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     人もすなる「今年読んだ本」のようなものを書いてみたのだが、「今年出た本」が一冊も入っていない。
     いや、まったくない訳ではないが、取り上げたいと思えるものがない。
     それどころか『大阪府立図書館参考事務必携』みたいな本が幅を利かせている。
     そもそも本屋に置いてない本のことなど、暮れのおしつまったこの時期に聞かされてもなあ、だいたい図書館だってもう閉まってるし。
     という訳で一計を案じて、今年になって復刊した本ということなら、実際に読んだ時期はいろいろだが、とにかくも「今年出た本」ということで取り揃えられるだろうと思い、以下書いてみた。

    (追記)
     書いてみたのだが、時間が本当になくなってしまった。
     あと『クレーの日記』と『社会学の根本問題―個人と社会』と『偉大な記憶力の物語――ある記憶術者の精神生活』と(『悲劇の死』は別にいいや)、『荒涼館』についてはいくらなんでももう少し、プラス『現代語から古語を引く辞典』と『美花選』について書くつもりだったが、今年はこれで打ち止めである。

     では、よいお年を。





    連環記 他一篇 (岩波文庫)連環記 他一篇 (岩波文庫)
    (1991/02/18)
    幸田 露伴

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     今年はナボコフだとかル・クレジオなんかの復刊がいくつかあったけれど、このリストは幸田露伴からはじめる。
     露伴の書くものは、どれも途方もなく面白いのだが、これが文学かと言われれば、うなづく理由がほとんど見当たらない。
     日本の小説書きが、こぞってヨーロッパの文学運動のあとを夢中になって追随していった時期にも(笑うの待て。今もそのあたりの小説に用いられる言葉はこのなれの果てなのだから)、露伴はそういった主流の外にいた。今日では「自然」なものと見なされる自然主義の文体とは遠く、『運命』までは格調の高い文語体で書かれ、だから読みにくいことは読みにくいし、古くさいと言われればその通りだろう。『幻談』が発表当時、熱狂的に迎えられたのは、読者が苦労せずに読むことができるはじめての露伴作品だったから、というフォークロアがあるほどだ。
     露伴の登場人物は悲嘆し呻吟することはあっても、自身を責め煩悶することがない。「文学的」と呼ばわれる自意識を欠いている。だがそれを言うならホメロスだってそうで、大アイアスのごとき猪武者は脳みそさえ欠いている気がするが、それでも彼の姿、行為は我々の胸を打つ。いや、露伴の話だったな。
     『連環記』は露伴最後の「作品」。主人公のひとり、慶滋保胤は、平将門、藤原純友の乱にさいして白衣観音法を修すべきことを進言し『今昔物語集』にも陰陽道に関して肩を並べる者なしと評された賀茂忠行の子。兄に、忠行を継いだ保憲がいて、忠行・保憲の門から安倍晴明が出た。保胤は、陰陽道の家を出て紀伝道へ進み、疫病神さえもその家には押入らず礼拝して通り過ぎたと噂される菅原文時(菅原道真の孫)に師事して首席となった。その人となりは、露伴の筆が読む者の魂を呆れさせてなお離さないから譲ることにするが、この保胤がやがては比叡山横川の源信のもとで出家し寂心と称するようになる。
     さてもう一人の主人公、大江定基は、参議大江斉光の第3子で、文章博士となり三河守となったが、これも出家し寂心に師事することになる。そして師の死後、中国宋までも渡って行ってしまう。定基の発心の下りもまた、「人間世界の最低と最高の領域を同時に覆うことのできる言葉の力として感得される」と川村二郎などは言うところで、読者の楽しみを奪う不調法は差し控えなければならないだろう。
     広く往生伝や説話類に取材し(なにしろあの露伴のやることだ)、瞠目すべきエピソードが、いくつもいくつでも投げ込まれている。ほとんど構成など無き感があるのだが、その最後の最後になって露伴がそっと最後の珠を添えた瞬間に、それまで気付かなかった環の連なりに読む者を思い至らせる。



    ジョゼフ・フーシェ―ある政治的人間の肖像 (岩波文庫 赤 437-4)ジョゼフ・フーシェ―ある政治的人間の肖像 (岩波文庫 赤 437-4)
    (1979/03/16)
    シュテファン・ツワイク

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     倉多江美には、その色気も毒気もない真っ白な絵、枯れ果てた作風を駆使して、フランス革命において、政権がかわってもずっと政府中枢に居続けた究極の日和見主義者ねずみ男、誰も信用せず誰からも信用されなかった「過去において最も罪深く、将来においても最も危険な人物」を描いた傑作『静粛に・天才只今勉強中!』というマンガがあるのだが、これはシュテファン・ツヴァイクがその人物を描いた伝記の名作。
     描くツヴァイクもうまいのだが、何しろ素材となった男がひどい。
     聖職者だったのに、誰よりも教会を否定して1792年に国民公会の議員に当選。穏健派ジロンド派に属していたのに、実はロビスピエールの妹と付き合っていて、ルイ16世の死刑に表を投じてジャコバン派に転身。ジロンド派追放から免れ、ジャコバン派では誰よりも私有財産を廃止したり虐殺したりと大活躍するが、そのうちロビスピエールと対立。こっそりテルミドールのクーデターを画策してロビスピエールを追放、処刑に追い込む。自分はまんまと生き伸び、その情報収集力を買われて総裁政府の警視総監に。そこでは密偵を多数雇い入れ、秘密警察にしたてて政府関係者の秘密を握り倒し、ブリュメールのクーデターに協力してナポレオンの政権奪取に貢献。ナポレオンに罷免されると今度はタレーランと策謀しナポレオン追い落としを計る。帝政崩壊後、臨時政府首班としてタレーランと協力しルイ18世をパリに迎えて、王政復古で自分はまたしても警察大臣に。しかし国王殺しに加担したことを王党派は忘れるはずもなく2ヶ月で失脚。フランスから亡命するも、晩年は家族と家族と友人に囲まれた平穏な生活を営み、安らかに死んでいった。それというのも敵対者の個人情報を使って保身に勤めていたからだった。

    静粛に!天才只今勉強中! 復刊リクエスト投票


    荒涼館〈1〉 (ちくま文庫)荒涼館〈1〉 (ちくま文庫)
    (1989/02)
    チャールズ ディケンズ

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     女王陛下から靴磨きの小僧まで夢中になって読んだディケンズの中でも、最もおもしろい物語のひとつ。
     これを読んでた時は、夜な夜な電話をかけまくって、さっき読んだばかりの個所を朗読していた。
     あの時はみんな迷惑かけたな。ごめん。
     この物語に登場するどんな矮小な人間も、ワンシーンどころかワンショットしか登場しないどんな端役も、人格のどん底まで真っ黒で陰影のつけようがない悪人も、残らずキャラが立ち過ぎてて、紙面からはみ出るその立ち姿、しぐさ、口にする言葉を、(ナボコフが言う意味での)「良い読者」は覚えずにはいられない。



    対談 数学大明神 (ちくま学芸文庫)対談 数学大明神 (ちくま学芸文庫)
    (2010/11/12)
    森 毅、安野 光雅 他

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     森毅はやたらと対談している印象があるけれど(なんというか、ばーばー適当なことを喋っていつも楽をしている、という拭い難いイメージがあるのだ。これにはそうあって欲しいという願いも込められている)、これは多分、最高傑作の一つ。
     いや、こう書くのはきっと誉め過ぎで、本当は読むに値するものは3つくらいしかない。
     ひとつは学生時代の浅田彰に編集を押し付けた『世話噺数理巷談―さろんのわだいにすうがくはいかが』。浅田が対談の現場までも介入することで、ずるずる流れがちな森毅の対談が、何か大したことが語られているかのような錯覚に陥るほどの仕上がりになっている(これは後年ちくま文庫に入って『森毅の学問のススメ』というタイトルで出ているのだが、重要な二人の対談が何故だか抜けている)。
     もうひとつは、発言内容でもスタイルでも、まったく森に合わせようとしない(というかダメ出しし続ける)竹内啓を対談相手に迎えた『数学の世界―それは現代人に何を意味するか』。こういう逆風にさらされた方が森のホニャララさは生きるのである。
     さて、『対談 数学大明神』では安野光雅が対談相手である。そう、安野がいい。対談のテーマはタイトルのとおり数学というか〈数〉なのだが、安野がふってくる数に関わるネタがいい。全部いい(安野が教師時代、生徒に数字で成績をつけるのが忍びなくて「この子はトンカチのようです」と通信簿に書いた話など、今読んでも鼻水がこぼれる)。そしてみんな忘れているかもしれないが、我らが森一刀斎は何を隠そう数学者なのだ。控えめな伴奏のように安野のネタに乗ってくる森は(伴奏なら乗ったらだめじゃないか。まあいいか)、対談の名手でもあるのだった。
     森毅、2010年7月24日逝去。


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