先のエントリー「史上最大にして、最もささやかな宗教とその帰結:何故我々は満員電車で無視し合うのか?」で、「いるよな、こういうなんにでも宗教を無理矢理持ち出してこじつけるやつ」というコメントがあったので口車に乗って、なんでも儀礼で説明してみる。

     元々のデュルケムの議論は、宗教を、その教義でも信者が持つ信仰心でもなく、無意味に煩雑で表面的に見える儀礼から見る。つまり儀礼的行為によって参加者の感情に「集合的沸騰」が生じ、「聖別」が行われ、「聖なるもの」と「俗なるもの」の関係を解釈/説明するために教義ができる、というのがあらすじである。それともうひとつ、人間の知的枠組みと社会の組織化のあり方に、どうも関連がありそうだ、という議論もやっている。

     伝統的集団・共同体において、儀礼の重要性は言うまでもない。たとえば民族学・文化人類学の研究は、対象とする民族・集団がどのような儀礼を行うかを観察することで、その社会や集団の構造や文化を解き明かしてきた。

    「儀礼(ritual)とは、集団やコミュニティの成員が定期的に加わる形式化された行動様式である。いわゆる宗教は、儀礼が行われる重要な状況のひとつであるが、儀礼的行動の範囲はこのような特定の領域をはるかに越えて広がっている。ほとんどの集団に何らかの儀礼的習わしがある」(ギデンズ『社会学』)。

     むしろ社会・集団をつくりだす力こそ儀礼的行動によってもたらされる、と考えたデュルケムによって、社会学の知的財産のひとつである社会学的儀礼論は始められた。儀礼を行う社会・集団は、伝統的集団・共同体に限らない。「ほとんどの集団」は儀礼行動を行う。

     いくつかの実例を取り上げる前に、検討に便利なように、儀礼の一般的なあり方をまとめておこう。

    (儀礼のエッセンス)

    (1)儀礼はまず、複数(2名以上)の人間の参加が必要である。彼らは集まり、多くの場合、直接対面する(不可欠という訳ではないが)。

    (2)そして儀礼は、整えられた形式どおりに行われる。このパターン化・形式化された行動が重要となる。先回りすれば、ある集団の儀礼行動は、集団外の者にとっては、しばしば風変わりで無意味で非合理に見える(しかも煩雑で、習得するコストが高い。これが集団にちょっとだけ参加しておいしいところだけ持っていく、いわゆるフリーライダーを抑制する)。しかし集団内の者にとっては、当たり前で重要で正しい行いに映る。このことが集団形成に大きく関わってくる。

    (3)集団の観念を具現化する象徴(聖なるもの)が存在する。儀礼はこれに関わる行為としてパターン化・形式化されているが、逆に儀礼がこの「聖なるもの」を生み出すとも言える。儀礼と「聖なるもの」は一対のものである。「聖なるもの」は、聖なる観念である場合もあれば、聖なる事物ことも、また聖なるコトバであることもある。「聖なるもの」は、必ずしも宗教的なものではない。集団にとって、とても重要で、かつ、「冒涜」することができる、ことがその要件である。つまり、「聖なるもの」に対しては「してはいけない行為」を定義することができる、ということである。

    (4)結果として、儀礼は集団の連帯をもたらす。あるいは、ひとつの社会をもたらすといってもいい。鉄則は、同じ儀礼を行う者は、同じ集団に属する、ということだ。逆に言えば、同じ儀礼を行わないものは、その集団に属さない。つまり儀礼は、人々を結びつけるのと同時に(それ故に)人々を分かつ・遠ざける。

     きわめて簡単だが、この程度にまとめておけば、事例の分析に入ることができる。



    (村祭り)

     「地域コミュニティをまとめる祭礼」は、もっともわかりやすい例だろう。宗教起源のものが多いが、仮にその要素が弱まっていても、現実に地域コミュニティをまとめる力を生み出す機能を有している。この簡単な事例は、後ほど再検討することにしよう。


    (科学と科学者集団)

     「科学的真理」と「科学者コミュニティ」を儀礼論で解明する研究がある(たとえば科学社会学のストロング・プログラムを提唱しエジンバラ学派のブルアなど)。いわば「未開人」の風変わりな風習を研究していた人類学者はもちろん、理論物理学や数学といったハード・サイエンスに携わる人たちにも、儀礼論は当てはまる。

    (1)まず複数の科学者が(必ずしも対面を要しないが)参加し、
    (2)科学的方法という、厳密に形式化・パターン化された行動が、
    (3)科学的真理という「聖なるもの」を巡って執り行われ
    (4)結果、科学者コミュニティ、あるいは「○○学」「××学派」という集団的営為に参加するもの同士のネットワークが成立する。

     「科学的真理」に報じる彼らは、たとえば「国籍」を問わず「仲間意識」を形成する。
     「聖なるもの」を作り出すのは、彼らがすぐれた知能と莫大な時間を費やして身につけた、複雑で厳守しなければならない科学的方法あってこそである。
     この儀礼を行わないもの(行えないもの)が発表した知見は、決して「科学的真理」であるとは見なされない(その者は科学者として、科学者コミュニティ/ネットワークに迎えられることはない)。
     つまり「同じ儀礼を行う者は、同じ集団に属する。同じ儀礼を行わないものは、その集団に属さない」。ここで登場する儀礼は科学者コミュニティをつくるだけでなく、科学/非科学の峻別を作り出す。
     異国の種族の村に、その儀礼をマスターして一員として迎い入れられることが容易でないように、科学者(科学者族?)の一員になることも簡単ではない。科学者社会(そして科学という集団的営為)を作り出すものも、また一種の儀礼である。
     この儀礼は、しばしば複雑ですぐには理解できない。執り行うには儀礼のための莫大な資源が必要でもある。祭司たちが宗教儀礼の資源の流通を独占することで、しばしば道徳的権能を掌握するように、科学者たちは科学研究儀礼の資源の流通を独占することで、しばしば真理の権威を掌握する。


    (上流社会と「たわいもない話」)

     たとえば社交界で取り交わされる「たわいもない」会話(その内容、登場する固有名詞や隠語)は、部外者にとっては風変わりで無意味だろう。
     科学者たちが交わす専門用語にもそんなところがある。両者に共通なのは、だからといって、部外者には容易に真似することができないことだ。
     たわいもない会話は、社会をなりたたせ、また内/外を峻別する会話儀礼である。科学者たちは専門用語の交換を「科学的真理」とその正確な(真理にふさわしい)伝達に不可欠なものとする(理解できない我々にとっては呪文のようだが)。
     社交人たちは、不躾なよそ者を排除し、自らの洗練された有り様を「卓越化」(これがここでの「聖なるもの」だするためにそうする。育ちの良さや家庭環境、培われた人脈がもたらす情報が、そうした会話儀礼には、必要だ。
     コトバだけではない。立ち振る舞い、エチケットといったものも、交わし合われる。ここでも「同じ儀礼を行う者は、同じ集団に属する。同じ儀礼を行わないものは、その集団に属さない」が明らかになる。ブルデューは、こうした卓越化(のための儀礼)に必要なリソースを「文化資本」と呼んだ。
     特殊なコトバを交換して仲間意識を生み出すことは、どんな小集団でも行われている。
     「上流社会」の会話儀礼が質が悪いとしたら、より大きな社会の中にも影響力を持つところだろう。その集団内の人たちばかりでなく、他の人々にとっても、「上流社会」の会話は「上品」で「文化的」である。
     したがって、多大なコストを支払ってでも、上昇したい中流階級は、「上流社会」を真似しようとする。そして「上流社会」では、中流階級が、たとえば「上流社会」の流行を真似し出した時には、次なる流行にくら替えする。中流階級は永遠に追いつけない。
     あるいは、「上流社会」で、あえて労働者階級のファッションが流行したことがあった。中流階級は、自分たちより「下」のそのファッションを真似るか真似ないかで悩んだ。これは後に、パンク・ファッションと呼ばれることになる。
     加えて「文化資本」の所有者たちは、それによって可能となる儀礼によって、独自のネットワークを作り上げ、「経済資本」へのアクセスを容易にする(そのネットワークである種の接近機会を独占している、といってもいい)。
     なぜ人々は上流社会と関わりを持ちたがるのか。それが実質的な(つまり経済的な)富へアクセスする重要なルートであるからだ。
     誰もがある儀礼を行えるわけではない。
     それ故に儀礼リソースの独占は、階層分化を、ときに支配-被支配の関係をも生み出す。つまり「たわいもない」会話儀礼は、単に集団を分けるだけでなく、その分割を階層化する一端を担っている。


    (近代組織)

     いわゆる組織論のベースにある組織均衡論は、組織の成員を合理的主体とみなして、組織との間の誘因と貢献の交換関係を見出す。
     しかし、デュルケムがいうように、合理的主体の「合理的判断」だけから、集団が形成されることは不可能である。
     彼らが合理的主体が十分合理的であれば、それぞれ都合のよいところで「裏切る」あるいは「ただ乗りする」(組織から誘因=報酬を引き出しつつ、組織への貢献をさぼる)ことが最も合理的だからである。
     この問題は後に「オルソン問題」として定式化された。デュルケム起源の儀礼論は、合理的契約の非合理的前提をなすものとして、組織論においては組織文化論を包括するのみならず、避けがたい組織内分化の原理をも含み持っている。
     組織は多くの儀礼によって成り立っている。ここでは、企業城下町での企業ぐるみのイベントなるものよりも、より小さく日常化された儀礼をみることにしよう。
     ここで取り上げる日常的やりとりの儀礼が生み出す「聖なるもの」は、組織そのものである。たとえば「組織で仕事をしないといけない」「○○部局としての考えはこうだ」といった会話儀礼。「組織合理性」を未心得のものに伝達しようとする際に発せられるこうした「教え」は、しかし組織成員のすべてによって口にされ、また受け取られる訳ではない。
     大規模な(企業)組織の成員は、通常何層かに階層化されている。上記の「組織合理性の教え」の取り交わしという儀礼は、上層に位置するいわゆるエリートたちによって行われる。この儀礼によって「組織」へのコミットメントを互いに確認し合い、また「組織」の存在を感じ取る。
    対して、下層の非エリートたちは、「金のために働いている」という経済合理性がより強く自覚されるから、デュルケム/オルソンの予想どおり「組織からなるべく多くを引き出しながら、より少ない貢献で済まそうとする」だろう。
     だが組織としては、上層から下層まで、こうした儀礼を執り行い、組織へのコミットメントを等しく高めてもらった方が、より効率的ではないか。では何故そうしないのか?
     組織に関しての会話儀礼には(上流社会の会話儀礼がそうであったように)、一定のリソースが必要である。それは組織の中枢部に所属することで得られる組織運営に関してアクセスする機会であったり、希少性の高い情報であったり、もっと直接には組織における一定の権限であったりする。
     そうしたリソースをより多くの成員に配布することは、コストとリスクがかかる。複雑な業務遂行や意志判断には不可欠なリソースなので、そうした事にあたる成員には与えるのは致し方ないが、単純作業に関わる成員には多少のモチベーションの低下を犠牲にしても、金銭による管理の方が安上がりになるケースが多い。
     また情報の価値は希少性に左右されるので、価値ある情報を「共有」する成員は、その流通を制限したがる傾向がある。したがって、「組織についての会話」儀礼のためのリソースもまた希少化される。
     また上層に属することは、経済的機会(昇進や昇級、退職後の再就職機会など)への接近を増すことになるので(上流社会の排他性と同じ理由で)、儀礼は階層分化的に行われる。
     結果、この儀礼を通じて一部には組織へのコミットメントが生じ、同時に組織内の階層分化が生じることになる。





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