英語の構文を何故覚えるか? 何故、英文法を学び、それによって英文を分析・分解する練習を行うのか?

     英語を日本語にしたり、日本語に英語にしたりする力が身につく、というのが表面的な答だ。
     

     本当の目的を話そう。

     英語の構文は、思考のパターン(形)をまとまって提供される、いまの日本だと、最初の、そしてほとんど唯一の、機会に他ならない。
     そして英文法は、ある種の「人工言語」として英語を扱うためのプロトコルであり、そのトレーニング手段である。

     つまり、構文というパターンを蓄え、英文法に基づき、与えられた文を分解したり組み換えたりすることを通じて、考えることと書くことの初歩トレーニングを行っているのである。

     したがって、この段階をスルーすると、自分で自覚的に機会を設けないかぎり、考える作法、書く作法を知らないまま、一生を終える事になる。

     卑近な例を出せば、そのままだと、いくら論文の書き方を教えられても、「感想文に毛が生えたもの」しか書けない。

     思考のブロックを手にしないまま、ブロックを扱うことを知らないままでは、さらさらと流れる砂を積むしかない。
     いくらかの高さの砂山は作れても、これでは構造物をつくることはできない。

     また、一定以上の長さの文章を書く事ができない。
     積み上げることができなければ、砂山の高さは限られたものとなるからだ。

     トレーニングの手段や機会は、何も英語でなくてもよさそうだが(無論、思考のブロックを手にする機会は、他にもある)、母語/日本語の場合だと意識せずにできることが強く意識化しないとできない/自由に使えない第2言語は、学習機会として適している。

     言い換えれば、人工言語のように外国語を学ぶ事は、他の人工言語を取り扱うのに役立つ経験となる。

     そして、実のところ、世の中で書かれているほとんどの文章は、何らかの意味で「人工言語」なのだ。

     たとえば、その業界のルールないししきたりにそって、「~であるかのように」書くことが、「文章を書くこと」そして「考えること」なのである。

     「思った通り書く」ことは、書く事の中ではごく私的な領域に限定された、マイナーな位置付けしか与えられない。
     はっきりいえば、それはわざわざ書くまでもないことだ、という扱いを受ける。

     他人に開かれた/他人が読む事が予定された文章は、一定のプロトコルに沿って書かれる。

     そして、どのようなプロトコルにしたがって書くにしろ、取り扱っている言葉に対する自覚的なアプローチが、「考えること」の基盤となるのである。




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