ウィンストン・チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill, 1874年~1965年)という人は、第二次世界大戦の間イギリスの首相をやり、『第二次世界大戦回想録』The Second World War (6巻,1948~54)という本を書いてノーベル文学賞(1954年)をもらった人だが、とても出来の悪い人で、名門パブリックスクールの一つハロウ校(Harrow School)に入学するにも〈特別な配慮〉が必要なほどだった。
     なにしろ入学試験で書けたのが、本人の弁によれば、

    「私はまず答案の上に名前を書き、つぎに番号1を書いた。それからずいぶん考えてからその周りに(1)とひとつ括弧をこしられた。がその後は、これに関係したこと、もしくは該当したことは何ひとつ考えられない……。」


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     学校での順位は後ろから3番目だった。
     後ろから1番目と2番目は、病気その他の理由でまもなく退学した。
     チャーチルの父は大物政治家で、その時下院総務と大蔵大臣をちょうど辞めたところだった。
     学校にやってきた人は、ビリの子が誰の子息であるかすぐに分かった。
    「やあ、あの子はビリじゃないか」
    と声に出して言う人もあとを絶たなかった。

     おまけにハロウ校を出た後も三度受験に失敗して、ようやく士官学校に入ることができた。
     卒業したあと軍に入ったが、そこで父親が死んだ。
     どうにも未来はあまり明るくなさそうだった。

     風向きが変わったのは、従軍の合間にとった筆の力によってだった。
     チャーチルはキューバやインドに赴任し、イギリス本国の雑誌に記事を書いた。
     特にインドからの通信は『マラカンド野戦軍』という一冊の本にまとめられてることになり、この本が大きな評判となった。
     時のソールズベリー首相から会いたいといわれるほど人気ぶりだった。

     ボーア戦争には、この流れに乗って従軍記者として参加した。
     ここでは敵に捕われ捕虜となったが、脱走に成功し、一躍時の人になった。
     自分でもこの体験をまとめると、またもベストセラーになり、富と名声を手に入れた。

     この人気を追い風に、チャーチルは1900年下院議員に初当選した。
     二世議員であると同時にタレント議員であった。
     そして書くことは、政治活動な浮沈を越えて、一生涯続けられた。
     彼の身を助け、世に出したチャーチルの文才は、いかにして磨かれ鍛えられたのだろうか?
     チャーチル自身が記した半生記に、ハロウ校で落ちこぼれたちに書くことを教えた恩師のことを、こう書いている。

    「私は、このあまりパッとせぬ地位を約一年ばかりつづけた。しかしこのビリッコ組に長くいたおかげで、最もよくできる生徒よりずっと利益を得たことがある。
     彼らはラテンとかギリシアとか、その他えらいことを学んだが、私は英語を教えられた。
     劣等で英語のほかに覚えられぬと考えられたからだ。
     この劣等組に世間で等閑視されていること、すなわちただの英語を書くことを教える役を託されたのが、ソマヴェル 先生であったが、この人はじつにいいひとで、私はこの先生に非常に負うところが多い。
     彼はいかに英語を教えるかをよく心得ていた。
     彼ほど教えかたの堂に入った人はないように思う。
     我々は英語の説明を細かく聞いたばかりでなく、たえず文の解剖を練習した。
     先生には彼独特の教授法があった。
     彼はかなり長い文章をとって、それを 黒、赤、青、緑のインキでいろいろの構成分子に分ける。
     主語、動詞、目的語、関係節、 条件節、接続節、離接節など!
     みなそれぞれの色彩をもち、それぞれの括弧に包まれる。
     それはまるで、1つの練習問題のようで、毎日のようにおこなわれた。
     そして 私は四級三、最下級(B)にだれよりも三倍長くいたから、人より三倍よけいにやった。
     私は完全に習い込んだ。
     普通の英文なら、その基本構造を骨の髄まで徹底的に覚えた。
     これはじつに尊いことだ。
     それゆえ、後年、美しいラテン語の詩や、簡潔なギリシア語の警句を書いて褒賞をとった同窓が、生計をたてるため、あるいは世間に出んがため、普通の英語を書かねばならなくなったとき、私はこれと伍してなんらの遜色を感じなかった。」(W・チャーチル著、中村祐吉訳『わが半生』誠光社, 1950;角川文庫,1965 ;Winston Churchill (1930).My Early Life: A Roving Commission, Thornton Butterworth: London.)


     これは、英語学習者を暗号解明作業の真只中に置き去りにし、英語を学ぶ楽しさや英語を読む喜びから疎外し、日本人を英語弱者にしたと槍玉にあげられてきた、訳読式方法grammar-translation approachにそっくりである。
     
     この引用箇所は、薬袋善郎『英語リーディング教本』の冒頭に引用されている。
     同じくこのエピソードを紹介している星野仁彦『
    知って良かった、アダルトADHD』には、「現代でもこのような指導法は、学習障害(LD)児の治療教育に有効とされています」とある。


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    (引用箇所の原文)

    I continued in this unpretentious situation for nearly a
    year. However; by being so long in the lowest form I gained
    an immense advantage over the cleverer boys. They all went
    on to learn Latin and Greek and splendid things like that,
    But I was taught English, We were considered such dunces
    that we could learn only English. Mr. Somervell a most
    delightful man, to whom my debt is great was charged
    with the duty of teaching the stupidest boys the most dis
    regarded thing namely, to write mere English* He knew
    how to do it. He taught it as no one else has ever taught it.
    Not only did we learn English parsing thoroughly, but we
    also practised continually English analysis. Mr. Somervell
    had a system of his own. He took a fairly long sentence and
    broke it up into its components by means of black, red, blue
    and green inks. Subject, verb, object: Relative Clauses, Con
    ditional Clauses, Conjunctive and Disjunctive Clauses! Each
    had its colour and its bracket. It was a kind of drill. We did it
    almost daily. As I remained in the Third Fourth (/3) three
    times as long as anyone else, I had three times as much of it.
    I learned it thoroughly. Thus I got into my bones the essen
    tial structure of the ordinary British sentence which is a
    noble thing. And when in after years my schoolfellows who
    had won prizes and distinction for writing such beautiful
    Latin poetry and pithy Greek epigrams had to come down
    again to common English, to earn their living or make their
    way, I did not feel myself at any disadvantage. Naturally I
    am biassed in favour of boys learning English. I would make
    them all learn English: and then I would let the clever ones
    learn Latin as an honour, and Greek as a treat. But the only
    thing I would whip them for would be for not knowing
    English. I would whip them hard for that.

    http://www.archive.org/stream/rovingcommissino001321mbp/rovingcommissino001321mbp_djvu.txt



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