馬鹿について―人間-この愚かなるもの馬鹿について―人間-この愚かなるもの
    (1958/12)
    ホルスト・ガイヤー

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    これはもう、紹介するだけで勘弁して欲しい。

    まず裏表紙には、こんなことが書いてある。

    人間は愚鈍という実り豊かなひざに抱かれて、永遠に変わらぬ夢を見続けているのであり、そのおかげで初めて生きて行こうという気になれるのである-----愚鈍が、ただ愚鈍だけが
    この人生の守り神であって、これによって初めて錯覚のヴェールが織られ、仕合わせな誤謬が知能のヤリ玉に上がらずに済み、人生が辛抱できるようになるのである。


    つぎに初版の序には、こう書いてある。


     馬鹿のことを書くよりも、天才のことを書く方が、よほど割りのいい仕事にちがいない。
     伝記作家というものはありがたいもので、天才を描いてみせる学者は、そこに描かれていた天才の栄光のおすそ分けにあずかるものだが、本書の著者にはこういう余得はありそうにもない。
     しかし馬鹿と天才の数を比べてみただけでも、心の貧しいもの(これは聖職の言い方ではなく、俗人流に、つまりニイチェ的に言って)の問題の方が、ずっと切実深刻だ、とすぐ判ろう。天国はいざ知らず、この地上の最大多数は馬鹿が占めているのだから。だが一口に人間は馬鹿だと言っても本当はどうなのだろう?
     そこで、あてもなしに無駄口をたたくのはやめにして、ではこの問題について確かなことだけを書いていくことにしよう----「人はその能力以上のことを為す義務を持たず」(人事尽くして天命を待つ、あるいはこれを本書のテーマに当てはめて「馬鹿は分不相応のことをやる」と言い直してもよい)という格言を忘れないようにしよう。



    いちいち正しい。この名著は何度も版を重ねた。第三版の序。


     ザルツフレンのK.マイヤー・ロテルムント氏のご懇篤なご教示によると、修正耐えざる愛情を持って、馬鹿の問題と取り組んでいた一人のフランス文豪があった。それは利口で軽はずみなボヴァリー夫人と、忠実で愚鈍なその猟人医師シャルルを組み合わせた小説家であるグスタフ・フローベル(1821-1880)である。エミール・ゾラがフローベルについて語ったところによると、「彼には馬鹿は一種の刺激ともなった。彼は酷い馬鹿の実例を発見すると、心から夢中になって何週間もそのことを話し続けていた。……彼がその作品の中で適切に表現した人間の痛ましい無意味さよりも、彼の心を動かしたもの、それは誰しもが免れ得ない凡愚、凡俗であった」
     引き続き、このような馬鹿の実例をお知らせいただければ誠に幸いである。

              オルテンブルグ 1955.3.1
                             ホルスト・ガイヤー



    第六版の序は、偉大なるスペインの思想家に捧げられている。

     ホセ・オルテガ・イ・ガセットは1955年1月5日、本書の第一版刊行に際し、私に書簡を寄せ、優美なドイツ語で「熟読吟味させていただこう」と言ってくれた。
     その年の10月18日、スペインの生んだこの偉人は永眠した。生前に変わらぬ畏敬の念を個人の霊前に捧愚べく、巻頭に彼の座右の銘を原文のままあげさせていただく。

              オルテンブルグ 1956.6.1
                             ホルスト・ガイヤー



    そしてこれが、その巻頭語である。

    私はよく考えあぐねたものである。誰もが馬鹿とかかり合い、馬鹿を相手にして、深刻極まる迷惑をこうむっているというのに、(私だけが知らぬのかもしれぬが)なぜ馬鹿の研究とか、「馬鹿についてのエッセイ」という本がないのか、と。

            ホセ・オルテガ・イ・ガセット



    (「読書猿 0号」より)






    (C/Wとして)
    中村古峡著『学理的厳正批判大本教の解剖』(1920)


    「およそ世の中に馬鹿ほど恐ろしいものはない、と云ふ俗諺がある。蓋し馬鹿は、概ね独りよがりのお先まっくらで、自制や反省の念は薬にしたくても見当らず、おまけに向う見ずの無鉄砲と来てゐるので、何をしでかすか分らないからでらである。余は大本教を思ふ毎に、およそ天下に迷信ほど恐ろしいものはないと、つくづく云ひたくなる。蓋し迷信者は馬鹿と同じく、概ね独断で、無反省で、更に自負誇大の念に強く、ややもすると頑迷不霊に陥り易いので、果して何を云ひ出し、また何をしでかすか、分らないからである」

    「大本教の幹部では、ややもすると其の信者の中には現代の知識階級を網羅してゐると誇称する。彼等の所謂知識階級とは果して何を指すのだらうか。曰く某々高官、曰く某々陸海軍将校、曰く某々専門博士、曰く某々実業家-(中略)皆夫々の道にかけては、現代の知識階級かも知れない。然し余等の見る所にして誤なくんば、彼等は精神科学の知識にかけては殆どゼロである、否寧ろマイナスである。精神科学に無知識な門外漢が、単なる暗示に基く人格変換に驚いて、神霊の憑依を主張するのは、丁度余が前述の無教育な子供や田舎者が、蓄音機を見て、喇叭の中に人が潜匿してゐるのを恠むと同様の程度である。こんな信者はたとへ百万人を集め得たとて、大本教の虚勢にはなるかも知れんが、大本教が迷信でないと云ふ証拠には毫もならないのである」






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