対訳聖書といっしょに時々ホテルにおいてある対訳仏典を見ると、「煩悩」をpassion、「慈悲」をcompassionと訳してあった。
     これによれば「慈悲」はつまり「共-煩悩」である。
     compassionとは、接頭語と語幹を切り放せば、辞書の意のとおり「同com-+情passion」となる。
     あまりの一致に明治以降の翻訳語かとも思えるが、「同情」は『史記』にも出てくる。「心情を同じくする」の意味だ。

     「同情されるのは好きじゃない」「同情はやめてくれ」などと言うが、どうやら「同情」のなんたるかが分かっていない。
     「同情」は、憐れみよりも「共感」である。
     腕をもがれ血を流す人がいれば、少なからずそのことに引きずられる。
     たとえでなく、痛みを感じことすらある。
     これは好き嫌い以前の、否応なき事実であり、一種の法則である。
     否、これこそ、「生相憐み、死相損つ」と先に述べた「憐」であり、生きているもの同士の離れがたなの情、否応なく呼応してしまう「はたらき」である。

     19世紀ヨーロッパ人が理解した「サトリの宗教」と、いわゆる自称「大乗仏教」の相違が、passion(パトス)を巡ってわき上がる。
     つまりヨーロッパ人は、仏教のサトリを涅槃(ニルヴァーナ)に至ること、つまりストア派のアパテイアを獲得することと同様のものとして理解した。
     アパテイアとは、否定の接頭語a-とpathos(パトス)、文字どおり「非-パトス」のことである。
     そして「涅槃」と訳されるニルヴァーナ(nirvana)は、nir(打消語)+va(吹く)+na(過去受動分詞を作る接尾語)であり、「無風・吹かれないこと」あるいは「吹き消された状態」を意味する。
     いずれも「苦悩を超克した精神の平和」であり、あらゆるパトス(煩悩)から解放された状態を指す。

     パトスとは、そもそも他から働きかけを受けること、すなわち受動のことだった。
     「受苦」や「受動」、そしてデカルトは身体(物質)を原因とする精神の盲動を「感情=パトス」と呼んだのだし、仏教でいう「煩悩」もまた外からの煩わしだという訳だ。
     涅槃(ニルヴァーナ)=「無風」とはよく言ったものだ。
     どんな風にも吹かれない、どんな風にも触れられない境地。
     あらゆる関係から切り放された限りでの、自由。

     仏教は世界が苦痛で満ちていると説くという。
     酢瓶の寓話というのがある。孔子と老子と仏陀が、同じ瓶に指をつけ、そこに入った酢を舐める。
     孔子はそれを「酸っぱい」といい、老子は「甘い」といい、仏陀は「辛い」という。
     かつてと違い今や「酸っぱく」なってしまった世界を嘆く孔子、それに対して「甘い」と言い放つ老子、いずれとも違い「辛い」という仏陀。
     「味があること」そのものが、風が触れるのと同じに、それ自体「苦痛」であるというのだ。

     「風が障る」というのなら、世界は痛風患者の群である。
     宇宙を吹きまくるあらゆる風から離脱することが「仏の教え」だというのなら……。

     一方、大乗仏教を特徴づける菩薩道は、涅槃(ニルヴァーナ)を否定しはしないが、そこへ至ることを至上としない。
     大乗仏教にいう「無住処涅槃」とは、生死にも住せず、涅槃にも住しないところからそう言われる。
     苦悩を超越した後も、この境地に止住することなく利他行の実践に向かうことをいうのだが、つまりそれは、再度パトスの世界へ自らを投げ返すことになる。

      passion     a(dis-)passion   compassion
     煩悩(パトス) →  非-煩悩  →  共-煩悩
               (小乗仏教)   (大乗仏教)

     「慈悲」compassionは、passion(パトス)の本性、つまるところ「風」の吹きまくるこの宇宙の本性から出ている。
     どんなものも「風」を受けないものはない。他から働きかけを受けること、すなわち受動をまぬがれるものはない。そこから身を引き離す、どんなうまい手も存在しない(たとえ「ぬけがけ」できたように思えても、それも一瞬の気のせいだと思い知ることになる)。
     そう知ることが、たぶん仏教の「はじまり」であり、com+ passion(痛み・とともに)あること、この世界に存在させられながら(受動)それをとらえ返し、(「ここ」でない「どこか」にではなく)この世界に自ら存在しようとすることの「はじまり」なのだろう。

     金文資料及び『説文解字』の古文の字形は、立ち止まり後ろを顧みる人の形と「心」という文字の組合せからなる。「愛」という字は、心を残しながら立ち去ろうする人の姿を写したものだと推察される。
     
     『説文解字』に「愛は恵なり」とあり、また別の古書に「愛は憐なり」とある。
     少しでも他の幸福を増してやろうとするのが「恵」であり、相並んで彼此同じく幸福ならんとするが「憐」である。
     「論語」に「その民を養うや恵」とあり、また天が人をするのが「恵雨」「恵風」である。一方古い諺に「生相憐み、死相損つ」とある。
     『説文解字』には「憐は仁なり」ともあって、生きているもの同士の離れがたなの感情である。

     「愛」を愛欲とする用法は、仏教に起因する(後にキリスト教受容にさいして問題となる)。
     貪愛(とんあい)・染汚愛(ぜんまあい)がそれであり、衆生が解脱しえない根本原因で、十二因縁のひとつに数えられる。
     「生きているもの同士の離れがたなの情」であれば、因縁の中の因縁だ。
     ショウペンハウアーが「生への盲目的意志として人間を繋縛する」ものとして断罪する愛も、これと照応する(彼は仏教カブレで、中途半端な小乗野郎だった)。

     『智度論』に「慈は、衆生を愛念するに名付け、常に安穏と楽事とを求め、以てこれを饒益す。
     悲は、衆生を慇念するに名付け、五道の中の種種の身の苦と心の苦を受く」とある。
     逆に『大般涅槃経』には、「もろもろの衆生の為に不利益を除く、是を大慈と名づけ、衆生に無量の利楽を与えんと欲す、これを大悲と名づく」とある。

     大乗の「慈悲」は(そのものでないにしろ)、先に述べた「恵」「憐」と呼応するのだろう。

     「恵」は「めぐし」すること、「めぐし」は愛らしいとすることで、「めんこ」「めんこい」は、「めぐし」の転である。
     「めぐし」はまた「惨し」でもあり、惨しは「目苦し」である。
     愛がきわまれば、心きわまりて、正目(まさめ)に見て居るにも堪えぬようになる。
     それが「惨し」であり「目苦し」である。「人も無き古りにし里にある人をめぐしや君が恋に死なせむ」の「めぐし」がそれである。

     「愛」を「かなし」といい、いとおしい児を「悲し児」というのも同じで、愛らしくて愛らしくて堪らぬものを見るときは、心狭まり狭まりて涙さえ催さるる、これを「悲し」という。
     「悲願悲心」というときの「悲」は、「慈」の強くて堪りかねるところをいう。

     「いつくしむ(慈)」と「かなしむ(悲)」は、一応は異なるけれども、きわまるところを同じくする。
     これを「慈悲」という。

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