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     意志決定する人たちが数字に弱い。

     基本的に、四則計算しか/もできない。
     かけ算割り算(それと按分ってやつ)に大小比較が、今でも最高の意志決定手段だったりする。
     どれだけたくさんデータを集めても、平均値しか求めない(し知らない)。


     かつて広大な領土を持つロシアでは、統計は非常に重要視された。
     ほとんどのケースで「この目で見る」ことがかなわぬ状況で、統計の活用は(マイクロソフトのビル・ゲイツがそうだったように/例えば電気料金の詳細データから、照明がついている=それぞれの事務室が使用されているのべ時間を割り出し、各セクションの仕事の進捗具合や、人材の過不足を知った)、しゃぶりつくすまで徹底的に活用された。
     でなければ、統治は不可能だった。

     そのロシアとサルデーニャが組み、フランス、オスマン帝国およびイギリスを中心とした同盟軍と戦った。
     戦闘地域はドナウ川周辺、クリミア半島、さらにはカムチャツカ半島にまで及び、近代史上稀にみる大規模な戦争となった。
     いわゆるクリミア戦争である。

     
     そして「クリミアの天使」こと、フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale、1820年5月12日 - 1910年8月13日)こそが、世界で最も有名な(そして実践的かつ戦闘的な)統計学者だった。


     裕福なジェントリの家庭に育ったナイチンゲールは看護師を志し、のちに婦人病院長となった。
     しかし、クリミア戦争が勃発すると、翌1854年、自ら志願して38名の看護師を率い従軍した。
     ここまではご存知の通り。
     
     しかし従軍看護団の結成と指揮を任されて現地スクタリに赴いたナイチンゲールを待っていたのは、戦争よりもたちの悪い衛生環境と官僚たちであった。

     兵舎病院は極めて不衛生であり、官僚的な縦割り行政の弊害から必要な物資が供給されていなかった。
     さらに現地のホール軍医長官らは、縦割り行政を楯に看護師団の従軍を拒否した。
     ナいチンゲールたちは、病院の中に一歩でも立ち入ることができなかった。

     しかし伝記作家のストレイチーは記す。
     「彼女は必要とあらば、天使にも、悪魔にもなったのである」

     ナイチンゲールたちは病院内に入らずともできる仕事、どの部署の管轄にもなっていないために放置同然だった病院の便所掃除に目をつけ、まず便所掃除を始めることによって病院内へ割りこんでいった。

     つぎに、これも管轄が曖昧で人手がなかった衣類の洗濯をはじめた。
     こうして清潔な衣類が手に入るようになり、病院での兵士の死亡率は急激に改善された。
     ナイチンゲールたちはほとんど常に行動を阻まれたが、迂回し何か他のできることを行って事態を改善し、少しずつ、次第に大きく病院運営に関わる事に成功した。

     後にナイチンゲールたちによって明らかになることであるが、彼女たちが着任後に死亡率は上昇(42%)していたが、衛生状態の改善により死亡率は改善した。
     2月に約42%まで跳ね上がっていた死者は4月に 14.5%、5月に5%になったことが後に判明した。
     兵舎病院での死者は、大多数が傷ではなく、病院内の不衛生(蔓延する感染症)によるものだったと後に推測された。
     この間もナイチンゲールの活動を押さえ込む力は容赦なく彼女たちの上にのしかかった。
     そのひとつは、ナイチンゲールの辞令の任地に最前線であるクリミア半島が含まれていないことを楯に、ホール軍医長官がその活動を制限したことだった。
     最終的には、この部分を修正し、女王名の入った新たな辞令が届くが、これは1856年の講和直前であった。

     当時、その働きぶりから「クリミアの天使」とも呼ばれ、夜回りを欠かさなかったことから、「ランプの貴婦人」とも呼ばれたが、ナイチンゲール自身はそういったイメージで見られることを喜んでいなかったようである。
     本人の言葉としては、「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」が知られる。


     しかしナイチンゲールの本当の仕事は、クリミアからの帰国後にあった。

     クリミア戦争の従軍看護で体をこわしたためほとんどベッドの上からであったが、彼女は頑迷な陸軍と上院を相手に猛烈な闘争を仕掛けた。

     先ず、陸軍軍医局を改革する必要がある。
     女王に謁見したナイチンゲールは勅撰による陸軍の衛生委員会に関与し、クリミアの報告をまとめ始める。
     上流階級とのコネクションと圧倒的な世論の支持はあっても、軍官僚と議会の壁は厚い。
     官僚制の厚い壁を突破するには客観的な説得力が必要であった。
     そして統計こそ、ナイチンゲールの武器だった。

     11月帰国後ナイチンゲールのチームはバーリントンホテルに集結し、タロック大佐の克明な報告書を読みながら病院の状況分析を始めた。
     数々の統計資料を作成し、改革のためにつくられた各種委員会に提出した。

     ナイチンゲールのチームが作成した『イギリス陸軍の保健と能率と病院管理に関する覚書』(1858)において、いまでは常識のことであるが、直接戦闘によらない兵士の死因のほとんどが劣悪な衛生環境にあったと訴えた。
     1000頁におよぶこの覚書は、自費出版だったため多くの人の目には触れなかった。
     陸軍改革を目指したナイチンゲールは、上記の覚書から抜粋して、ファーの協力を得て2000部を印刷した。
     この抜粋版『イギリス陸軍の死亡率』は匿名での出版だったが、大きな反響を呼んだ。
     このなかでナイチンゲールは自分で開発したグラフを駆使し、統計データを表した。

     現在でこそあたりまえになっているが、ナイチンゲールの時代には、標準となるグラフ表現が確立していなかった。
     ナイチンゲールは様々なグラフによって視覚的なプレゼンテーションを工夫している。
     ファーはこうした彼女の表現方法を絶賛した。

     ナイチンゲールが開発したグラフのうち、円(扇形)グラフは、月ごとに扇形の半径で死亡率を示している。
     2つの円(1年分につき1つの円)それぞれの中心近くの小さな同心円は、マンチェスターの男性住民の死亡率(年率)を表している。
    Nightingale_graph1.jpg

     ただ、この円(扇形)グラフは、半径の差が扇形の面積に反映するので差異が際立って見える。
     月ごとの差異が大きい(10倍近くになる)のと単位が1000分率だったこともあってこうした表現を選択したのであろうが、多分に効果を狙ったきらいもある。

     もうひとつ興味深いグラフが『イギリス陸軍の死亡率』に見られた「人口密度」のグラフである。

    Nightingale_graph2.jpg


     通気の有無を重視するナイチンゲールは、患者ベッドの密集を問題にしていた。
     報告書では、ロンドンおよびイースト・ロンドン(当時の最も稠密な土地)と野営陣地との人口密度比較をしている。
     最も人口密度の高い都市ですら、クリミアの野営陣地にははるかに及ばない。
     彼女は極端なものを比較してアピールする傾向があった。
     さらに興味深いのは、ナイチンゲールが、今日通常示されるような面積あたりの人数ではなく、1人あたりの面積に注目している点である。
     グラフでは、円の内部にある六角形の数によって密度が感得できる。数が多ければそれだけ密である。

     陸軍改革は、陸軍大臣で同志のシドニー・ハーバートの死(1861)によって挫折する。
     しかしナイチンゲールの統計学と衛生統計への情熱は止みがたいものだった。

     ナイチンゲールは、イギリスの病院においては、死亡統計だけでなく疾病の分類や看護日数などの基本事項の統一すらほとんどとられていないことを発見し、友人のウィリアム・ファー博士と戸籍庁の協力を得て、独自の統一基準を考案して 1859年に出版した 。

     1860 年に第4回国際統計会議が開催されたのを機会に、イギリス統計学会の会員に選ばれていたナイチンゲールは、この国際会議の運営に関与する。
     彼女は病院と公衆衛生に関わる分科会において、病院統計の統一基準について論じた。
     この活動で彼女を支えたのはベルギーの統計学者ケトレーと同志ファー博士であった。
     彼ら3者の国際協力が実を結び、会議では統一基準の採択が行われた。
     しかし、イギリス国内では、事はそれほど簡単ではなかった。

     ナイチンゲールはロンドンを中心として各病院に呼びかけ、実験的に自らの統計基準を採用させようとした。
     1860年から61年にかけて、多くの病院が統一的な統計を発表するようになったが、これはすぐに挫折してしまう。
     「統計のまとめが骨が折れ、したがって費用もかかること、原則上にとどまらず、実際上の統一を確保することがむずかしく、したがって統計の数字から推定される結論の価値について疑義があること」などが原因であろうとされている。

     さらにナイチンゲールの挫折は続く。彼女は1861 年の国勢調査に自らの衛生統計を加えようとした。
     それは、先ず全国の病人と虚弱者の数を確認することによって健康人と病人との比率を知ることと住居環境の情報を得ることが眼目であった。
     アイルランドでは既に行われているにも関わらず、またファーの後押しにも関わらず、内務大臣も下院もこれを拒否した。
     疾病についてはもちろん、住居の調査さえも実現しなかった 。

     ナイチンゲールは統計学の制度化にも努力した。
     何よりも重要なのは教育である。
     大学教育において統計の専門家を育てるべきだと彼女は考えた。
     統計が活用されないのは、実際に活用されていないからであり、人々が活用の仕方を知らないからである。
     しかし、ナイチンゲールが晩年にいたるまで実現に努力した大学での統計学の教授職 (Faculty)は、結局生前には実現されなかった。



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