『世界』という雑誌があった(今もあるか)。

     さて、『世界』といえば「進歩的知識人」の雑誌みたいに思われているらしいので(それで『文芸春秋』と対比した本まであるらしい)、次のエピソードを紹介しておく。

     『世界』創刊号(1946.1月号)の巻頭を飾った「剛毅と真実と知恵と」という論文がある。
     安倍能成氏が書いたものである。

     創刊準備の会合で、この巻頭論文の「謳い文句」を検討していた同人たちの中で、安倍氏はどうしても「天皇制護持」というのを入れたいと主張した。
     同調者も何人かいた。
     
     歴史に「もし」はないが、このままいっていれば、この雑誌の様子も随分ちがったことになっていただろう。
     これに反対を唱えたのが大内兵衛氏であり、議論は平行線、にっちもさっちもいかなくなった。

     最終的に
    「そんなことどうでもいいじゃないか」
    と鶴の一声を出したのが志賀直哉氏だった。

     もうひとつ、創刊当時のエピソードを。
     これは『「世界」主要論文選―1946-1995』(戦後50年分の『世界』から、一著者につき一論文づつ抜き出した、より抜き集。時代を経るごとに、つまんないものが増えていくのがご愛敬である)に書かれたコラムで、編者である井出孫六氏の手によるものである。

     1946年春、『世界』創刊直後に、岩波書店の創始者、岩波茂雄は死去している。
     ちょうどその頃、茂雄の生地、長野県中州村の青年会には「良書を読みたい」という熱意が渦巻いていた。
     オラが村の出身である茂雄さんが作った岩波書店の本をいただけないだろうかと、リュックを担いだ青年たち数人が、東京神田にやってきたのである。

     ところが、岩波書店をあずかる、茂雄と同じ信州人の小林勇に
    「甘えるんじゃない」
    と大喝された。

     情にながされず恫喝した小林勇も偉いが、それをとうとう押し返した中州村の若者たちも偉かった。

     途中「かつぎ屋」にまちがえられ、中身を調べられたりしながらも、1947年5月5日、彼らはとうとう201冊の書物を背に郷里に凱旋する。

     それから20年間、数カ月に一度、リュックを担いだ若者たちの神田通いが続いた。

     それ以後は、毎月岩波書店から宅配されるようになった結果、彼らの「風樹文庫」は、戦後岩波書店が出版した全著作物を収蔵するものとなっていた
     
     これら蔵書を、小学校の倉庫においておくのはさすがにまずいということになり、諏訪市立信州風樹文庫が作られることになった。
     
     もちろんここには、創刊以来すべての『世界』も収められている。



    『世界』主要論文選―1946-1995『世界』主要論文選―1946-1995
    (1995/10)
    『世界』主要論文選編集委員会

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