再読の便益(ベネフィット)は、その機会コスト(つまり、その本をもう一度読む時間で読めた新たな本から得られるかもしれなかった便益=再読することで断念した便益)を見込んだとしても、プラスであり、しかもかなり高い。

    (その理由)
    1.はじめて読む本よりも、再読する本は、速く読める
    2.はじめて読む本よりも、再読する本は、深く読める
    3.再読することは、新たに読む本を探し出すコスト(その本がハズレである際に無駄になる探本コストも含む)を省くことができる。公平を期するために、蔵書の持ち越しコストを勘案しても、再読することの方がコストが低い。
    4.新奇さにのみ浪費されるコストもない。
    5.再読に耐えぬ本を発見し処分でき、再読に耐えぬ本をあらかじめ避ける眼を養うことを通じて、読書生活の長期的なコストを最適化できる。

     まだまだあるだろうが、相手にさるぐつわをかませたまま、タコ殴りにしている気分になってきた。
     一方的なのは良くない。
     反論を考えてみる。
     
    (反論)
     なるほど再読の便益が高いことは分かった。では、何故人は、再読よりも新しい本を読むことに多くの時間を費やすのか? 再読することが、機会コストを勘案してもなお、便益があるのならば、長期的には結構合理的な選択をすることが多い人間が、かくも再読しないことに説明つかないではないか?

    (再反論)
     新刊書ハンターたちは、再読に値する本に出会う確率がそもそも低い可能性がある。そもそも書評や広告を見なければ、次に何を読むのか決まらない読書家モドキと、読書生活の中で自然と次に手に取るべき本を探りあてる読書家とでは、その読書経路が異なっていても不思議ではない。ブラウン運動のような経路をとる読書家モドキは、デタラメに激しく行ったり来たりを繰り返しながら、実のところ、最初にいた地点の近傍を離れることがないのではないか? そのため再読の便益に触れる経験がそもそも乏しく、その便益を実感することもまた少ない。彼を本に駆り立てるのは、本がもたらす何かではなく、新奇狂い(ネオマニー)とも言うべき衝動である。彼らは常に「新しい今」を追い求めて、ゲージの中で車輪を回すモルモットのように、新刊書だけを読みあさるのだ。彼らの本棚には「分類」ではなく「地層」がある。この前に読んだ本の一群、その前に読んだ本の一群、もっと前に読んだ本の一群、とでもいったような。

    (再々反論)
     再読者こそ、同じ一点に留まり、成長しない読み手なのではないか。
     少なくとも学術の分野では、その速度の違いこそあれ、常に新しい知見が生まれ、古い説は新たな説に席を譲り、そこには確かな蓄積に基づいた発展と進歩がある。だからこそ、そうした学問の発展を伝えるために新たな本が書かれ、概要を伝える教科書もまた改訂を重ねるのではないか。

    (再々々反論)
     学術に限らず、特定の分野を生業とする者は当然に(半ば必然的に)、その分野での最新の知見をフォローする。彼らが次に何を読むかは、彼の関心領域や自身の業績、達成した地位などによって規定されている。彼らを、ブラウン運動のような経路をとる読書家モドキと同一視できない。
     加えていうが、同一の作家の「新作」を読み続ける人たち---彼らもまた自らを「本好き」と規定するのだが---の場合は少し異なる。彼らはいくらかの新奇さを程よく含んだ「予想は裏切っても期待は裏切らない」同じような物語を繰り返し求めているだけで、本から慰安以外の何も受け取らない人たちである。彼を「読書家(リーダー)」と呼ぶのはふさわしくなく、むしろ「お得意様(カスタマー)」と呼ぶべきであろう。




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