(あらすじ)

     大学で学問研究をするという今では当たり前のことは、19世紀初頭ドイツに端を発する。

     これは研究と教育とを結び付けて行う新しいタイプの大学(研究大学)によるものである。

     研究大学は、ゼミナール方式を採用し成功させることで、研究と教育とを結び付けるという理念を実現した。

     ゼミナール方式は、大学では、まず古典文献学の分野で採用された。古典文献学ゼミナールは、ドイツの中等教育(ギムナジウム)で生まれた古典教師の需要に応えた。これにより学問研究を職業とすることが可能となり、実利的でない学問の純粋化が可能になった。

     ゼミナールでは、参加者は知識を伝授されるのでなく、自分で研究を行いゼミナールで発表し、他の参加者から批判的吟味を受け、討論することが求められた。

     このためゼミナールは研究者を育成するのに優れ、また批判的吟味の習慣から議論の厳密化や研究の実証性が追求される傾向が生まれた。

     古典文献学での成功によって、他の分野でもゼミナール設置が求められるようになった。また古典文献学ゼミナール出身者が、他の分野でゼミナールを始めることも少なくなかった(ベルリン大学で歴史学ゼミナールを開いたランケや、ケーニヒスベルク大学で数学・物理学ゼミナールを開いたヤコービなど)。

     ゼミナールはまた、実験室を大学に持ち込む際の拠りしろになった。実験室はすでに研究者個人やアカデミーによって運営されていたが、研究と教育とを結び付けたゼミナール型の実験室は、新しい手法の普及や研究者を生み出すことに優れ、研究成果の生産性でも従来型の自然科学研究を凌駕した。

     急速に他を圧する成果をあげたドイツの大学は世界中から留学生を引き寄せ、留学から帰国した彼らによって持ち帰られたゼミナール方式とゼミナール型実験室は、世界中へと広がっていった。

     研究する大学が、学問研究の主役となる時代はこうしてやってきた。






    -----ゼミナールはむしろ特殊の世界に細かく入っていく学科に 接続するものであり、それは、生徒はすでに研究者であり教師であり、 教師は教えるよりむしろ、学生の研究を指導し、援助し、評価するという形での学生と教師の共同体である。
    シュライエルマッハー(1808)「ドイツ的意味における大学についての随想」)



    1.研究大学の登場

    (1)それまでの大学

     何世紀もの間、大学は研究なんてものとは、およそ無関係な場所だった。
     大学はずっと聖職者や医者や法律家になるために行くところだった。 
     
     これらの職業は、同業者(すでに聖職者や医者や法律家である連中、実際には連中がつくっている組織)に認められないとなることができない。勝手になったと言い張っても、もぐり扱いされるだけである。
     こうした閉鎖的同業者集団の再生産を担う大学は、同業者集団と同様に何世紀もほとんど変わらなかった。
     何世紀もずっと神学部と医学部と法学部だけで、今と違って学部が増えることも、新しい学問分野が加わることもなかった。
     
     たとえば、後に自然科学と呼ばれることになる知的活動やその成果は、いくつか例外があるとはいえ、長い間大学に居場所を見つけることができなかった。
     
     18世紀の半ばになっても、ある大学人はたとえば次のように主張した。

    「学問を改良し、新発見を行うことは、高等・初等を問わず学校の義務ではない。そのようなことはむしろ、少数の幸運な天才たちの義務、すなわち、公的な制度をあげよというなら、科学アカデミーの義務なのである」

     当時最も先進的な大学として名の知られた(ドイツ地域の学生の数が半減した18世紀から19世紀の時期にこの大学の学生数は減少しなかった事実はその傍証になるだろうか)ゲッティンゲン大学の教授(J.D.ミヒァエリスの言葉だという)にして、この有様だった。


    (2)ゲッティンゲン大学と文献学

     いろんな先触れはあるものの、大学が学問研究を担い、自然科学が大学に根を下ろすには、18世紀の終わりから19世紀初頭にかけてドイツで実を結んだ変革を待たなければならなかった。
     
     ゲッティンゲンは、イングランドの王家ともなったハノーファー家領邦の文化の中心地であり、1737年に設立されたゲッティンゲン大学は、イングランド文化や当地にあったアカデミーからの影響を受け活況を呈した。
     しかしその名声を高めた最大の要因は、神学部の影響力を抑え、神学部と医学部と法学部へ進む前の準備課程に過ぎなかった教養学部(哲学部)の重みを増したところにあった。教養学部に学ぶ学生は全体の1割に過ぎなかったが、これでも同時代の大学に比べればずっと大きなものだった。
     同業者集団と結びつきが間接的であるため、教養学部で教授する内容は相対的にであるが縛りが緩かった。ゲッティンゲン大学ではここで、伝統的な論理学や形而上学や倫理学に加えて、政治学や近代語、初等的ではあったが数学、そして古典文献学を教えた。

     ここでゲッティンゲン大学で文献学を学んだ二人の人物が重要である。
     ひとりは、のちにプロイセンのハレ大学で自身も文献学を講するフリードリッヒ・アウグスト・ヴォルフ
     そして今一人は、プロイセンの教育行政を担い、1810年にベルリンに新設される新しい大学のグランド・デザインを行い、ナポレオン軍によってハレ大学が閉鎖されベルリンにおちのびたヴォルフをまた、この新興ベルリン大学に迎えることになるヴィルヘルム・フォン・フンボルトである。
     
    (3)ベルリン大学とフンボルト

     ベルリン大学のデザインは、国家からの「学問の自由」の標語の下に、研究者と学生が自主的な研究に基づき、真理と知識の獲得を目的として、さらに徹底的な学部の組みなおしを行うものだった。
     哲学が、伝統的な法学、神学、医学3つの学問のみならず、自然科学を含めたすべて学問の理論的な研究を指導するというモデルがここで採用された。
     
     フンボルトは新大学の構想を記した論考「ベルリンにおける高等学問施設の内的ならびに外的組織について」の中でこの理念を次のように謳い上げる。
     
     「高等学問施設の内的組織においては、学問を未だ発見し尽くされておらず、永遠に完全に発見し尽くされることのないものと見て、不断にそれを追求し続けるという原則を堅持することにすべてがかかっていることが誰の目にも明らかだろう。人が自身で学問することを止めたり、あるいは学問を精神の深部から創造する必要などなく、ただ集めて一杯並べて見せれば済むなどと思い込むとしたら、すべては取り返しのつかない永遠の損失になる」

     完成された知識の伝達ではなく、やむことのない知識の創造こそが新しい高等学問施設の中核に据えられた。
     研究と教育の一体化を図るというベルリン大学の中核である理念が、具現化される必要があった。
     



    2.ゼミナール方式の採用

    (1)古典文献学ゼミナール

     教育と研究を結びつけるという構想は、どのようにして実現されたのか?
     
     その方途もまた、すでにゲッティンゲン大学にあった。
     大学革新運動の先駆的役割をになったこの大学は、新人文主義の発祥地ともなったが、とくにJ.ゲスナーの指導による文献学のゼミナールは多くの人材を輩出し、大学におけるゼミナール制度の起源となるものであった。
     ラテン語の seminarium(〈苗床〉の意)を語源とするゼミナールは、今日の大学でもみることができる、教師の指導のもとに少数の学生がみずからの発表や討論により学習を進める形の教育方法をいう。
     
     この教育方法は、いくつかの理由から、まず古典文献学の分野で採用された。
     ひとつは新人文主義の理想から、古典古代に英知に学ぶことが、リベラル・アーツにつらなる教養理念として捉えられたことがある。
     ここでの文献学Philologieは単に、文書の本文(テクスト)の伝承過程を検討し個別箇所における真正な読みを多様な異読のなかから確定する本文校訂学ではなく、文書に残って伝承されていることばの総体を理解しようとする諸学の総合としての文献学であった。
     こうした教養としての文献学の理念は、ヘレニズム時代の万学の学者エラトステネスの自己弁護から生じたものだが、ルネサンス時代にもビュデが教養理念として掲げた例がある。ウィンケルマンらの説いた古典古代文化の総合的理解の理想は、ウォルフやアウグスト・ベーク(ベック)によって旧来の文献学と区別された「古代学」Altertumswissenschaftの理念へと受け継がれることになる。

     こうした文献学の理想における理由の他に、いま一つのもっと現実的な理由も存在した。これもフンボルトが整備した中等教育(ギムナジウム)改革のなかで、生まれた古典教師の需要がこれであった。
     改革は、ギムナジウムの教師志望者と卒業予定者に国家試験を課すことを含む、教師と生徒の質を向上を図り、ギムナジウムの社会的地位を向上させるものであった。
     これにはもう一つ、中等教育の〈世俗化〉、すなわち(訓練されているとは言いがたった)神学生たちを中等教育の現場から追い出すことで教会の関与を弱めるという狙いがあったが、こうして増設され開放されたギムナジウム教師の口を、改革された大学の出身者が占めるようになっていく。
     古典文献学のゼミナールが、そしてそこに参加する学生が、専門研究者のトレーニングに打ち込むことができたのは、その出身者は大学に職を求めることができなくても、ギムナジウムの教師になることができたからである。
     加えてギムナジウムの教師の地位はかつてのように低くはなくなっていた。また初等、中等教育から大学(高等教育)まで一環として国家制度であったことも大きかった。ギムナジウムの教師からキャリアをはじめ、のちに大学の教授になるものも少なくなかったからだ。
     これらによって、学問研究を職業とすることが可能となり、専業(プロ)の研究者が社会集団として存在できるようになった。彼らは実利的でない学問に専念することができた。
     こうして19世紀ドイツで興隆する純粋数学などに顕著に見られるような〈学問の純粋化〉が制度的に支えられることとなった。
     

    (2)ゼミナールがもたらしたもの

     ゼミナールがその成立と存続に寄与したものには、今触れた〈学問の純粋化〉と〈研究専業者〉の他にも、〈厳密化志向〉〈研究業績主義〉そして新しい学派と新たな学問分野を形成する〈知識と担い手の再生産メカニズム〉などがある。

     〈厳密化志向〉は、ソクラテス的問答法に範を求めるゼミナールの参加者相互の討論を通じた批判的吟味から必然的に生じる帰結だった。
     根拠の薄い立論は、ゼミナールの場で即座に批判された。ゼミナールで発表する者は、考えられ得る反論をできだけ折り込み、あらかじめ十分な証拠と破綻のない推論で武装するようになった。そのため、発表は前もって書き出され練り上げられてから、ゼミナールの場に登場するようになった。
     ゼミナールでの時に微細な論点に分け入って繰り広げられる議論もまた、大づかみに理解するだけでは足らず、詳細に記録される必要が生じてきた。
     J.M.ゲスナーから数えて3代目にあたるC.G.ハイネの時代に、ゲッティンゲン大学の文献学ゼミナールにゼミナールの議論を記録することが導入されたと伝えられる。
     余談であるが、思い思いに残されれてき実験記録について、今日実験科学で広く用いられる〈実験ノート lab notebook〉の記載法は、このゼミナール記録を起源するというフォークロアが存在する。
     ともあれ、ゼミナールにおける批判的吟味は、文献学においては本文校訂や真贋判別の方法論を鍛え上げ、これがまず隣接学問である歴史学や古典研究へと波及していく。議論の厳密化や研究の実証性の追求が、時代の声となった。

     ゼミナールの進行は討論によって進められる。
     そこでは、参加者は自説を根拠付け、他説の欠陥を鋭く指摘することを要求された。ゼミナールにおけるこうした経験は、大学任用基準の変化と手を取り合って、〈研究業績主義〉を当然かつ至上とする知的風土を養生することになる。
     標語的にまとめてみるならば、18世紀の学者たちはアカデミーや文通で互いに交流したが、研究大学に居場所を得ようとする19世紀の学者たちはゼミナール(そしてジャーナル)で互いに競争するようになった。

     〈大学〉をさすuniversity、〈教師〉をさす master などの現代語は本来は単に〈団体〉〈親方〉というギルドの用語であったことから知れるように、中世のヨーロッパにおける大学の起源は教師・学生の一種のギルドに発していた。
     そこでの人的つながりが、長い間、大学での任用を左右していた。
     いわばゲマインシャフト的団体だった大学は、プロイセンでフンボルトらが手をつけた教育行政改革の中で、ゲゼルシャフト的に再構成されていく。

     直接的な契機は、大学の教授団が拒否した任用人事に、プロイセン当局が介入する形で訪れる。後で登場するJ. J. G.ヤコービのような、周囲と衝突を繰り返す男の任用は(それが人格だけに根ざすものではなく、新時代の学問志向にも由来するとはいえ)、当然のごとく教授団には歓迎されなかったが、ここに国家が介入し、教授団に否決された人事が差し戻される。
     時代を担う数多くの学者が,同様の経緯をたどって、それぞれの大学に着任していく。

     かつてはサロンやアカデミーで多方面の人間関係を結び寵児となるのは、異なる分野の者とも交流を広げられる博学者たちだった。
     大学は今や、そこから遠ざかろうとしていた。
     研究大学では、隣接分野にすら暗く、他の部門とはまるで話が通じなくても、専念する分野で卓越した業績があれば、職を得ることができるし、そうあるべきである。
     プロイセンでは、教授団を味方にできなくとも、上記のように考える国家当局の、〈公平〉な介入を期待することができた。
     つまり時代の風は、ここでも専門分化を深めていく方向に吹き始めていた。
     

     ゼミナールは、当初目された通り、研究と教育を一体化することで、研究者の〈生産効率〉を高めることに成功した。
     このことは学派や新しい学問分野の登場を促進することになる。
     ある学説やアプローチを採用する研究者がゼミナールの指導者になれば、その学説・アプローチを採用する一群の研究者を,自分の周囲に速やかに生み出すことができた。
     そして一群の研究者を作り出せば、同じ学説やアプローチを採用する研究成果を矢継ぎ早に世に出すことができた。
     また論争と競争がもたらす集団力学は、研究者集団に凝集性とアイデンティティの意識化を促す。
     集団内でも激しく行われる論争と競争は、研究者集団の分化をもたらし、これがまた新たな学派の登場を促し,時に新たな学問分野であるというアイデンティティの主張が行われることにもつながった。
     
     
     
    (3)ゼミナール方式の広がり

     研究者の〈生産効率〉を高めることは、当然ながら研究自体の〈生産効率〉を高めることになる。
     ドイツの新しい大学システムが、サロンやアカデミーといった先行者を凌駕して、知的領域で席巻したのは必然であった。
     ドイツがこのとき国家的に統一されず諸邦に分かれていることも有利に働いた。
     諸邦にある大学の間であらゆるレベルの競争が生じ、業績を上げた学者は(その大学の人事で浮かばれないならなおのこと)他の諸邦の大学に引き抜かれた、より上位レベルでは、たとえば効果を上げた制度はすぐさま模倣された。

     ゼミナール制度はこうして諸邦を越えてドイツ圏に広がり採用されていく。
     乗り越えられるのは、諸邦の境だけではなかった。
     究者の〈生産効率〉を高まり、新たな学派、分野を生み出す圧力は、学問分野の間の壁を低くする。
     ゼミナールは古典文献学の域を越えて採用されていく。

     まず文献学の隣接分野である歴史学や古典研究に、史料批判や解釈の妥当性を根拠付ける方法として波及した。
     先に登場したベークは古代ギリシア史を書き換え、バルトホルト・ゲオルク・ニーブールが古代ローマ史の新しい像を描き、これらがまたカール・オットフリード・ミューラー、テオドール・モムゼンヤコブ・ブルクハルト、もちろん、レオポルト・フォン・ランケの実証的歴史学へと影響を与えた。ランケ自身もまた、大学で古典文献学を学び、ギムナジウムの教師を経て、ベルリン大学に赴任し、以後50年をこの地で研究と歴史学者の育成に捧げることになる。
     
     文献学のゼミナールは、古典学や歴史学などの隣接諸学に影響を与えるだけではなかった。
     自然科学分野でも、ゼミナール創立を求める声が、各大学で,諸邦当局へと持ち上がり、いくつかは短命なまま消え去ったが、中から次代のモデルとなるゼミナールが登場してくる。
     
     1810年のベルリン大学創設に始まる10年代にはまだ、ドイツの大学に数学や自然科学の分野でみるものはなかった。
     偉大なガウスはいたが、ゲッティンゲン大学での彼の数学講義は初等的なものにとどまり、自身の独創を伝えるものではなかった。タイプ分けをすれば、彼は天才とアカデミーが先導する18世紀に属する数学者であり、ほとんど独学で数学の道に進んだこともあり、数学者を育てる志向を持たなかった。

     1825年、ノルウェーからベルリンにやってきた数学者ニールス・アーベルは、故郷の師にこう書き送っている。
     
     「ドイツにおける貧弱な数学の状態と、それに大多数の数学者はやっているは少々の幾何学と、彼らが解析学と呼んでいるもの、それも少々の組合せ論に過ぎないものに限られていることを、彼から聞きました。しかし彼はドイツにおいて、数学のための最も幸運な時期が始まったという意見を持っています」。
     
     アーベルが手紙にかいた〈彼〉、アウグスト・レオポルト・クレレは純粋に数学者とは言えなかったが(生業は土木技師だったが36歳で学位を得ている)、数学に対する熱心さと組織づくりの才能が彼の名を不動のものとする。1826年「クレレのジャーナル」とも呼ばれた、世界初の数学専門誌Journals für die reine und angewandte Mathematikの創刊によってである。
     
     この雑誌の背景には、1825年にベルリン大学ではじめられた数学の講義があった。
     その講義を受け持ったのはカール・グスタフ・ヤコブ・ヤコービ


    Carl Gustav Jacob Jacobi、1804-1851.


     かのベークの(将来文献学者になる者以外は受け入れないはずの)古典文献学ゼミナールに学び、将来を嘱望された学徒だった。
     彼自身の学問的アイデンティティを述べる手紙が残っている。1828年、フランスの老数学者アドリアン=マリ・ルジャンドルに楕円関数論に関する発見を書き送る手紙の中に、ヤコービはこう書き添える。
     「私はベルリンで文献学(philologie)を学びましたので彼〔ガウス〕を個人的には知りません。そこにはすぐれた幾何学者はいませんでした」。
    Korrespondenz Adrien-Marie Legendre--Carl Gustav Jacob Jacobi =: Correspondance mathematique entre Legendre et Jacobi : mit dem Essay "C.G.J. Jacobi in Berlin" (Teubner-Archiv zur Mathematik)

     ベルリンでの学生時代、ヤコービは文献学者のトレーニングを積みながら、オイラーの『無限小解析序説Introductio in analysin infinitorum』を独学し、一般五次方程式の一般解を見つけ出そうとしていた。古典文献学と数学への関心は、しかし分離したものではなかった。たとえば古典学者の卵として、四世紀のアレクサンドリアで活躍した数学者パッポスについての小論を著している。結局、数学を選んだのは、哲学、文献学、数学への関心を同時に満たすことは不可能だと悟ったからだった。
     数学についてはガウス同様に独学だったが、ガウスと異なり、ヤコービは研究者育成のための濃密なトレーニングを受けていた。私講師ではあったがヤコービがはじめたゼミナールは、第一線級の研究成果を数学者育成の場に持ち込み、彼の周囲に数学者集団をつくり上げていった。彼らは研究成果を、先進地フランスのJournal de l'ecole polytechniqueに投稿していたが、すぐに自分たちの雑誌を持つようになる。「クレレのジャーナル」がそれだった。
     
     ベルリン大学で昇進の見込みがないことを知ったヤコービは、1826年にはベルリンを去り、ケーニヒスベルク大学へと移るが、この地で1828年には員外教授、 1832年には正教授となり、1835年にはベルリン大学出身のフランツ・エルンスト・ノイマンと共同で、数学・物理学ゼミナール(Mathematisch-Physikalische Seminar)を創設する。
     ヤコービは、かつてのベークと同じく、ゼミナールに参加する学生に、彼ら自身の独立した仕事(研究)を要求した。ここで数学と物理学の学生は、最初から研究者として訓練されることになる。

     このケーニヒスベルクのこのゼミナールは成功モデルとして、多くの模倣を生んだ。
     早くも1839年にはヤコービの学生だったL.A.ゾーンケがハレ大学に一般科学ゼミナールを設立する。
     1850年にはゲッティンゲン大学に数学・物理学ゼミナールができ、その翌年にはベルリン大学から戻ったリーマンがこれに参加する。
     同じく1850年代にはキルヒホッフらによってハイデルベルク大学に、1860年代にはクレープシュやゴルダンによってギーセン大学に、ケーニヒスベルク・モデルが導入される。
     超楕円関数の業績によって1856年にベルリン大学で助教授になっていたワイエルシュトラスのもとで、1868年からは純粋数学のゼミナールが開かれ、イプシロン-デルタ論法や一様収束の概念による解析学の基礎付けに見られる厳密なスタイルの数学を定着させる。


    (4)ゼミナール型実験研究室

     1825年には、フランスから帰国しアレキサンダー・フンボルトの肝いりでギーセン大学の助教授となっていたL.J. リービヒが化学研究室を開設する。
     
     ゼミナールはまた、実験室を大学に持ち込む際の拠りしろになった。
     実験室はすでにラボアジェのような研究者個人やアカデミーによって(あるいは、それ以前から錬金術士や工房の親方たちによって)運営されていた。
     ドイツに生まれた研究実験室が、先行するそれらと異なるのは、工房の徒弟制でも、旧大学の講義制でもなく、ドイツの新大学で成功を収めていたゼミナール方式を採用したことだった。
     
     研究と教育とを結び付けたゼミナール型の実験室は、ゼミナールがそうであったように、実験研究者を生み出すことに優れていた。
     速やかに研究者を生み出す生産効率の高さは、研究成果の生産性に直結する。
     リービヒの研究室では、炭水素定量法といった手法や、その後常識となる実験道具、多くの有機化合物の発見をはじめとする研究成果、そして数多くの化学研究者(アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマンフリードリヒ・ケクレ、シャルル・ヴュルツ、シャルル・ジェラール、エドワード・フランクランド、アレキサンダー・ウィリアムソン……)を生み出していく。
     他を凌駕した制度や仕組みもまた、模倣によりドイツ中に広がり、ドイツは瞬く間に化学分野で世界をリードする存在にのし上がっていく。


    3.研究大学の成功と普及

     急速に他を圧する成果をあげたドイツの大学は世界中から留学生を引き寄せ、留学から帰国した彼らによって持ち帰られたゼミナール方式とゼミナール型実験室は、世界中へと広がっていった。
     研究する大学が、学問研究の主役となる時代はこうしてやってきた。
     
     
    (1)フランス / エコール・プラティーク・デ・オートゼチュード

     フランスではすでに、フランス革命とナポレオンの下、高等教育機関は大きな変革を被っていた。ナポレオンによって、かつての地方大学は再編され、大学とは別に新設されたエコール・ポリテクニクに科学教育は制度化されたが、これは少数のエリートを対象とした機関にとどまり、やがてドイツの研究大学で〈量産〉される科学研究者の攻勢に後塵を拝するになった。
     第二の科学革命の主役は、これを先導したフランスから、1830年代以降ドイツへ移ることになる。1868年には、実験講座を重視すると同時にドイツのゼミナール形式を採用するエコール・プラティーク・デ・オートゼチュードが創設されることになる。


    (2)アメリカ / ジョンズ・ホプキンズ大学

     クェーカー教徒の実業家,銀行家 J.ホプキンズの寄付により,ジョンズ・ホプキンズ病院とともに設立されたジョンズ・ホプキンズ大学は、初代総長ダニエル・コイト・ギルマンのもと、1876年創設される。
      ギルマン、帰国後長年に渡りエール大学、カリフォルニア大学学長を経験していた。ドイツの研究大学をモデルとした、アメリカで初めて科学研究を中心とする大学院レベルの課程を置く。
      ギルマンは自身、1854~55年にベルリンに留学し、ヨーロッパとくにドイツ型の学術研究を中心とする大学の創造を目ざした。当時高いレベルにあるとは言えなかったアメリカの大学に、初めて科学研究を中心とする大学院レベルの課程を置き、 大学の基本方針を教育,研究,研究者養成の3点とし,ドイツ留学の経験をもつ新進気鋭の学者を集めた。
      研究大学としての ジョンズ・ホプキンズ大学の成功は、その後のアメリカの大学院教育形成のモデルとなり、当時のハーバード、コロンビア、イェールなどの大学院教育に大きな影響を与えることになる。
      これにより、従来学部教育を中心としたアメリカの大学教育の重心を大学院教育へ移し、一般教育から専門教育へと移行させることに大きな影響を与えた。


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