江戸の街がにぎわうまで、江戸前(「江戸湾」という言い方は文献にはほとんど登場しない。「江戸前」で今で言うところの東京湾を指す)では、そんなに魚が捕れた訳ではないらしい。

     江戸の人口が増え、江戸っ子の排泄物が川から海へ注ぎ、富栄養化したことが、「江戸前」の海産資源を底上げしたらしい。

     日本の肥料の歴史でいうと、鎌倉・室町時代には、「刈り草や牛馬耕に使用する牛馬の糞を肥料に使うなどの工夫もなされた」といったことが歴史の教科書にも出てくる。
     人の糞尿に触れていないのは、けしからんと言うべきところで、家畜を持たない農民に家畜の糞が使用できた訳が無いので、当然彼らは「人糞尿」を使ったと思われる。
     事実『餓鬼草紙』には、人糞尿を溜める「池」や「肥桶」が登場しているし、『慕帰絵詞(ぼきえことば)』にも、板を渡した程度の「汲み取り式便所」や、穴を掘って溜める便所の挿絵がある。

     同じ作物を同じ畑で作り続けると、できが悪くなる。そこでヨーロッパではいわゆる三圃制を、「冬作小麦地」「夏作大麦地」「牧草地」「休閑地」のローテーションで土地を使い回していくやり方をとった。この方法ではローテーションの中に牧草地、休閑地=家畜の放牧が必要で、家畜の糞尿が自然に麦わらと堆肥化して、窒素を固定化し、肥沃な土地を再生して行くやり方だった。
     エジプトのナイル川では、これを一気に夏の洪水にまかせていた訳だけど、水田は単一作物の栽培による「毒」の蓄積と栄養の枯渇化を、水の流れによって流し補った訳で、いわばナイル川の洪水を、ものすごく穏やかにし、日常化しているので、「牧草地」「休閑地」を取り入れなくても、家畜を取り入れなくても、毎年、同じ田んぼから同じように米が収穫できるのである。

     さて、江戸に話を戻すと、この時代にも「人糞尿」は貴重な肥料であり、商品肥料として取引された「下肥(人糞尿)」は、肥舟と呼ばれる舟で運搬され、江戸では江戸川を行き来する「葛西の肥舟」が有名だった。「葛西の肥舟」は昭和10年頃まで続いたというから、かくも長い間、「人糞尿」は使用されたのである。

     さらに江戸時代には、魚粉、魚粕という新型の肥料が登場した。
     下肥(人糞尿)や馬糞、牛糞のような肥料は窒素分を多く含んでおり、稲作や葉菜栽培には向く。しかし、花を咲かせ実を成らせする野菜や綿花などの場合には、重要なリン酸分、カリ分が不足がちで、窒素系肥料だけだと葉ばかり茂って花がつかない咲かない、当然実も成りが少なくなってしまう。

     11世紀ころからイギリスでは鉄器の製造が盛んになった。刃物の製造が行なわれると、その柄の部分に家畜や獣の骨が使用されるようになったが、そこで残った骨の削りかすなどを堆積したところ、植物が良く生育することがわかり、肥料としての「骨紛」が登場することになった。骨紛の登場が人類史上初の化学肥料「過リン酸石灰(過石)」につながる訳だが、江戸時代に登場した、魚粉、魚粕も窒素の他にリン酸、カリ分を豊富に含むもので、これによって、花のつきが良くなり、当然実も成りがよくなったのである。

     では下肥(人糞尿)は、地位を奪われたのか。さにあらず。
     江戸時代の農書『百姓伝記』には、「下肥(人糞尿)」の品質に関して、
    「いつもご馳走を食べ、魚を食べている人の糞尿は作物によく効く、これに反して粗食の人のものは効果が少ないものであるから、繁盛している土地の糞尿を取って肥料としている村は、穀物、野菜がよくできる」とある。
     つまり、肥料として畑から、そして厠から、海に流れた人糞尿は、魚を太らせ、江戸っ子はそれを一方では魚粉、魚粕にして、一方では(富んだ)人が食べてリン酸、カリ分を含んだ人糞尿にして、さらに使い回すというサイクルができていたのである。

    以上、

    「土の文明史」はスゴ本:わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる
    http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2010/04/post-9770.html

    の最後の方に登場する「土壌の肥沃さを吸収する海洋資源を目指すのが近未来」というフレーズを読んで、思い出して書きました。感謝。
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