前回( サルでも分かる人文科学/社会科学/自然科学の見分け方)は、科学史や科学哲学、それに知識社会学や科学社会学などの予備知識を前提にしないで、えいやっと「線引き」をやってみた。そのかわり、改めて検討することなく、次の2つを「ほらこんな風に言われてるでしょ」と前提に用いた。

    ・科学には、人文科学/社会科学/自然科学がある。(学の総称としての科学)
    ・学問は、以上の3つの科学のいずれかに分類される。(例外の棚上げ。どこにも入りづらいもの(たとえば数学)や、複数にまたがってるもの(たとえば「人類学」とひとくくりにすると、その範囲は自然科学から社会科学へと渡っている)、それに応用科学たち)

     言い落としたトピックはそれこそ無数にあるのだが、何もかもを一度に取り上げると書くのも読むのも大変である。
     そこで、今回は、もっとも自己確信的に「我々は科学をやってる」と思っていそうな自然科学とその研究者を取り上げる。
     社会科学と人文(科)学についても語ることは多いが、よりややこしい話になるので、これには第2回目、第3回目をそれぞれ充てようと思う。そんなに長く引っ張っても、尻すぼみになるのがオチだが。

     一応の予定のタイトル:
     第2回 社会科学は言いよどむ/社会科学者は、なぜ「方法」ばかりを論じるのか?
     第3回 人文科学は消えていく/(サブタイトル未定)
     


     科学が何から生まれて、何から離れて、どんな風に変わって行ったか、という話(科学史)は、こんがらがった現状を整理するのに使えるかもしれない。
     また、何が科学であり、また科学でないかについて論じること(いわゆる線引き問題)も、「○○が科学だなんて変だ」という人の心を落ちつかせるかもしれない(大抵は、線引きは絞りすぎるか広げすぎるか、その二つのヘマを同時にやるかして、逆効果だったりするのだが)。
     また、前回の分類がどういった立場からなされているかを説明することで、学問の分類がもつ問題性から、社会構築性に話をもっていくこともありかもしれない。

     しかし、科学史や科学哲学の知見は、自然科学の研究者に広く共有されている訳ではない。
     いや、奥歯に物が挟まった言い方をしてしまった。
     自然科学者は、科学史や科学哲学について、ほとんど関心を持っていないから、知っていることも少ない。
     これでも、まだ手控えがある。
     自然科学者は、自分達以外のものが科学について語るのを、おもしろく思っていないので、科学哲学や科学史を無視するか蔑んでいる。

     大人の態度がとれるものは「敬して遠ざける」態度をとるが、マックス・ウェーバー(『職業としての学問』)がいうところの「自然科学の研究室に時々居るおおきな子供」たちは、科学哲学や科学史をあしざまに罵ることも辞さないだろう。



     科学とは我々がやっていることであり、それ以外は似非科学に違いない。
     ほかのもの、たとえば社会科学が、「科学」を名乗るなどおこがましい。
     科学史家などいう歴史相対主義者は、科学者達の積年の努力を水泡に帰そうとする、悪魔につかえる黒司祭であり、万死に値する。
     では、科学哲学者は? 科学をそれ以外のものを峻別しようという彼らの努力はどうなのだろう? 自然科学者から見れば、その競技をやったこともないのに科学者を叱咤激励したり、監督面をする厚かましいファンでしかなく、よくても後援会長に過ぎない。

     科学は、改めてその資格を問うようなものではなく、我々科学者に(あるいは物理学教室のメンバーに)よって「体現」されているものである。それは研究室に入れてもらい、次第に正規メンバーとして認められるにしたがって身につけていくものだ。
     角度を変えて同じプロセスを見なおすと、明文化されない慣習と伝承を受けいれ、自ら同調して行く度合いに応じて、次第に正規メンバーとして参加を受け入れられる、と言い直すこともできる。
     何が科学か、どうすることが科学的に研究することなのかは、そうした中で習得され醸造され体現されていく。
     
     改めて「科学とは何か?」を論じたりするのは、いまだ研究室のやり方に馴染めない青二才か(彼自身が変わらなければ、同調しないこの者は、研究室からも、そしてこの分野の研究からも、リタイアすることになるだろう)、そもそも科学とは何の関わりもない「外」の評論家(彼らはせいぜい、科学の外を、遠くからぐるりと回ってみるくらいが関の山だ)だけだ。結論:連中(やつら)に科学を語る資格はない。

     しかし、あまり知られていないが、もっと質の悪い連中が居る。
     知識社会学者や科学社会学者の連中である。
     最初は連中も、ただ遠巻きに自然科学の研究者や論文の数を数え、統計をとったりするだけだった。
     しかし、このぶしつけな連中は、分かりもしない科学の内容にまで口を挟むようになった。それまでは、そんな下品な振舞いをするのはマルクス主義者(連中の非=科学ぶりは科学哲学者でさえ指弾するほどだ。なのに連中の名刺には「科学的社会主義」と書いてある。なんというただ乗り野郎ども!)と相場が決まっていたのだが!
     連中は科学や科学者について見当違いのことをつぶやくだけではない。連中はフィールドワークと称して、スラムや精神病院に潜りこんでは、「参与観察」などというものをやってきたらしいが(よそ者に何が分かるというのだ!)、今度は科学研究室にまで潜りこんで来た。
     『サモアの思春期』という人類学者が書いた本を読んだかね? 未開民族はセックスについ文明人よりよほど「解放的」だというんだ。実際は、その人類学者の奉じる「性の解放」とやらを、未開人の上に投影していただけという訳だ。聞いてあきれる。あの連中こそ、どこに言っても、自分の見たいものだけを見るじゃないか。
     「データの理論負荷性」?デュエム=クワイン・テーゼ? そんな大層なものじゃない。連中はただ、自分の思いこみと事実とを、区別する術を知らず、そうしたトレーニングを受けていないド素人というだけだ。
     そんなものが、どうして科学と言えるかね? フィクションと自覚がある分、文学者どもの方がまだマシなくらいだ。



    (関連記事)
    サルでも分かる人文科学/社会科学/自然科学の見分け方(分割図つき) 読書猿Classic: between / beyond readers

    儀礼を見たら分かること:祭り、科学、上流社会、会社組織 読書猿Classic: between / beyond readers 儀礼を見たら分かること:祭り、科学、上流社会、会社組織 読書猿Classic: between / beyond readers このエントリーをはてなブックマークに追加

    ラボラトリー=スタディーズをひらくために|JAIST Press ラボラトリー=スタディーズをひらくために|JAIST Press このエントリーをはてなブックマークに追加




    科学が作られているとき―人類学的考察科学が作られているとき―人類学的考察
    (1999/03)
    ブルーノ ラトゥール

    商品詳細を見る


    科学哲学入門―科学の方法・科学の目的 (Sekaishiso seminar)科学哲学入門―科学の方法・科学の目的 (Sekaishiso seminar)
    (1995/04)
    内井 惣七

    商品詳細を見る


    疑似科学と科学の哲学疑似科学と科学の哲学
    (2002/12/10)
    伊勢田 哲治

    商品詳細を見る


    批判と知識の成長批判と知識の成長
    (2004/10)
    ラカトシュ, マスグレーヴ編

    商品詳細を見る


    Science As a Process: An Evolutionary Account of the Social and Conceptual Development of Science (Science & Its Conceptual Foundations)Science As a Process: An Evolutionary Account of the Social and Conceptual Development of Science (Science & Its Conceptual Foundations)
    (1990/05/15)
    David L. Hull

    商品詳細を見る
    関連記事
    Secret

    TrackBackURL
    →http://readingmonkey.blog45.fc2.com/tb.php/212-187f6248