近代化が進むと脱魔術化がすすんで、宗教やおまじないみたいなものは廃れていくだろうと、かつては言われてました。
     ところが全然そんなことはなくて、それどころか近代化ということでいえば、より近代化の影響が進んでいるより若い世代にこそ、呪術的な新々宗教やおまじないは人気があるようです。

     ひとつの説明は、近代化に伴って生じる個人主義化がもたらす難問に、そういった宗教が(答えではないにせよ)不足を補ってくれるからだ、というものです。

     個人主義はふたつのものをもたらします。ひとつは《個人の生き方の幅(自由)》を、もうひとつは(というか最初のものの裏返しですが)《他人の生き方への不可侵性》を、です。

     伝統社会から近代社会へ進むと、格段に個人の生き方は自由になります。
     かつての「こういきるべきだ」という規範やモデルは廃れ、最低限の規範(法律)を守っていれば、あとはどうでも好きに生きてかまわないことになります。
     けれど、このことは人にとって負担ともなり得ます。
     「どう生きてもいいのは分かったけど、いったい自分はどんな風に生きたらいいのだろう?」

     近代化が進み個人主義が浸透すると、他人の行動や生き方に対して文句をいう理由と動機付けが低くなります。
     「どう生きてもそれは他人の自由」だからです。
     相手が法を犯したり、他人にひどく迷惑をかけているなら別ですが、基本的には他人の生き方に口出しすることは、相手の自由を侵すことだし、それ自体が「いけないこと」になるからです。
     しかしこれは裏返すと、自分の生き方について周囲の人たちは「何も言ってくれない」という事態を生むことになります。
     人は他人に承認される欲求を持っていますし、他人からの承認で持って自分の生き方に自信を積み重ねてもいく訳です。
     他人の生き方に口出ししない社会は、他人からの承認も得られにくい社会となります。
     こんな自由で哀れな近代人に対して、宗教(やそれに機能的に類似のもの)はつぎのものを提供します。
     それは宿命、因縁、実感です。

     宿命は、「大きな物語」、誰にでも当てはまるとされる一般的・普遍的な枠組みです。
     世界についての(ある程度)一貫した説明を与え、人々がいったい何をすべきなのかを示す規範を与えます。
     何でもできる、どう生きてもよかった近代人に対して、「こう生きなければならない」という選択の不可能性を提供します。

     因縁は、「あなたの物語」、その個人にあてはまるとされる個別的・個人的な枠組みです。
     あなたは(たとえば前世がこうだから、うまれた星がこうだから)、そんな人間なのだ、だからこっちの方向へ進みなさい、と人に具体的な生き方と役割を提供します。
     業が深いから、このつぼを買いなさい、とか、そういうやつです。
     人間は不幸である事よりも、理由無く不幸であることの方を、より堪え難く思います。
     そして因縁は、いずれにせよ、人に理由づけを提供します。
     カート・ヴォネガットが占いについてこう言っていました。「占い(星座占い、手相占い)こそは最高のコミュニズムです。すべての人に誕生日があり、大抵の人には手のひらがあります」。日本人ならここに「あらゆる人には血液が流れてます」と追加すべきでしょう。
     「業が深い」人が買わされる壷(あるいはその他の対人サービス)は、「不幸の除去手段」ではなく、実際には「不幸の理由づけ」なのです。


     実感は、多くは信者ネットワークでの活動(要するに宗教活動)によってもたらされます。
     なんとなれば、そこには個人が担い果たすべき役割があり、そして何よりもそうした行動に対する他の信者の承認(そして不承認)があるからです。

     たとえば戸別訪問がそうです。いきなり見ず知らずの人間が自宅にやってきて、いままで聞いたこともないような宗教に入れ、といわれて入るでしょうか? あれは勧誘としてはきわめて効率が悪いもので、目的は別にあります。
     さっきも言った通り、近代人は人から承認される機会があまりありません。
     その裏面として、こっぴどく拒絶される機会もまた少なく、普通、人はあらかじめ、拒絶する機会を避けようとします。
     しかし戸別訪問は、信者個人に、他では得られないほど(これまでの人生ではあまりなかったような)、はっきりと拒絶される機会を提供します。
     もちろん拒絶されるのは苦痛です。
     しかし、宗教ってのは、さっきも言ったように不幸や同じことだが苦痛に理由を提供する機能があります。
     戸別訪問で得た心の傷は、すぐさま宗教的に意味付けされ、教祖や他の信者から承認されるのです。
     あまり体験したことのない苦痛から救い上げられれば、それがどんなデタラメな理由付けであっても、人は「救われた」と思うでしょう。これこそ実感です。
     戸別訪問での拒絶は、これまでの日常生活やそこでの人間関係では得られなかったほどに熱く、意義深い体験になる訳です。
     だから「神様の話を」という端からドアをばんと閉めるのは、彼らに塩を送ってやるようなものかもしれません。

     その他にも、情報統制や心身統御のテクニックを用いた「自分は変わった!」という実感を与えることもあります。
     こうして「宗教」は、近代人が背負う個人主義のアポリア(難問)に対して、解決とはいかなくても、難問を回避する手段を提供できるのです。

     こうした近代人のニーズに応えるのは、いわゆる宗教ばかりではありませんが(マルチ商法や自己啓発セミナーなどが同じ機能を果たしているのは見たまんまですが)。
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