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     抜書きはスキルと言うより、習慣に属すべき事柄だ。

     その意味では、とりかかるのは早い方(今、今日から)がいい。10歳から始めていれば、20歳で10年分の蓄積がある訳だから。

     やることは極めてシンプルだ。
     目にとまったフレーズ、耳に残ったコトバを、書き溜めて行く。ただそれだけ。
     紙のノートでも、Evernoteでも、なんでもいい。
     というのも、検索は、あまり必要ない、すくなくとも最も大事な目的にとってはさほど重要ではないからだ。

     抜書きされるものの中には、すぐに実用に供されるものもあるが、目的の中心はそこにはない。
     例えば、忘れ果てた後に、どこかで同じコトバに再会することがあっていい。
     書きとめなければ、その再会はなかったのであり、あとでまた触れることになるが、それこそが重要なところだ。

     書いておくのは、抜き出したコトバの他には、日付と出典。
     あと、できれば、コメントや感想、その他思いついたものならなんでもよいが、自分のコトバを添え書きをしておきたい。無論、抜書きしたコトバと、はっきり区別がつくように書く。
     
     添え書きの効用は、ひとつは記憶/想起の手がかりになることだ。
     もうひとつは、抜書きしたコトバを核にしてある種の「結晶」が成長していくことがある。添え書きから「作品」が生まれるのだ。たとえば、モンテーニュの『エセー』は、そうした抜書きと、それに添えられたコトバから生まれた。

     しかし、こうしたものも、言わば「副産物」に過ぎない。

     100や200ほど書き溜めてから読み返すと、いずれもあなたの眼鏡にかなったコトバたちだ、おもしろく楽しく読むことだできるだろう。
     しかし年の単位で続けていくと、抜書きの効用がそれだけではないことに、自然と目が向く。 
     書き溜めていくほどに、自分のやっていることは、単にどこかで使いたいコトバを収集しているだけではないことに気付くだろう。

     もともと、古典古代を再発見していったユマニストたちだけでなく、抜書きは、コトバを取り扱う者にとって、伝統的な基礎トレーニングであるのは勿論のこと、重要な自己陶冶(self-cultivation)の方法だった。

     つまり、抜書きされたコトバたちによって、あなたの「一部分」が形成されていることに、ある日気付くのだ。
     もちろん、抜書きしたコトバだけから成る、と言うわけではない。あなたが摂取した経験やコトバは、それよりずっと(そして記憶しているよりもさらに)広大なものだ。
     けれど、自分の血肉となっているものと「再会」するには、こうして別立てで書き抜いておいたこと/ものが役に立つ。
     
     それを書き抜いた日のあなたと、今日のあなたは違っている。
     
     けれど、違えようもなく、書き抜いた日のあなたは、現在のあなたの一部なのだ。

     どんなコトバを書き抜いていくかによって、どのような人間になるかが(無論、部分的にだが)決まっていくと知れば、いやそのことを実感すれば、何を書き抜いていくかも、自然と異なったものになる。





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