たとえば堅苦しいフォーマルな場面とうちとけたインフォーマルな場面では、同じ人でも使うコトバ使いが自然と変わってしまうだろう。
     単なる「スタイルの違い」のときもあるし、まったく「別のコトバ」へ切り替わる場合だってある。

     
     低地スコットランド方言を母語とする人たちが、堅苦しい場面では標準英語を使おうとする場合がある(黒人英語BEVの使い手についても、同様のことがある)。
     
     もっと大規模で全面的な場合として、たとえば現代ギリシャ語やアラビア語、スイス・ドイツ語なんかにみられる「二方言併用(diglossia)」というのがある。
     そのコトバの話し手はみんな、そのコトバの2つのバリエーションと、どんな場面でどちらを使うべきか、ちゃんと心得ている。
     2つのバリエーションには、それぞれ「名前」がついていて、スイス・ドイツの場合は「高地ドイツ語」と「スイス・ドイツ語」、現代ギリシャ語の場合は「純粋語」と「民衆語」、アラビア語の場合は「古典語」と「俗語」、とこうなる。
     いずれの前者の方がフォーマル、後者がインフォーマルなバリエーションである。


    「二方言併用(diglossia)」に特徴的なことは、それぞれに「名前」をつけるほど、両者がはっきりと区別されていることである。
     それはもはや「スタイルの違い」でなく「言語の違い」という訳だ。言語学的にみても、両者にはかなり著しい違いがある場合がある。
     ギリシャ語では、その差は動詞や名詞の活用語尾に影響してくるし、スイス・ドイツ語において、両者の音韻体系はかなり異なる。

     一般的に、フォーマルなバリエーションの方がそうでない方よりも権威が高く、ことばとして「美しい」と考えられている。
     しかし日常会話で用いることはなく、いずれも学校で習わないといけない。
     したがって多くの場合、フォーマルなバリエーションは、書き言葉と結びついているし、口にするにしても演説やら説教、大学の講義などといった場合である。

     たとえばギリシャのテレビ番組でこんなことがある。
     司会者は(たぶん台本にそって)「純粋語」でゲストを紹介し、冗談も「純粋語」でやる。
     そのうち(おそらく放送人としては不本意ながら)冗談やアドリブを「民衆語」で口にする。
     興がのれば、ますますそうなってしまう。


     このような場合とちがって、もっと全然ちがうコトバへの切り替えが起こる場合もある。


     パラグアイの現地に古くからあったコトバはインディオの使っていたグワラニ語である。
     現在でも9割の人がグワラニ語を母語としてる。
     他の南米諸国と同様、ほとんどの人がスペイン語を理解するし自分でも使っている。
     逆にいうと、パラグアイはスペイン語が現地語に対して一方的な勝利をおさめてない珍しいケースともいえる。

     さてパラグアイにおける「切り替え」は、この二つのコトバの間で起こる。
     すなわち公式な場面や話す二人の間柄が表面的に過ぎない場合はスペイン語が用いられる。
     反対に、非公式で、打ち解けた場面ではグワラニ語が登場する。
     しかし、それは親密さに左右される。
     たとえば求愛中の男女は、まずスペイン語でナンパする(コンタクトを取る)だろう。
     親密さが増せば、やがてグワラニ語で愛を語りはじめる。


     もっと多くのコトバが使われ、「切り替え」が起こるケースもある。

     ウガンダの首都カンパラでは、他のアフリカの都市の例にもれず、それぞれ異なった母語を持つさまざまな部族出身者があつまってくる。
     その種類は膨大なものになるから、都市では「公用語」が必要になってくる。その候補にはいくつかあり、ひとつはいわずとしれた英語である。
     そしてアフリカでは商人の活躍から広く流通している、彼らのコトバであるスワヒリ語。
     いまひとつはウガンダで生え抜きのガンガ族のコトバであるルガンガ語。
     これは使い手が政治的に優勢であることからエントリーされる。
     これら3つの候補は、いずれもカンパラで「公用語」となっている。
     だからカンパラに集う人々は、(程度の差こそあれ)自分の母語もふくめて4つの言語を操ることになる。


     ディヴィット・パーキンという言語学者は、カンパラのある団地のご近所つきあいを観察した。
     たとえば、母語の違うお隣さん同士は、いったい何語で会話するのだろうか。
     それはこれまで見てきたことから類推されるように、会話の場面によって異なるのである。
     しかし今度は、「フォーマル/インフォーマル」といった二分法ではおさまらない。


     言語学者の観察によればこうなる。

     出会った二人は、しばらく自分の母語で会話を試みるが、それがうまくいかないとわかると、自然と3つの公用語のいずれかに「切り替え」を行う。
     「切り替え」るコトバは、話題によって選択される。

     たとえば、出会ったのがバンドゥー系言語を母語とするケニア人と、ナイロティック系言語を母語とするケニア人であったとしよう。
     ケニア人Aは失業している。話題は自然そのことや、ウガンダ在住ケニア人の就職問題といったことになる。
     その時、彼らが選んだのはスワヒリ語だった。
     これは互いに嘆き合うにはまことにふさわしい言語のように思われるのだった。
     このウガンダでは外国人である彼らは、ともに苦労をなめなければならないという点で同じ身分であり、そのことをアフリカ国際商用語であるスワヒリ語は象徴している。

     これがケニア人Bのモノにした女性や博打でかせいだ金についての話なら、おそらくは英語が使われていただろう。
     権勢を誇るといった話題には、ここでは英語ほどふさわしいコトバはないからだ。

     さて、ケニア人Aは、同じ団地にすむバンドゥー系のウガンダ人である上司に職を求めにいく。
     この場合ケニア人Aは、ルガンガ語で話しかけるだろう。
     こうした場合、相手に敬意を表するにはルガンガ語に如くはない。
     しかしケニア人Aはあまりルガンガ語がうまくなかった。
     ウガンダ人上司はそれに気付いてコトバを英語に切り替えてくれた。
     しかし、話が佳境に入り、ケニア人Aが率直に就職のお願いをする段になると、ケニア人は自分からまたルガンガ語に切り替えてしまった。
     ルガンガ語はバンドゥー系に属するコトバだから、国籍はケニアとウガンダというように違っても、二人の民族的親近感をより強調することができる、というわけだ。

     ウガンダ人上司がどう答えたか、また何語で答えたのか、ケニア人が職にありつけたのかどうか、そこまではわからない。


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