、時間差で(つまり次の世代やその次の世代にいたって)効いてくる。
     とにかく人は草書を、つまり写本も版本も読めなくなっていった。
     加えて新興の活字本は、新興の教育で育った人々にも読める書物を大量に提供していった。
     本といえば、何の疑問もなく「活字」を指すような時代がほどなくやってきた。

     『国書総目録』には、国初から慶応年間までの間にこの国で著された本が50万冊以上載っていて、そのうち写本なり、版本なりがあるものには記号がついている(しかも、どこの誰が、どの版を持っているかまで明記されている。これなしには、近代以前の情報にアクセスできない、というのも分かるだろう)。
     もちろん稀には「活字復刻」されたものもないではないが、まず第一の印象は、いかに「活字になっていない本」がいかに多いか、ということだ。
     「国書というものの厚み」を示すこの活字本自体の厚みと、活字本の歴史の薄っぺらさとの、どうしようもないほどのギャップ。

     「写本、版本なんて必要ない」「第一活字本だけでも手に余る」という声を予想しないではない。
     けれどそれは、紙の本がまもなく迎える話かもしれない。
     電子テキストで十分用が足りる、それから新刊書が電子テキストでしか読めない時代は、ほんのすぐそこにあるらしい。

     まだまだ自分が読んできた活字が消えるはずがないと信じる書き手や読み手はたくさんいるが、その当否はともかくとしても、活字本そのものだって、人の寿命に比べてもたかだか1、2世代程度の歴史の厚みしか(少なくともこの国では)持たないのだ。

     あと1世代ばかり後には、まだまだ「電子化されてない活字本」がどれほどたくさんあろうと、こんな調子では、そこで人が言うセリフはもう決まっているではないか。



    [追記]
     現在、『国書総目録』+『古典籍総合目録』(『国書総目録』の続編といえる、全3巻の総合目録)に加えて、国文学研究資料館所蔵の和古書目録データ・マイクロ資料目録データを収録しした強力なデータベース「日本古典籍総合目録」が、(研究・教育等を目的とする非営利利用に限られるが)誰でも検索可能である。
    http://base1.nijl.ac.jp/~tkoten/about.html


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