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    ライプニッツ
    Leibniz, Gottfried Wilhelm (1646-1716)
     ライプツィヒ生まれ.ライプツィヒ大学とアルトドルフ大学で学び,その後パリとロンドンで過ごす.1676年には,ハノーヴァーで,ブラウンシュヴァイク侯爵の司書となる.オーストリアとイタリアを旅行し,1700年にプロイセンのフリードリヒ1世を説得し,ベルリンにプロイセン科学アカデミーを設立し,初代院長となる.光学・力学・統計学・論理学・確率論に独創的な貢献をし、計算機や普遍言語を発案,史学・法学・政治理論についても著作がある.のちにハノーヴァー家のジョージがイギリス国王となるのに、ライプニッツの調査による系譜が大きな役割を果たしたが、微積分の創始をめぐるニュートン側との論争のせいで、トラブル・メーカーとして見られ、ハノーヴァー家がロンドンに移った際には,ドイツに残された。カトリックに改宗することを条件にヴァチカン図書館館長のオファーがあったが断った。

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    ヒューム
    Hume, David (1711-76)
     エディンバラ生まれ.エディンバラ大学に学び,法律の勉強を始めたが,1743年にフランスのラ・フレーシュに赴き,そこで,ロックやバークリーの経験論を受け増強した「人性論」(1739-40)を著した.1750年代には「自然宗教に関する対話」を書いたが,これは死後に出版された.エディンバラ大学とグラスゴー大学に職を求めるものの,彼の無神論のために容れられず,家庭教師,秘書,エディンバラ弁護士会図書館の司書を務めながら,「市民の国について」(1752)や,「英国史」(6巻,1754-62)を書いた.

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    カザノヴァ
    Giacomo Girolamo Casanova (de Seingalt)(1725-98)
     ヴェネツィア生まれ.1750年まで諸国で聖職者,書記,兵士,バイオリニストをしていたが,1755年に魔術師であるとして投獄.1756年に脱獄し,以後20年近くヨーロッパ中を放浪。ほとんどの首都を訪れ,いずれの土地でも最高の社交界に紹介されるが,短期間浮名を流しては“消える”のをつねとした.そのため現在では「色事師」の代名詞となっているが、冒険家、スパイ、錬金術師,カバラ主義者の顔も持つ。晩年(1785年)には、ボヘミアのヴァルトシュタイン伯爵付きの司書になり,その地に没した.

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    レッシング
    Lessing, Gotthold Ephraim
    独 1729-81
    ザクセンのカーメンツ生まれ.ライプツィヒ大学で神学を学んだあと,翻訳家として働き,その後ヴィッテンベルク大学で研究を続ける(1751).後世に名を残すような重要な戯曲を著した初めてのドイツ人劇作家.1755年,古典悲劇「サラ・サンプソン嬢」を発表.ブレスラウ知事の秘書を務めている間に,詩と造形芸術の限界を定義した評論「ラオコーン」(1766)、不朽の演劇論「ハンブルギッシュ・ドラマトゥルギー」(1767~69)を著す.「ミンナ・フォン・バルンヘルム」(1767)はドイツ初の大規模な喜劇である.1769年,ウォルフェンビュッテルにあった、当時ヨーロッパ有数とされていたブラウンシュワイク公家図書館の司書を勤め、1781年当地に没した。1772年には,もう一つの大悲劇「エミリア・ガロッティ」を書いた。最晩年の作品に「賢者ナータン」(1779)がある。

    賢人ナータン (岩波文庫 赤 404-2)賢人ナータン (岩波文庫 赤 404-2)
    (1958/08)
    レッシング

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    プリーストリー
    Priestley, Joseph (1733-1804)
     イギリス、カンブリア州フィールドヘッド生まれ.1755年に長老派教会の牧師となり,1767年にリーズへ移ったあと化学の研究を始めた.B. フランクリンとの接触が動機となって67年,名著《電気学の歴史と現状》を出版。二酸化炭素についての実験を行い,〈ソーダ水〉を発明した。彼の名声を聞いたシェルバーン伯ペティ William Petty(1737‐1805)は司書兼顧問として彼を招聘し文学や科学を研究できる環境を与えた。彼はこのシェルバーン伯と過ごした8年間に多くの研究活動を行った。一酸化窒素,二酸化窒素,酸素やその他数種の気体を遊離,確認したほか,気体の水への溶解性,呼吸に対する適性などを実験的に考察することで気体を体系的に研究した。また英語の文法書や教育,政治についての著作がある.フランス革命の支持者であり、アメリカの独立戦争に対しても好意的であったため、1791年暴徒におそわれ、実験装置,書籍などを家といっしょに焼かれロンドンから逃亡、さらに1794年に生命の危険を感じてアメリカへ渡ることになった.同地では歓待された.

    Memoirs of Dr. Joseph Priestley (Cambridge Library Collection - Physical  Sciences)Memoirs of Dr. Joseph Priestley (Cambridge Library Collection - Physical Sciences)
    (2010/06/10)
    Joseph Priestley、Thomas Cooper 他

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    ブラウン
    Robert Brown (1773―1858)
     スコットランドの牧師の子として生まれ、エジンバラ大学で医学を修めて軍医となる。植物学に興味をもち、博物学者バンクスJ. Banks(1743―1820)の推挙でイギリス海軍の探検船に乗り組み(1801~05)、南アフリカ、オーストラリア、タスマニア地方の植物を調査して約4000種の標本を持ち帰った。ロンドンのリンネ協会の司書(1806~22)、バンクスの蔵書や標本の管理者(1810~20)を務めながら、オーストラリアの植物の記載・分類を行った。バンクスの死後、彼のコレクションが大英博物館に遺贈されるに伴い、ブラウンは同博物館植物学部長となり(1827)、死ぬまでその地位にあった。バンクスが残した家に住み、生涯独身であった。彼は新しい属や科を記載することによって植物分類法を改良し、心皮の有無によって被子植物と裸子植物を明確に区別し、植物の生細胞中に1個の核があることを明らかにした。1827年、花粉内部の小顆粒の不規則な運動、いわゆるブラウン運動を発見し、同様な運動は水中に浮遊する非生物的な微粒子でもみられることを確かめた。

    The Miscellaneous Botanical Works of Robert Brown: I. Geographico-botanical, and II. Structural and Physiological MemoirsThe Miscellaneous Botanical Works of Robert Brown: I. Geographico-botanical, and II. Structural and Physiological Memoirs
    (2010/02/28)
    Robert Brown、John Joseph Bennett 他

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    グリム兄弟
    Jacob Ludwig Carl Grimm(1785-1863), Wilhelm Carl Grimm(1786-1859)
     ドイツ、ハーナウ生まれ.ともにマールブルク大学に学ぶ.ヤーコプはカッセルの陸軍省で書記を務め,1808年にヴェストファリアの王ジェローム・ボナパルトの司書となる.体の弱かったヴィルヘルムはカッセルに残り,選帝侯図書館の秘書となる.1816年ヤーコプも外交官の職を辞し,弟と同じくカッセルの図書館員となり,以後兄弟は相似た経歴をたどる。1812年から1822年にかけて,「グリム童話集」として知られる3巻本を出版.ヤーコプの「ドイツ語文法」(1819,改訂版1822-40)は当時の最も偉大な言語学的著作であろう.彼はまた音変化における“グリムの法則”を公式化した.1829年に二人はゲッティンゲンに移り,ヤーコプは教授,図書館長となり,ヴィルヘルムは副館長となる(1835年に教授).1841年に両者はベルリンで教授となり,1854年には歴史的記述に基づき、今日でも最大規模を誇る「ドイツ語辞典」を編纂した。

    完訳 グリム童話集〈1〉 (岩波文庫)完訳 グリム童話集〈1〉 (岩波文庫)
    (1979/07/18)
    W. グリム、J. グリム 他

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    ホフマン
    August Heinrich Hoffmann (von Fallersleben) (1798-1874)
    ドイツ、ファラースレーベン生まれ.18歳でゲッティンゲン大学で神学を学ぶ。1818年にグリム兄弟と知り合った折に、祖国の地は古典古代よりも身近に存在するものではないのかとヤーコプ・グリムに尋ねられ、ドイツ語とドイツ文学(ドイツ学とドイツ哲学)の研究に転向。1821年、中世の叙事詩『オトフリート (Otfried)』の断片を発見。同年、ボンからベルリンに移り、彼の兄弟の力添えで司書になる。その後、プロイセンで名高い個人図書館を所有するグレゴール・フォン・モイゼバッハ (Gregor von Meusebach)男爵の知遇を得、ヘーゲル、サヴィニーらと交流する。1823年にはブレスラウ大学図書館の館長に就任、その後同校のドイツ語教授(1830-42)を務める.「もう鳥たちはやってきた」や1922年にドイツの国歌となった「ドイツはすべてにまさる」(1841)などの人気のある愛国的なフォルクスリート(民謡)で最もよく知られる.

    Deutsche Lieder aus der SchweizDeutsche Lieder aus der Schweiz
    (2010/12)
    August Heinrich Hoffmann von Fallersleben

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    ベリャーエフ
    Алекса́ндр Рома́нович Беля́ев/Aleksandr Romanovich Belyayev (1884―1942)
     ロシア西部スモレンスク生まれ。11歳の時にスモレンスクの神学校に入学、1901年に卒業。1903年に法律学校に入学し、1906年に卒業。弁護士になる。1915年末にはスモレンスク新聞の編集長だったが、突然に脊椎カリエスを発症。6年間、首から下の自由をなくして寝たきりであった。1922年に回復してからは民警、幼稚園教師、図書館の司書などの職業を経て1925年、処女長編『ドウェル教授の首』を発表、以後文筆活動を続ける。この作品や3年後の『両棲人間』などは、生体実験や臓器移植手術、あるいは人間の生物学的改良をテーマにした代表作。『無への跳躍』(1933)や『人工衛星ケーツ』(1939)などは宇宙旅行をテーマにした代表作。批評家からは荒唐無稽・非科学的だとされ不遇だったが、50年代後期からソ連でも再評価され、ソ連SFの父といわれる。

    ドウエル教授の首 (創元SF文庫)ドウエル教授の首 (創元SF文庫)
    (1969/01)
    アレクサンドル・ベリャーエフ

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    毛沢東

    Mao Zedong (1893-1976)
     中国、湖南省韶山生まれ。1918年、湖南省立第一師範学校を卒業。1919年の五・四運動期に、教授で恩師の楊昌済(のち、義理の父親となる)とともに中華民国北京政府の首都である北京へ上京する。楊の推薦により、北京大学の図書館にて館長の李大(最初の共産主義研究サークルを創設,1921年にはこれが共産党となる)のもとで司書補として勤めるかたわら、『新青年』の熱心な寄稿者となる。1921年、中国共産党創立大会に湖南省責任者として出席。第一次国共合作中から農民運動を指導。1931年、中華ソビエト共和国臨時政府主席。1935年、長征して陝西省に至る。日中戦争勃発後、延安で毛沢東思想の基本を示した「実践論」「矛盾論」などを執筆。1949年、中華人民共和国成立とともに国家主席。後1958年に大躍進政策を開始し,巨大コミューンに地域の余った農業労働者を囲い込み,工業および農業の急速な発展を推進した.大躍進政策の失敗のために彼は影響力を失ったが,1965年には軍を掌握する林彪と手を組み,文化大革命を指導。

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    ボルヘス
    Jorge Luis Borges (1899-1986)
    アルゼンチン.ブエノス・アイレス生まれ.父が眼の手術を受けるため、1914年に一家でスイスのジュネーヴに移住。カルヴァン学院に学ぶボルヘスはバカロレアを取ったが、大学には進学しなかった。一家そろってスペインのバルセロナへ移住。ここで当時の前衛文学運動・ウルトライスモに参加。しかしボルヘスは、ウルトライスモへの参加を後に酷く後悔することとなる[1]。セビリャ在住を経て、1921年ブエノスアイレスに帰郷。1923年処女詩集『ブエノスアイレスの熱狂』を発表、父の眼の治療のため再度渡欧。1937年司書としてブエノスアイレス市立図書館に就職。1946年、フアン・ペロン軍事政権が発足すると、ボルヘスは自由主義思想を問題にされ、食肉市場の検査官への転属の辞令が下り、憤慨のあまり退職。1955年、ペロン失脚と共に図書館に復職し、アルゼンチン国立図書館の館長に就任。しかしこのときボルヘスは視力を失いつつあった。

    創造者 (岩波文庫)創造者 (岩波文庫)
    (2009/06/16)
    J.L. ボルヘス

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