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    I don't know what I may appear to the world, but to myself I seem to have been only like a boy playing on the sea-shore, and diverting myself in now and then finding a smoother pebble or a prettier shell than ordinary, whilst the great ocean of truth lay all undiscovered before me.
    「世界のひとたちに、私がどのように見えるのか、私は知らない。しかし、私自身にとって、私は浜辺で遊ぶ少年のように思われる。私は、時々なめらかな小石やふつうより美しい貝殻を見つけては喜んでいる。しかし、真理の大洋は、すべて未発見のまま私の前に横たわっている。」 (ニュートンの墓碑銘)


    「科学では説明できないこと」と多くの人が言う(それもちょっぴり勝ち誇った口ぶりで)。

     彼らの中には、科学知識を豊富に持っていたり、科学的方法論についておおよそ理解している人もいるが、その大半は科学についてあまり詳しくないと自他共に認める人たちだ。
     逆に、そんな人たちにあっても、「科学の限界」について何らかの(どの程度正確かはともかく)推測を立てることができるほどに、科学は現代社会に普及している、とも言える。

     まず毎日の生活が、そのすみずみまで科学(を応用した成果)の影響を受けている。
     我々の日常は、科学(を応用した成果)でほとんど埋め尽くされている。
     いわば我々の誰もが科学に「包囲」されている。

     そして日常はおそらく容易なことでは変わらない。
     多くの人たちが、日常が、今日も明日もほとんど同じだと踏んで行動する結果、同じような毎日が繰り返し維持される。
     そして我々の「変わらない日常」を、背景装置として支えているのは、予測と反復可能性をもたらした科学と、それを応用した成果たちであるかのように思える。
     もちろんそれは過ぎた投影(いいがかり)である。科学はこれまでに世界に大きな変化を与えててきたし、今後もそうする可能性は大きい。

     しかし多くの人は、科学の「作り手」側にではなく、「受け手」側に立つ。多くの人にとっては、科学は、自分自身で自在に応用可能な何かでなく、すでにパッケージングされたコモディティとしての科学である。
     つまり多くの人が用い日常的に接するのは、出来合いの「科学の成果」でしかない。
     その域を越えて、一個人が自分だけに都合の良い変化をもたらすために用いるには、科学はあまりにも取扱いが難しい(そのことを繰り返し我々に教えた物語に『ドラえもん』がある)。
     加えて、自分にだけ都合よく実行しようと「科学の成果」をオーダーメイドしようとすれば、とても(個人ではまかないきれないほどの)コストがかかる。実際、高度な科学技術を応用するには、ますます巨額の開発投資、設備投資が必要となっている。

     一個人として、科学のある分野をマスターすることすら、多くの時間と知力の投資が必要である。
     しかも、それで得られるのは科学全体からすれば、極めて限られた領域にすぎない。
     自身を浜辺で遊ぶ少年にたとえたニュートンは、我々にとっては古の巨人族のように思える。我々は、彼のような巨人の肩に乗って、大海をのぞむが、我々自身はニュートンが遊んだ砂浜の砂粒のごとき小ささではないか?

     この傾向は、科学の進歩が速まれば速まるほど深刻になる。
     一旦、身につけた科学知識も早晩、新しい発見と発明によって陳腐化し、科学研究者は自身の研究とともに、飽くなき再投資=再学習を行いつつ、より狭い分野に自分の知識と努力を集中させていく。

     「理科離れ」とは、科学に対する教育投資が上記のような理由から「割に合わなくなってきた」ことを、裏返しに述べたものに過ぎないのではないか。
     医療過誤と損害賠償のリスクの高い外科、産科から、そうしたリスクの少ないマイナー科(精神、皮膚、眼科)へと移る者が増えるのと同じように。

     つまるところ、科学は、経済的にも、時間的にも、知的にも、「持てる者」のものであって、「持たざる者」のものではない。
     社会学者マートンが科学研究について述べた「マタイ効果」は(彼が指摘した領域を越えて)健在である。

     「おおよそ、 持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」(マタイ福音書第13章12節)

     それ故、大多数の「持たざる者」にとって、「科学では説明できないこと」は、日常を包囲しているはずの科学の「ほころび」であり、変わらない日常からの(「一発逆転」を狙える通常ならざる)脱出の可能性であるかのように見える。

     だからこそ、少なくない人々が、科学に投資する代わりに(たとえば健康保険がきく正規医療=医者にかかる代わりに)、「科学では説明できないこと」に対して(見るからに怪しい淫祠邪教やインチキ療法に)自分の努力と財産を費やす。


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