ヴィーコによれば、あるいは修辞学(レトリカ)の伝統にしたがうならば、クリティカは「判断の術」であり、対してトピカは「発見の術」だという。
     だからアリストテレスの『トピカ』をひきついだ、キケロの『トピカ』では、「トピカ」が先で、「レトリカ」が後という順番になっている。
     「発見」が先でないと、「判断」するにも、その材料がないからだ。

     「トピカ」というのは、「トポスのこと(トポスの術)」であり、ながらく修辞学の中心であった。
     トポス(場所・場面)というのは、英語でいうとプレイスだが、その意はコモンプレイスということばからうかがうことができる。
     辞書で引くと「決まった言い回し」だ。トポスとはいわば、いつでも使うことのできる「場面・場合のストック」、つまり「思考=コトバのストック」であり、それは人が思考とコトバを用いる際、緊急の場合にも即事に対処できるようになる。
     トポスとは「常識のストック」でもあるから、それを論拠として用いることで、人に対してより大きな効果をあげることもできる。
     つまりトポスはバカにならない。
     が、どうして高々「ストック」でしかないものが、「発見の術」につながるのか。

     ヴィーコが、判断とか推理(つまりクリティカ)に先立って、人間知性の第一作用と考えているものは、 ingeniumである。
     これをヴィーコは「適当なmediumを見つけだすことによって相互に離れたところにある異なった諸事物を一つに結合する能力」だといっている。
     創造性とも訳し得るこのingeniumが、「発見の術」たるトピカと結びつくのはまちがいない(「判断の術」がクリティカと結びつけられているように)。
     「「トピカ」は潜在するものの産婆役である」(ロラン・バルト)。
     与えられた主題は、それ自体互いに連関しあうストックとの接触から、ひとつの結合を生み出す。
     まさにトポス(場所)において。それ故にそのストックはトポスと呼ばれたのである。


     そしてこのingeniumの定義は、「17世紀の修辞学上の一流派である綺想主義コンチェツティズモ」に由来する。
     綺想コンチェツトは、「もっとも離れたものを相互に結びつける」マニエルスム的綺想コンチェツトを媒介にして、シュレーゲルの「機智ウィッツ」へたどり着く。
     さらに「綺想コンチェツト」を駆使すれば、シュレーゲルの機智ウィッツからライプニッツの結合術アルス・コンビナトーリアまでもう一息だ。


     シュレーゲル自身が言っている。
     「機智とは・・断片的独創である」
     「機智とは論理的社交である」
     「機智、結合術、批判、あるいは発見の術、これらはどう呼ぼうとすべて同じことだ」
     「究極の機智とは、正真正銘の普遍的言語であり、同時に結合術そのものではなかろうか」

     あらゆる既知のものの蓄えから結び合わせ・組合せによって、新たなものを生み出すのが、「思想のアルファベット法」たる、「結合術」の面目躍如だ。
     ここでヴィーコの「トポス」が、ライプニッツの「結合術」に限りなく接近する。

     しかしライプニッツの「結合術」は、すべてを生み出すけれども、決して「観念のバケモノ」を生まないように組み立てられている(それこそがライプニッツが主張した「結合術」の意義だ)。
     これまで誰も挑戦しなかった「正しいすべての命題を生成し、かつ正しいものしか生成しない」言語あるいは記号学の企ては、本人の弁によれば、「発見術と判断術(ARS INBENIENDI ET ARS JUDICANDI)を一緒に含む」ようなものである。
     つまり、「正しいものしか生成しない」なら、もう判断術ARS JUDICANDIは必要ない(含まれてしまってる)。
     ライプニッツは、これをすべての命題ひとつづつにひとつの数が割り当てられる(命題と一対一対応がつく)「特性数」と、それについての数論でもって行おうとする。

     ライプニッツの「特性数」の企ては、すべての命題を「数え上げて」しまおうとするものだが、それはまた最初に『トピカ』を著したアリストテレスの意図でもあった。
     アリストテレスは論証と弁論とを区別して、弁論は哲学(学問)の外に置こうとしたが、(弁論そのものでなく)「弁論」論として『トピカ』を書いた。
     つまり「トポス」(内容)は哲学の範囲ではないが、「トピカ」(形式)は哲学の中に入る。
     アリストテレスからすれば、「「その場その場(トポス)」も突き詰めれば限りがあるだろう、(組み合せのエレメントは有限である)ということになる。

     哲学者(philosopher=知ソフィアを愛す者)よりも言語(文献)学者(philologier言葉ロゴスを愛す者)を重くみるヴィーコは無論、「トピカ」(形式)よりむしろ「トポス」(内容)を取るだろう。
     第一「トポス」(内容)を抜きにした「トピカ」(形式)など有り得ないではないか。
     ヴィーコにすれば、普遍的な「トピカ」(形式)をめざすライプニッツの「結合術」の試みなどは、「判断」に先立つ「発見されたもの」=「トポス」(内容)を欠いたまま忘れている、つまり「発見」と「判断」を混同した、新しいクリティカによるトピカの収奪にすぎない。

     一度(ひとたび)、交差するかに見えた二人の軌跡は、そこを最後にまた無限に遠ざかる。





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