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     学問は、たぶん本当の学問というものは、人に「何をすべきか」は教えない。

     学問や「教え」をそういうものだと期待している人々に、とりわけ若い人たちに、ウェーバーはとっても水くさいことを言う。

     しかし、この「水くさい」ことは、けれどもかなり厳しいことらしい。

     なんとなれば、現代人にとって、とくに「ヤンガー・ジェネレーション」にとって、もっとも耐え難いことは、このような《日常茶飯事》であるからだ。
     つまるところ神々(価値観)の間で、争いがつねに続き(なにしろ《日常茶飯事》なのだ)、それには誰も、決着をつけることができない。
     そして、こうした決着のつかなさに、人々は耐えられない。

     けれども、少なくとも学問は、そんな決着をつけることをしないし、またすべきでもない。
     やれると思ってるのは、自然科学の研究室にときどきいる「大きな子ども」か、自分を予言者か何かと思いこんでいる教師だけだ。

     現代の知識階級の人々の多くは、いわばなにか保証つき本ものの古いもので自分をかざりたいという欲望を持っている、そしてこれにともなって宗教もほうぼうの国から集められた聖者の像でおもしろ半分にかざりたてた一種の邸またこうしたもののひとつであることに気づく、ところが、なにしろ彼らは宗るあらゆる種類の体験のなかから代用品をつくりだし、これを手にして読書界教というものを現在持っているわけではない、そこれかれらはこれのかわりに内礼拝堂を設け、あるいは、彼らが神秘的な救いの神聖さを備えていると考えを行商して歩く。

    もちろんウェーバーはこう言うのを忘れない。

    (こんなふうにして)なにか新しい予言が生まれたためしはない。


     何が良いとか悪いとか、そうしたことを学問は教えない。

     けれど「こうしたら、こうなる」といったことは教える。

     つまりこういうことだ。人は「こうしたら、こうなる」と知ることが(大変難しいけれど、可能性としては)《できる》。
     だからこそ、「こうなるとは知らなかった」と言って責任を回避することは《できない》。
     人は無知や未知をもはや言い訳にはできない。
     「そんなつもりじゃなかった」は許されない。
     欲した事(「つもり」)の責任をとるばかりでなく、引き起こしたすべての責任をとらねばならない。

     行為がどこに跳ね返り何を引き起こすかわからぬほど複雑な社会や全宇宙の中で、こうした責任倫理を果たすことができるほどの知性を、耐え得るほどの精神を、あの「水くささ」は要求する。

     ボナール(『ギリシャ文明史』)が、ソフォクレスの『オイディプス王』について、次のように述べるとき、想起しているのは、まさしくウェーバーがいうこの倫理だ。

     (オイディプスの)熟慮に基づく行動と共同体に奉仕する行動(彼はその「才能」の、洞察と行動力の悪用、つまり個人の利益を公共の利益に優先させようとする悪意をもたない)、これは古代における人間的完成である。このような人間がどうして運命の罠に捉えられるのか。

     それはただ、まさしく彼が人間であり、彼の人間としての行動がわれわれの条件をつかさどっている宇宙の掟の支配下にあるからなのである。オイディプスの過ちを宇宙の(あるいは神の)意志に帰してはならない。宇宙はそのようなことに関与しない。それは、我々の善意にせよ悪意にせよ、人間の次元において我々が築いた道徳をまったく意に介さない。宇宙は、行為そのものにしか関与しない。宇宙は、行為がその秩序を、我々の人生がそのなかに入り込むがしかし我々には異質なものとしてとどまるであろうその秩序を、混乱させることがないよう防ごうとする(それは宇宙が、諸力の平衡状態を維持せんとするリアクションである)。

     現実はまったき存在である。あらゆる人間の行為はそのなかで反響する。ソポクレスは、人間をいやおうなく世界に結びつける「連鎖」の掟を強く感じている。誰であれ行動するものは「行為」という存在を生み出す。それは、行為者から離れると、それを送り出した行為者には予測できないような仕方で世界の中を動き続けるのである。それにもかかわらず、最初の行為者は最後の結果について-----妥当性においてではなく事実において-----責任がある。妥当性において、この責任は、自分の行為の結果をすべて知っていた場合をのぞき、行為者に帰せられるべきではないだろう(その意味では、オイディプスは無実である)。彼は結果をしらない。しかし、人間は全知でないが、行動しなければならない。ここに人間の悲劇がある。行為のすべてが我々を危険にさらす。オイディプスという最高の人間は(人間であり、かつ最高の人間=行為者であるが故に)、つまり最大の危険にさらされているのである。

     かくして、まれにみるきびしさの、見方によってはまったく現代的な責任観が示されている。人間は、彼が欲した事柄について責任があるのみならず、彼の行為が結果の予測の手段も、ましてその防止の手段もまったくなしに引き起こした事件に照らしてみるとき、まさに彼が行ったことが明らかとなる事柄(結果)についても責任がある。

     つまり宇宙は、我々がまるで全知であるかのように、我々を取り扱う。このことは、あらゆる運命にとってなんと陰険な脅威であろうか。もし我々の知識がたえず無知と混ざりあるならば(そのとおりだ!)、もしそこで我々が生きるには行動することを強いられる世界が、その秘密の働きゆえに我々にとってなお暗黒同然であるならば。ソポクレスは我々に警告している。人間は、諸力の平衡状態(バランス)が世界の生命をなすような、そうした諸力の総体を知らない。したがって、(その意味で、生まれながらにして盲目の虜である)人間の善意は、人間を不幸から守ることにおいて無力である、と。これこそ詩人がわれわれにその悲劇(『オイディプス王』)で明かす知識である。


    もう一度,繰り返そう。

     行為は、それを送り出した行為者には予測できないような仕方で世界の中を動き続ける。にもかかわらず、最初の行為者は最後の結果について-----妥当性においてではなく事実において-----責任がある。妥当性において、この責任は、自分の行為の結果をすべて知っていた場合をのぞき、行為者に帰せられるべきではないだろう(その意味では、オイディプスは無実である)。彼は結果をしらない。しかし、人間は全知でないが、行動しなければならない。ここに人間の悲劇がある。

     おそらくはまた、ヒトの尊厳も。





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