「悪貨は良貨を駆逐する」で知られるグレシャムの法則は、金本位制の経済学の法則のひとつで、貨幣の額面価値と実質価値に乖離が生じた場合、人々は良貨(金の含有量の多い金貨)を手元に置いておき、日々の支払いには悪貨(金の含有量の少ない金貨)を用いる傾向が生じるため、より実質価値の高い貨幣が流通過程から引き上げられ(駆逐され)、より実質価値の低い貨幣が流通するというものである。

     「悪いものが良いものを駆逐する」という緩やかな意味で理解すると、そう言いたくなる現象は世の中に多い。グレシャムの名前は、経済学のフィールドを離れて、一人歩きする。


     たとえば組織や仕事について言われるものに「ルーチン・ワークは、ノン・ルーチン(あるいはクリエイティブ)・ワークを駆逐する」というのがある。
     組織を変化させたり、状況に応じた/先んじた事業展開を行うためにより重要かつ必要な仕事は、ノン・ルーチン・ワークに属する(これが「良貨」にあたる)が、これが日々のお決まりの仕事に駆逐される。
     たとえば業務の効率化が必要だとされるのに、効率化の為に費やす時間・人材は通常業務に忙殺される(だからこそ「業務の効率化」の必要性が浮上して来たはずなのだが)。
     あるいは、新規事業の立ち上げを担ってほしい有能な人材のところに、公式業務やインフォーマルな雑務まで集中してしまって邪魔をしてしまう。


     個人についても、似たような「法則」が知られている。
     変化をもたらす行動と、変化しなくてもいい理由を証明することとがあれば、大抵の人は、変化しなくてもいい理由を証明する方を選ぶ。
     あるいは、短期に小さな利益をもたらす行動と、長期に大きな利益をもたらす行動があれば、多くの人がどちらも選ばず今のまま行くという第三の選択肢を選ぶ。

     対人支援と大きく括れる様々な仕事に就いている人たちは、彼らのところに訪れる多くの人から「変われないんです」という訴えを聞く。

     本屋には「あなたは変われる」「変わりなさい」「変われないとダメだ」と書いてあるおびただしい数の本が並んでいる。これらは、それらの本を手にする人たちの信念に寄り添っている。


     人は誰しもが自分の心の動きを説明できる自分なりのリクツを持っているが、これは時々(学問としての心理学に対して)「素朴心理学 folk psychology」と呼ばれる。

     「素朴心理学」の中には「セルフ・コントロールの神話」と呼びたくなる信念がある。大まかに述べてみると「人は十分に動機づけられていれば自分を変化させることができる/自分が変わらないのは動機付けが不足しているからだ」というものだ。
     人間は確かに意図を持って対象を変化させることを、代々続けて来た。外的な事物については概ね当てはまりの良いこの信念も、自分自身に向けられると成功率が、そして妥当性がぐっと下がってしまう。
     問題は、もうひとつ先にあって、たとえうまく行かなくても、人はこのやり方と信念を変えることはせず、同じやり方を繰り返してしまうことだ。

     文字にすると、いくらか分かりやすい。「自分は変えられる」というのが信念の内容なのに、その信念自体は頑に(失敗が続いたとしても)変わらないのだ。
     しかしその逆の「自分は(人間は)変わらない」という信念からは、変化をもたらす行動なんて、そもそも出てこないではないか、という反論があろう。だが、この反論そのものが、「セルフ・コントロールの神話」の上に築かれている。

     逆にこう問い返そう。
     私という存在は、私の意図したものなのか?
     現在の私が、私の意図するところから外れているからこそ、私は変化を求めているのではないのか?
     「変化したい」という動機そのものが、実はセルフ・コントロールの限界の「証言者」ではないか?


     セルフ・コントロールの限界を認め受け入れることは、「変化」を断念することとイコールではない(このふたつは、「セルフ・コントロールの神話」を信じる人にとってのみ、イコールなのだ)。
     むしろ「変わらない」ことについて、過剰に「自責の念」に駆られなくて済む。希少な認知資源を「自責の念」に浪費せず、意図の介在に関わらず、生じているささいな変化とその可能性に気付く余地が生まれるかもしれない。
     意図せざる結果が存在することを認めよう。他ならぬ「いまの私」が、意図せざる結果の一例であることを受け入れよう。
     「意図」が行動にわずかに遅れて生まれる、という神経科学の知見もまた、我々に教訓の素材を投げてよこすかもしれない。たとえばずっと以前から気付かれていたことだが、我々は「やる気」が生まれるまで待つ必要はない。行動に遅れて「やる気」が生まれるかもしれないからだ。そして、たとえ「やる気」が生まれなくても、あなたはもう行動してしまってる。


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