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     名は体を表す、という。

     けれど、今では、なじんだ名前であっても、そう名付けられたのは意外と最近だったり、名付けられたのは随分後になってからだったり、そうしたことは歴史にはよくある話で。

     たとえば「科学」という呼び名が登場する前には、およそscienceに対応する語として「理学」という言葉があった。
     今では「理学」は、せいぜいphysicsに対応する程度の意味の幅しかないように思えるけれど(たとえば理学療法はphysical therapyである)、一方では「理学部」は自然科学の基礎部門あるいは非応用部門をひっくるめてその中に持つセクション名として今でも使われる。

     明治10年に東京開成学校と東京医学校が合併し日本最初の総合大学として「東京大学」が誕生した際には、旧東京開成学校を改組して法・理・文の3 学部、旧東京医学校を改組して医学部を設置し、「理学部」はそのなかに、数学・物理学及び星学(いまの天文学)、化学、工学、地質学及び採鉱学などの学科を持っており、今なら応用科学として「工学部」に回されそうなものを(というか、工学そのものも)含んでいた。
     この学校が帝国大学令により「帝國大學」となるのは1886年で、工部大学校(工部省が管轄した教育機関。1873年に設置され、1877年に工部大学校に改称)を統合し、法・医・工・文・理の5 分科大学および大学院を設置した。以後、工学大学(工学部)と理学大学(理学部)は並立することになる。

     「理学」はまたphilosophyの訳語を「哲学」と競い合った言葉でもあって、元は、宋明理学(そうみんりがく)などというように、中国の宋代・明代の儒学から来ている。
     それまでの経典解釈学的な儒学(漢唐訓詁学)は批判され、人間の道徳性や天と人を貫くことわり(理)を追求することこそ学問であるとされた。
     この流れは、朱熹(しゅき、1130年 - 1200年)によって、いわゆる「新儒教」の朱子学に行き着く。

     朱熹はそれまでばらばらに学説や書物が出され矛盾を含んでいた儒教を、程伊川による性即理説(性(人間の持って生まれた本性)がすなわち理であるとする)、仏教思想の論理体系性、道教の無極及び禅宗の座禅への批判とそれと異なる静座(静坐)という行法を持ち込み、道徳を含んだ壮大な思想にまとめた。
     そこでは自己と社会、自己と宇宙は、“理”という普遍的原理を通して結ばれ、理への回復を通して社会秩序は保たれるとした。

     この線で、日本でも(もちろん宋明理学を受けて)、理学神道なるものが江戸時代初期に登場している。
     吉川惟足によって唱えられた理学神道は、まず神道を、祭祀や行法を中心とした行法神道と、天下を治める理論としての理学神道に分類し、理学神道こそが神道の本旨とした。
     この考えには、会津藩主・保科正之など多くの大名が共鳴し、吉川家は寺社奉行の神道方に任命されることになる。
     つまりは江戸期の神道を管理統括する大本流にのし上がるのである。


     けれども、scienceの訳語として残ったのは「科学」であり、philosophyの訳語となったのは「哲学」だった。

     「哲学」や「科学」、そして「主觀」・「客觀」・「概念」・「觀念」・「歸納(帰納)」・「演繹」・「命題」・「肯定」・「否定」・「理性」・「悟性」・「現象」・「藝術(芸術)(もともとはリベラルアーツの訳語)」・「技術」など翻訳語を作ったのは、西周だった。
     またこれらの語は、中国語にも採用(逆輸出)された(用法の違いはあるものの、ほぼ同じ意味で現在も使われている)。

     幼少から積み上げた漢学の素養と、オランダ留学でヨーロッパの学問事情をつぶさに見てきた西は、適切な語感をもつ訳語を提案したと言えるだろう。
     西洋事情や知識を紹介し啓蒙を旨とする「明六雑誌」というメディアを創出し、これらの語を発表したことも、これら訳語の認知に役立った。

     「科学」という語はもともと、中国では、科挙で試される学問「科挙之学」の略語として10世紀頃から使われていた。

     日本では、「科学」は様々な学問(分科の学)という意味で用いられていたが、日本が西洋と向かい合ったこの時期、scienceはすでに自然哲学 natural philosophyの衣を脱ぎ捨て、experimental philosophy (実験哲学)ですらなく、フルタイムの研究者たちによって研究される、専門分化を遂げていた、つまり既に個別科学に分かれていた。

     こうした状態を的確にすくい上げ、scienceはもはやひとつの学問ではなく様々な学問の集まりであるとして、西はその訳語として「科学」をあてたのである。


     なお、scienceとしての「科学」の初出は、

     西周「知説 四」『明六雑誌』第22号(1874(明治7)年)

    で、

    「学は人の性においてその智を開き、術は人の性においてその能を益すものなり。
    しかるにこのごとく学と術とはその主旨を異にすといえども、いわゆる科学に至っては、両相混して判然区別すべからざるものあり」

    という下りで登場する。


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