「増田神社がどうしてできたのかは、いまから、五十年か六十年ぐらい前の話です。
     高串に、せきりのようなひどいでんせん病が、はやりました。
     つぎからつぎへ、おおぜいの人がせきりにかかりました。そのころ、高串には増田という名前のおまわりさんがおりました。
     増田さんはせきりにかかった人たちを、なんとかして、みんなたすけようと思っておられました。
     ほかの人たちは、だれでも、せきりにかかった人を、きらって憎みましたが、増田さんは少しもそんなことはなく、やさしくかんびょうしたり、おみまいをしてやったりされました。
     そうしているうちに、増田さんに、せきりがうつりました。
     すると、りょかんの人は、うつるからといって、増田さんをきらい、ごはんなども、竹の先にのせてさしだしていたそうです。
     それでも、増田さんは、少しもおこらず、みんなのことを心配しておられたのですが、だんだんひどくなって、とうとう死んでしまわれたのです。
     そして、そのいよいよ死ぬというとき、増田さんは、高串の人たちに
    『でんせん病のたねは、私がみんな持って行きますから、私が死んだあとからは、みなさんも、二どとおこさないように、よく気をつけてください』
    といわれたそうです。
     そして、それからは、高串では、でんせん病というでんせん病は、どんなものでも、はやらなくなったそうです。
     高串の人たちは、増田さんのえらさがはじめてわかり、そこで、お宮をたててまつってあげようということになり、りっぱなお宮をたてました。
     それが、高串にある増田神社です。」
    (安本末子『にあんちゃん-十歳の少女の日記』光文社、1958年)


     日清戦争が終わった明治28(1895)年、日本では最後の大流行となるコレラが、猛威をふるっていた。
     コレラは、衛生状態の悪い戦地で流行し、5千人を超える死者を出した。そして、出征部隊の凱旋によって、日本全国に流行は広がった。もともと大勢の人間が密集した状態で四六時中寝食を共にし、しかもその集団が高速で移動する軍隊は、病原菌にとって格好のホストである。戦勝ムードの中、戦勝祝賀会や凱旋兵士の歓迎会が各地で催され、集団飲食などを通して、コレラ患者は増え続けた。最終的に、この年の患者数は全国で55,144名、死者は40,154名にのぼった。

     佐賀県では、4月18日に訓令を出し「征清軍凱旋に対処・摂生・清潔・消毒・隔離等達す」として、5月1日には船舶検査を開始した。しかし上記のような社会情勢から、6月には県内に最初の患者が発生し、7月20日時点で患者数66名、死亡者数40名を数えていた。県内7郡のうち、患者数30名死亡者数19名が、東松浦郡に集中していた。


     増田敬太郎は、1869(明治2)年、熊本県菊池郡泗水村(現・菊池市泗水町)吉富に生まれた。
     1879(明治12年)の明治最初のコレラ大流行(全国で患者数162,000、死亡数 105,000)では、敬太郎の父が死去している。この流行を受け、明治政府は伝染病予防規則を制定した。
     1888(明治21)年に上京し、約2年間、法律・鉱山学・英語・速記術を学び、帰郷後は用水路の開削工事の技術者として働いた。1891(明治23)年、北海道の開拓に趣くも、半年後に帰郷。その後、役場の書記に職を得、1892(明治25年)には家督相続を放棄、養蚕業、貿易業などの仕事を転々とした後、明治28(1895)年7月に佐賀県の巡査教習所に入所。10日ほど教習を受け、7月17日佐賀県巡査を拝命した増田はすぐに出発し、7月21日東松浦郡入野村高串に赴任した。高串は260戸、この月のコレラ患者は真性40人、疑似34人、死者8名だった。


     増田は伝染を防ぐため、患者の家の消毒を行ない、縄を張って交通路を遮断した。
     運ぶ者がいない患者の遺体を一人で運び埋葬した。
     不眠不休のため疲労で体力が著しく低下していた事もあり、高串に入った翌々日の23日に、増田はコレラを発病し、その翌日の午後3時に死亡した。
     高串に赴任して4日、警察官になって7日だった。

     増田の遺体は、亡くなった翌日に高串沖の小松島で火葬された。
     遺骨は遺族が引き取り、郷里の泗水村に埋葬されたが、その一部は高串にも分骨され、秋葉神社の境内に埋められた。


     ずっと二人の子どもを看病していた高串在住の中村幾治の「夢枕」に、ある夜、白いシャツを着た大男が現れた。大男は、

     「余はこの世になき増田敬太郎なるぞ、高串のコレラはわが仇敵にして冥府に伴い行きたれば安んじて子らの回復を待て、ゆめ看護を怠りそ(けっして看護を怠るな)」

    とおごそかに言って消えた。
     翌日、村人から増田巡査の死と遺言を聞かされた中村は、自らの夢との一致に驚き、感激して看護を尽くした。二人の子どもは回復した。
     島常也『増田神社由来記』(増田神社奉賛会蔵、1926年)には、増田の遺言は次のように記されている。

     「とても回復の見込みのないことは覚悟しています。高串のコレラは私が背負っていきますからご安心ください。十分お世話せねばならぬ私が大変ご厄介になりました」

     太郎丸勝彦の調査では、こうした霊夢譚はさらに2つ確認されている(太郎丸勝彦「嗚呼警神増田巡査:殉職英霊の祭祀と民間信仰」『西郊民俗』第141号、1992年)。
     これらを伝え聞いた高串の人々は、死後1ヶ月して、分骨の場所に「追悼と報恩」の意味を込めて「故佐賀県巡査増田氏碑」を建立した。碑文には、次のように書かれている(原文は漢文)。

     故 佐賀県巡査 増田氏碑 
     君、名は敬太郎、熊本の人、入野に駐在す。今歳七月高串にコレラ発生し、君は身を挺して撲滅に従い、不幸にして感染す。遂に起てず、悲しい哉。実に七月廿四日也。
     患者また是より絶ゆ。奇なる哉。冥霊の猶も護る所か。郷民想うて惜かず。よって石碑を立てて千歳伝えんとす。
     時に明治二十八年八月上旬、之を建つ。

     この石碑が建った頃、秋葉神社の下に住む伊藤エイという老女が、朝夕に石碑にお参りをはじめた。
     神経痛で寝起きが不自由だったが、あれだけ激しかったコレラさえた「退散」させたのだから、自分の病気もお祈りすれば聞いてくれるだろうとの考えからだった。
     彼女が快癒したとの噂を聞いて、病気平癒の参拝者が後を絶たなかったという。

     最初は高さ40センチほどの小祠をめぐる崇拝が人伝てに広まっていき、「各村よりの参詣耐絶ゆる間もなき有り様となりては、御碑を雨露に曝しまいらせ置くは恐れあり」(島、前掲書)との理由から、増田の死から1年が経った1896(明治29)年9月、石碑に瓦葺きの拝殿が建てられた。
     春秋の皇霊祭の日(春分秋分)を大祭日として、村人は漁を休み「お籠り」をした。これはもともと秋葉神社の祭りであったが、増田を祭る意味合いを加え、船を使って地元はもとより唐津、伊万里などの近隣から遠く福岡、長崎からも参拝があった。

     増田の死後10年目にあたる1905(明治38)年には神殿が増築され、翌年には日露戦争の凱旋紀念として2本の鳥居が建てられた。社殿に遠い方の鳥居には「秋葉神社」の、近い鳥居には「増田神社」の扁額が掲げられた。

     この頃、別の風が吹き始めた。
     1905(明治38)年8月末、日露講和会議の内容が報道されると、都市部を中心に、日露戦争講和反対運動が起こった。東京では、講和問題同志連合会が、9月5日に日比谷公園での国民大会と京橋新富座での演説会・懇親会を計画。対して警視庁はこの国民大会の禁止を決定、9月5日当日には日比谷公園を封鎖した。しかし、正午頃には数万人が群集し、警官隊を突破して、公園内になだれ込んだ。大会は強行され30分で散会。その後、市内各地に騒擾が広がった。内相官邸や二重橋、京橋新富座の付近では、群衆と警官隊が衝突。夜には東京市の警察署、交番の8割が襲撃されるに至った。いわゆる日比谷焼打事件である。
     この都市騒擾は、もっぱら警察を標的とするところに特徴があった。これ以後、当局は「警察活動の基盤を民衆のなかにひろげ、民衆の同意と協賛を調達することによって秩序の維持をはかろうとして」、「積極的に民衆に対して宣伝する姿勢をとりはじめた」(大日方純夫『警察の社会史』岩波新書、1993年)。
     各地で防犯協会が設立され、小学生が警察を訪問して作文を書き、交番勤務の警官が「お巡りさん」と呼ばれるようになった。

     こうした流れの中で、流行神、「コレラの神」は「警察の神」となっていく。

     1923(大正12)年、かつて増田を高串に派遣した上司、音成源三郎が、「増田神社」の社格獲得運動に乗り出した。神社の運営と信仰者の名誉のために、無格社であった増田神社に「村社」等の社格を与えようとするものであった。
     音成は、当時、高串在住であった漢学者の島常也に依頼して、増田神社の縁起書として、先に引用した『増田神社由来記』を起草させた。これをもとに内務大臣若槻礼次郎に申請したが、社格は認定されなかった。

     同じ頃、唐津警察署の次席警部補だった横尾佐吉は、署長ともに増田神社の祭礼に出掛け、一巡査のために神社が建てられ、多くの参拝者が訪れていることに衝撃を受けた。
     1929(昭和4)年に佐賀県警察部長に赴任してきた連修に、横尾は増田神社とその由来を紹介した。1931(昭和6)年、この連が増田神社を訪れた時の写真が『警察協会雑誌』8月号に掲載され、全国の警察官に増田神社を知らしめることとなった。
     さらに同年、連は横尾に、熊本出張の際、増田の生家を訪ねさせた。その取材の成果をもとに警察練習所で行った講話が、パンフレット『嗚呼警神増田巡査:増田神社の由来』として出版され、佐賀県下に配布された。
     横尾は1932(昭和7)年、脚本『噫増田神社大明神』を書き、裁判劇で定評のあった東京の川村金次一座を呼び、佐賀県各地の劇場や炭坑で講演した。さらに劇中場面の絵はがきや浪曲のレコードをつくり、新聞でもその劇はたびたび紹介された。
     劇の興行の目的は、ひとつは佐賀県防犯協会の資金獲得のためであり、もうひとつは増田巡査の精神を県下全般で高揚させるためだった、という。
     1936(昭和11)年には、唐津警察署長になっていた横尾が音頭をとり、劇の興行収入に加え、佐賀県の全警察官からの寄付と全国からの寄付とによって、増田神社の社殿を改築した。この時、元あった秋葉神社が増田神社に合祀されることになった。
     1937(昭和12)年には、熊本巡査教習所の生徒たちが、修学旅行を兼ねて参拝に訪れ、翌年からは佐賀県巡査教習所生徒の団体参拝が始まっている。戦争で一時中断したものの、その後も団体参拝は続けられている。
     1939(昭和14年)には、二度目の社格獲得運動が行われ(この時も獲得はならなかった)、9月15日付け『大阪毎日小学生新聞』に「警察官の誉、コレラに殉じた巡査大明神さま」との記事か書かれている。
     1940(昭和15年)には「皇紀2600年記念」として、佐賀県防犯報国連合会から「巡査大明神」の扁額を掲げた鳥居が寄進された。

     実はこの頃、全国各地の警察において殉職警官・消防官を合祀する神社建設が行われている。1935(昭和10)年警察講習所の「青葉神社」、静岡県の「彰徳神社」、1936(昭和11)年鳥取県の「城南神社」、1937(昭和12)年徳島県の「徳島神社」……。当時の『警察協会雑誌』によれば、いずれも「敬神の念」を深らしめ「警察精神」を「作與」させることを目的としたものであった。


     第二次大戦後、1945(昭和20)年に出された「神道指令」(国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督、並に弘布の廃止に関する件)によって、靖国神社や各地の護国神社、忠魂碑・忠霊塔などは存亡の危機に陥った。
     しかし増田神社は、軍関係者を祭ったものでもなく、また無格社であったため国・地方自治体の供出金廃止の影響も受けなかった。

     終戦直前まで国立ライ療養所医官としてハンセン氏病患者の治療にあたっていた内田守は、病気療養のため故郷泗水に個人医院を営んでいた。内田は、民生委員や学校医をつめていたが、また地元に公民館を建てるべく奔走し、建設後には公民館長をつとめることになる。
     内田は小学校の恩師室田茂から、地元泗水に生まれた増田の事績を教えられた。
     青年たちを指導するよい手本になると考え、内田は『増田神社由来記』という演劇脚本を書き、1947(昭和22)年、公民館の落成式で青年団にこれを演じさせた。
     翌年、内田は室田らと「増田精神顕彰会」を組織し、1962(昭和37)年には、増田の生地、泗水に顕彰碑が建てられた。碑には、こう刻まれている。

      「 一巡査が神に祀られし
       この事実日本中にたぐひ無しとぞ 」

     


    (文献)
    内田守『巡査大明神全伝』増田精神顕彰会、1966年。
    大日方純夫『警察の社会史』岩波新書、1993年。
    島常也『増田神社由来記』増田神社奉賛会蔵、1926年。
    田中丸勝彦「嗚呼警神増田巡査:殉職英霊の祭祀と民間信仰」『西郊民俗』141、1992年。
    田中丸勝彦、重信幸彦「ある「殉職」の近代」『北九州大学文学部紀要』1-61、1998年。
    西村明「彼の死 : 増田巡査の神格化」『東京大学宗教学年報』17、2000年。
    安本末子『にあんちゃん:十歳の少女の日記』光文社、1958年。

    「コレラに感染しながら防疫につくした警察官」『伝えたいふるさとの100話』(財団法人地域活性化センター)
    http://web.archive.org/web/20071022122751/http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/1_all/jirei/100furusato/html/furusato087.htm






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