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    「みんながめいめい自分の神さまがほんとうの神さまだというだろう。
    けれどもお互い他の神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう」
    (宮沢賢治『銀河鉄道の夜』初期形第3稿より)


     人が、自分の生まれた村や町で一生を終えていた時代には(想像もつかないほど昔のことじゃない。時間にすれば、人類の歴史のうちほとんどがそうだった)、接する人たちは皆顔見知りで、村や町みんなで同じ神様を祭ったり拝んだりしていた。
     コミュニティの中や近くにある岩やらトーテムを、コミュニティのみんなで拝んでおけば、自然と一体感がうまれてうまくいった。
     これが原始的な宗教のかたちだった。
     そして同じ神様を祭ったり拝んだりする人たちが、要するに「仲間」だった。

     ところが、多くの人間が互いに大きく移動し合い、一人の人間がいくつもの集団に所属したり、見も知らぬ人の集まりがあちこちにできたりする時代となると、「同じモノを拝む奴が仲間だ」という基本ルールがうまく働かなくなった。
     互いに見知らぬ土地へ行き来すし始めると、そこで新しく知り合いになる、これまで見知らなかった人は、当然ながら、別の「村の神様」を持っていた。
     お互いの「神様」を見せ合っても、共通点が無い。そんなわけで、見知らぬ同士が関係を結ぶ時代には、村ではなく「天にいる神様」や「世界」全体を担当する神様(世界宗教)の方が都合がよくなった。
     こうして見知らぬ土地でも、同じ神様を信じたり拝んだり祭ったりする「仲間」がいることになった。

     世界宗教の多くが中東に生まれたのは、かつて緑豊かで大量の人口を抱えることのできたこの地の自然が急変し、砂漠に変わっていったことに関係がある、とする気象歴史学に基づく説がある。
     小集団が拝んでいたものはどんどんと消え失せ、やがて死体につくハエさえも拝む対象にするほど(第一次ユダヤ王朝が偶像を祀り、それらに犠牲を捧げていたバール・ゼブブ=やがて悪魔とされたベルゼブブ)、信仰のオブジェを欠きだしたこの地では、地上の何者にも頼らず拝む対象を作り上げる宗教が生まれ、これらは地域に縛られず,コミュニティを越えて広がる可能性を内蔵していた。
     これら世界宗教が何度も偶像崇拝を禁じるのも、繰り返し復活するローカリティを脱ぎ捨てるためであった。

     しかし、これで話はおしまいではない。
     人々の移動はさらに大きくなり、今度は異なる世界宗教を抱く人々が、当たり前のように互いに大きく移動し合い、見も知らぬ人の集まりがあちこちにできたりする時代となった。
     もはや世界宗教も、共通の信仰の対象足り得なくなった。
     国もコトバも信仰も異なる任意の二人が頻繁に出会う近代社会で、では何が「共通項」として残ったか。

     お互いに、どんなに生まれや育ちや言葉や考えや信じる神様が違っても、最後の最後まで残る共通点がある。

     それは「お互いに一人の人であるという事実」だと、デュルケムは言う。

     デュルケムが指摘する「個人崇拝」は、ある特定の人物を英雄視したり崇拝したりすることではまったくない。
     逆に、どのような人間であっても、「個人」として尊重するという姿勢が、「最後の宗教」として残り得るというのだ。

     相手がどういう人だから拝むというのでなく、ただ「一人の人」であるだけで尊重し拝むこと。
     複数の「世界の神様」が跋扈する時代に残された、互いに殺し合いを回避し得る最後の信仰だとデュルケムはいう。
     最後にのこる共通点が「お互いに一人の人であること」ならば、同じものを拝もうとすれば、「お互いに一人の人であること(事実)」を拝むしかない。
     でも、しかし、どうやって?

     そこでの宗教儀礼は、個々人を尊重し合うような様々な儀礼であり、それら儀礼が生み出す「最後の聖なるもの」が「個人」である。
     それは相手の属性や能力についての尊重ではない。
     そんなものは、各自に異なっているのであるから、共通して拝むものになり得ない。
     ただ相手も私も「ヒト」である、ということが「最後の聖なるもの」である。

     これはどんなご大層な宗教なのか?
     ゴフマンという人は、デュルケムがいう「個人崇拝」は、日々の日常に当たり前すぎて気付かないくらいに頻繁に(そしてひっそりと)行われているという。

     たとえばほとんど見知らぬ人で占める雑踏の中で、すれ違う人々は、相手に気付いていない訳ではない。
     本当に気付いていないなら、いたるところでぶつかり、ころんでしまうだろう。
     相手気付いていながら、互いに「気付いていない振りをする」、これをゴフマンは「儀礼的無関心」と呼ぶ。

     儀礼とは、あの同じ儀礼をし合う人は、同じ何かを崇拝している「仲間」であると見なせた、みんなが信じられたあの儀礼である。
     儀礼は、お互いに、同じ儀礼を行っていることを見せ合えるところに意味がある。
     私が気付いていることを、あなたが気付いていると、私は気付いている、ということ。

     こうして別の認証手続きを踏まなくても、互いに「気付いていない振りをする」を示し合うことで、相手がどんな中身の人間であるかにかかわらず、「一人の人間であるということ」を尊重し合い崇拝しあう。
     これが本当に「儀礼」であるかどうか知りたいなら、わざと崩してみるといい。
     道行く人の顔をいちいち覗き込み、その表情や身なりを詮索する視線を放ってみる。
     相手は不愉快な表情を浮かべるだろうし、人によっては因縁つけられたと怒りだすだろう。
     それは冒涜の行為だ。でも、何が冒涜されたのかにまで気付く人は多くはない。

    「儀礼的無関心」は「個人崇拝」という最も現代的な信仰の(宗教)儀礼のひとつである。

     この暗黙のルールをあえて破ってみれば、相手も私も、どれほど気まずい思いをし傷つけられるか不快に思うかを、体験できる。
     いったい見知らぬ者同士がひしめき合うストレスフルな満員電車の中で、何故激高し合い殴り合う人が驚くほど少ないのか。
     誰もが意図的に視線を合わせないという行為(儀礼)によって守っているものは何なのか。

     なぜ売春も臓器売買も自殺も許されない、と感じる人がかくも(?)多いのかも、「個人崇拝〉説は説明できるかもしれない。
     この反発感情は、売春や臓器売買や自殺なんかが、なにものかの冒涜であるところから来ている。
     すなわち個人尊重という宗教、個人という聖なるものへの冒涜である。
     個人という「聖なるもの」をないがしろにすることは、当の当人によっても許されるものではない、と個人尊重の「宗教」感情は示す。

     自己決定を中心に置く生命倫理の主流派は、「自分の身体は「自分のもの」だから、自分の好きにしていい(だから、その人がokすれば、売春も臓器売買も自殺も許される)」という。
     その自由には愚行権(自分のためにならないことでもする権利)が含まれる。
     自分のものである以上、自分の身体をどのように扱おうが自由だと主張する。

     だが我々のあまりに日常化しているがために見えなくなった宗教感情は、その自由に対して行き過ぎの感と、時に義憤すら感じる。
     個人の身体は、ここでは、当人が好きに処分できる物体なのではなく、個人の所有からも「聖別された」何ものかなのである。



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