1.邦語文献に対する参考調査便覧

    片山喜八郎 ・ 太田映子共編『邦語文献を対象とする 参考調査便覧(CD-ROM版)

     もしも自分の関心や知的好奇心や情報ニーズを(広い意味での)文献リストに変換することができるなら,その人はすでに独学者だといってよい。
     たとえば独力では理解できない部分に突き当たったときでさえも,その困難を「(理解するためには)何を読めばいいか?」に変換し,答えることできるからだ。
     だが,このことは思った以上に難しい。
     とくに未知の分野に挑むときなどは,情報ニーズの方はもぐらたたき的に発生するのに,その分野に不案内なために「何を読めばいいか?」という問いに答えることも,「『何を読めばいいか』を知るために何を読めばいいか?」という問いに答えることも(以下くりかえし)難しい。
     たとえれば,道に迷った上に地図の見方も分からないような状態だ。
     
     書誌は,うまくすれば,こうした状態の人を助ける。
     誇張して言えば,「何を読めばいいか」を知ることができるツールは,人をたちどころにして〈独学者〉に変えるマジック・ワンドである。
     〈独学者〉は,大したことを知っているわけではないが,「自分が何をどうすれば知ることに少しでも近づけるだろうか?」という問いには,なんとか自分の力で答えることができる。
     
     書物も知識も,スタンドアローンでは存在できない。
     それぞれの書物は(そして知識は),他の書物(知識)と関連し合い,前提にしたりされたり,参照したりされたりして結びついている。
     必ずしも参照関係は明示されている訳ではないが,そのうちのどれかにたどり着ければ,か細いかもしれないつながり合いを,芋づる式にたどりながら,出会うべき文献や知識にたどりつけるだろう。
     もちろんあなたが必要とする文献は未だ存在していないかもしれない。
     いくばくかの探索と彷徨の末に,そのことを確信したなら,まだ誰も知らない,少なくとも書き残していない,知識をいよいよあなたが書き残す番である。

     『参考調査便覧』の特徴は、個々の資料の解題は省いて資料の種類を番号表示するだけですませるかわりに、小項目主義を徹底して数を載せようというもので、固有名詞や個人名でダイレクトに引けるようにしてあるところである。
     たとえば「英文学」ではなく「フィッツジェラルド」、「漫画」ではなく「ドラえもん」で引く。これは普通の人が調べ物をするとき事典で引くレベルのキーワードだと言える(事典で「英文学」や「漫画」を引くのは辞書オタクだけだろう)。
     こうした下位レベルまで降りていくと,1冊まるごと参考文献リストになっているものはあまりないので、固有名詞引きに対応するために、論文の末尾に付録でついているような細かい文献リストを拾ってあるので(このレベルまでいくとOPACなどのカタログを見ただけでは目的のものを含んでいるのか分からないので、『参考調査便覧』が威力を発揮する)、以下のようなものまで出てくる。

    フィッツジェラルド(作家)
    【1・4】日本における受容 戦前・戦後、フィッツ・ジェラルド図書館、年譜→「ユリイカ」20(14) 青土社1988
    【2】日本におけるスコット・フィゥツジェラルド文献目録1930-79 永岡定夫→「昭和大学教養部紀要」10(1979)・同追録版1・2→「山梨大学教育学部研究報告 第1分冊 人文社会学系」34(1983)・39(1989) ◆日本におけるFrancis Scott Key Fitzgerald研究書誌→神奈川県立外語短期大学図書館1984 ◆日本におけるフィゥツジェラルド文献目録 永岡定夫(WWW.生成する目録)
    【3・4】スコット・フィッツジェラルド 星野裕子 メディファクトリー1992 ◆フィッツジェラルド 森川展男 丸善1995
    【4】ザ・スコット・フイッツジェラルド・ブック 村上春樹 中公文庫1991 ◆グレート・ギャッツピー 小川高義訳 光文社2009 

    726 ドラえもん
    【3】ドラえもんの「育て(コーチング)力」 横山泰行 イースト・プレス2005 ◆人生で必要なことは、すべて「ドラえもん」が教えてくれた。横山泰行 イースト・プレス2009
    【7】ドラえもん研究完全事典 世田谷ドラえもん研究会 データハウス2005

    368 泥棒
    【3】泥棒渡世今昔 中山威男 立花書房1991 ◆平成のドロボー撃退マニュアル 奥田博昭 楽書房2001 ◆大泥棒 「忍びの弥三郎日記」に賊たちの技と人生を読む 清永賢二 東洋経済新報社2011
    【4】昭和ドロボー世相史 奥田博昭 社会思想社1991

    ※CD-ROM版は、残念ながらWindowsでしか動かない。現在はこれだけのデータをテキストファイルで提供してくれていて、あらゆるコンピュータ、携帯端末で利用可能である。



    2.図書館に訊け


    図書館に訊け! (ちくま新書)図書館に訊け! (ちくま新書)
    (2004/08/06)
    井上 真琴

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     図書館の《大きさ》は、利用者の知識に応じて伸び縮みする。
     一冊の本を求める人にとっては、図書館は、旧共産圏の肉屋の品揃えにも及ばない最低の本屋以下に成り下がる。100人待ちのベストセラーを例にすれば、一人2週間の貸出期間を合計して、たっぷり2年先でないとその本を手に取ることができない。
     
     知識や書物がそうであるように,図書館もまたスタンドアローンでは存立することができないことを理解するなら,図書館はこの世界に存在するあらゆる書物へのアクセスを可能とするゲートウェイとなる。
     インターネットが普通の人にもたらしたフリー・アクセスの可能性は,実際は至るところで,コピーライト・プロテクションの障壁によって限界付けられる。〈誰でも〉〈何でも〉〈どこででも〉のいずれかを我々はその都度断念しかないのだが(例えば〈料金を支払った人だけが見ることができるコンテンツ〉),図書館は〈どこででも〉の断念と引換えに/図書館の中でなら,〈誰にでも〉〈何にでも〉(有料コンテンツでも)アクセスを可能とする。

     紹介記事に追随するのでなく、自分の目的のために本を探すようになったら、図書館と付き合わなくてはならない。
     図書館の怖いところは、「図書館なんてこの程度だろう」と高をくくっていると、いつまで経ってもそれに見合ったレベルでしか図書館を使えないところだ。

     だが方法はある。読むべき本もある。

     研究図書館の意義と意味,資料にたどりつくための戦略と発想,およびそのために図書館をいかに使うかの具体的なノウハウから有益だが自分では気付きにくいツール群に至るまで,〈図書館のトリセツ〉としては,現役の大学図書館司書が書いたこの書が群を抜いている。
     特に大学図書館を使えるようになったら(つまり大学入学試験に合格したら),最初に読むことをお勧めする。その後の4年間がまったく違ったものになるだろう。



    3.本を読む本


    本を読む本 (講談社学術文庫)本を読む本 (講談社学術文庫)
    (1997/10/09)
    J・モーティマー・アドラー、V・チャールズ・ドーレン 他

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     基本的なことを書いてある古い本で,取り上げられているテクニックはあちこちで(それこそSQ3Rからフォトリーディングまで)見かけるが,未だに類書がない。
     というのも,ほかの読書法ものがhow to read(どのように読むべきか)を扱うにしろ what to read(何を読むべきか)を扱うにしろ「一冊の本」に相変わらず縛られているのに対して,この本が目指すところは,あるトピック(主題)について複数の本を読み合わせることにあるからである。

     著者のアドラーは,知性の涵養はただ「自由教育」、すなわち、プラトン、アリストテレス、トマス・アクィナスなどの著作を中心とする「偉大なる書物」Great Booksの講読と自由学芸(リベラルアーツ)の訓練によってのみ達成されるとするバリバリのperennialist(永遠主義者;アメリカでデューイらの進歩主義教育を批判した伝統主義教育の一派)のひとりだが,名著古典のくそ長いリストを作って未読者を恫喝するかわりに,ユーザーがいま考えている様々なトピックについて,独力で名著古典を横断し自在に活用できる主題索引(シントピコン)を作った。
     トピック(主題)について複数の本を読み合わせるシントピカル・リーディングができることを,アドラーは大学卒業(学士号取得)の要件にしてはどうかと提案している。これは何か書くために本を読む場合には必要となるリテラシーであるから,たとえばレポートや卒論を書く場合に当然前提とされているスキルである。
     もう少し強い言い方をすれば,シントピカル・リーディングができないうちは〈本を読んでいる〉とは言えない。シントピカル・リーディングは決して上級者の読書法ではなく,読むことのはじまりである。
     
     なんとなれば,繰り返しになるが,書物は(知識がそうであるように)スタンドアローンでは存立し得ないからだ。
     著者であれば,また出版社であれば,著作権の格子越しに,一冊の浮沈を思い一喜一憂することも正当化されよう。
     けれどもあなたが読者であれば,書物の連なりのネットワークを前にしたとき,what to read(何を読むべきか)は,どこからどこまでが〈一冊の本〉として画されているかに制約されるべきではない。
     なんらかの意図やテーマを抱いて読み始めるなら,〈一冊の本〉で間に合うのはむしろ奇跡に近い。
     
     完全な書物は存在しない、どんなささやかな必要においても。
     
     だからこそ,人は読むのを止めることなく,次の本を手に取る。
     読むとは,完全な書物に身をゆだねるという甘美な夢を断念しつつ,不完全な自分の才覚と責任において,不完全な書物たちを結び合わせ突き合わせ読み合わせていくことなのだ。
     
     シントピカル・リーディングは古典名著を前にしたときばかりでなく,ろくな/ろくに文献がない(非常によくある,むしろ常態ですらある)事態に臨む時にも/そんな時にこそ威力を発揮する。
     そこで結び合わせ突き合わせなければならないのは,紙やテキストデータになっていないもの/狭い意味での文献の域を越えるものをも含むだろう。
     
     すでに言ったことだが,シントピカル・リーディングに踏み込む一番の近道は,書くことである。
     知識の(そして書物の)網の目に,自分も参戦すること。
     〈書かないと読めるようにならない〉という古い箴言は,多分,この書を手にするためにある。
     
     

    4.証明の読み方・考え方


    証明の読み方・考え方―数学的思考過程への手引証明の読み方・考え方―数学的思考過程への手引
    (1985/05)
    ダニエル・ソロー

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     証明proofは,言い換えると,公理論的な理論の構成は,人間がアイデアを伝えるのに用いることができる最も強力な手法である。
     数学という言語を主たる記述手段として書かれた書物は,証明のことばで書かれている。
     ここからが本題だが,証明は読み手に必ずしもやさしいものではない。
     もっとはっきり言えば,多くの人は証明を追いかけることが好きでなく,できれば避けて通りたいと思っており,かなりの場合,実際に避ける。このことは数学者や数学教育者も認めるところである。
     数学で書かれた書物に挫折する者は,証明のところで挫折する。
     数理科学と総称される分野を学ぶ者すら頻繁に証明を読み飛ばし,教える者さえも(学習者たちに合わせて?)証明を出題することを避けたりする。
     
     しかし学ぶ者を意気消沈させるのは,このリストの本意ではない。
     言い方を逆さにして,希望が出る言い回しを使おう。
     証明が読めれば,数学で書かれた書物を読むことができる。独習することだって可能になる。
     
     この書物は,数学の証明で何がどれだけ省略されて,追いかけるのが難しくなるのかを説明する。
     そして自分で証明を書けるようになることが,証明を読む力を身につける,遠回りのようだが最短の道であることが示される。
     というのも,数学の証明は,ロードマップのようなものではなく,むしろ〈しおり〉のようなもの(書物のページにはさむ栞ではなく,語源となった枝折りの方=山歩きする者が,どちらに進んだのかを,枝を折って目印にするもの)であるからである。実際に歩いてみないと(また実際に歩ける人でないと),〈枝折り〉を見て道筋を再現することは難しい。
     
     慣れない人が数学の証明を読み解くことは,ルールを一部隠されたゲームをやることのように難しい。
     そこでこの書は,数学の証明で使われる手法と証明を組み立てるときの数学者の考え方を分類し,それぞれがどんな場合に使うことができるか,使うべきであるかを解説していく。
     いわば証明の構文を示し,最終的には読者が自分で証明を書くことができるよう手助けする。
     そして返す刀で証明の構文把握から,証明の読解力を養成しようとする。
     初学者にとってとりわけ重要なのは,証明が実際に書かれる際には,登り終えた後のはしごの様に取り外されてしまう,省略されてしまう部分である。
     forward-backward method(前進後退法)と名づけられた章が,背理法や帰納法より前に登場する。
     完成された証明は,与えられた条件から証明すべき命題へと進む方向(forward前進)で記述されるが,証明しようとする者のアタマの中では,証明すべき命題から条件の方へ向かって言わば〈迎えにいく〉(backward後退)プロセスが存在する。
     この後ろ向きのプロセスがあればこそ,条件から進むにつれて検討すべき試行錯誤を爆発的に増やす〈枝分かれ〉を刈り込み,効率的に証明の道筋を探すことができるのである。
     しかし失敗した試行錯誤とともに,この〈迎えにいく〉プロセスは,完成された証明からは通常取り除かれる。
     時に「確かにこれで証明になっているけど,自分じゃこんなやり方思いつかない」と絶望的にさせる(天下り的だと悪態つかれる)証明のバックステージでせっせと働いているのが,〈迎えにいく〉プロセスである。
     多くの数学者の頭の中では無意識/無自覚に行われる当たり前の探索プロセスであるが,これを意識することで,数学の証明はふたたび人間の領域に戻ってくる。

     もちろんこの書の射程はここにとどまらない。
     与えられた問題について証明作文ができるようになれば,次に証明自由作文のステージが待っている。
     すなわち,自身の数学的発見を自ら証明することである。



    5.マインドストーム


    マインドストーム―子供、コンピューター、そして強力なアイデアマインドストーム―子供、コンピューター、そして強力なアイデア
    (1995/03)
    シーモア パパート

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     学校で習う数学は,大半の人がそこに行き着く前にリタイアするので良く分からないのだが,おおむね微分方程式が扱えるようになるためのスモールステップである。
     
     しかし大半の人が行き着かないのは大いに問題である,とパパートは考えた。
     そこで,微分積分を知らなくても,方程式が解けなくても,文字式が扱えなくても,足し算や引き算が苦手でも,長い長い数学のトレーニングを積まなくても,微分方程式を学ぶことができる仕掛けを,否,〈世界〉を構想し、実装にこぎつけた。
     それも従来のやり方よりずっと〈身にしみる〉やり方で,である。
     
     「数学者として私は科学の歴史における最も強力な概念は微分解析であると考える。ニュートン以来、局所的なものと全域的なものの関係ということが数学の研究事項を支配することになった。だかこれに到達する方法が正規の数学の修得という下部構造に頼ることから、この概念は子供の世界に占める場所がなかった。大抵の人は、最も進んだ数学の概念が子供に理解できないことくらい当然のことはないと考える。ピアジェから取り入れた展望に立って、私はこの関連を見出すことができるに違いないと考えた。そこで探索に取りかかった。だが、関連を見出すことということは、単に新しい器用な「意欲を持たせる」教育学を考え出すことではない。これは、微分という概念の中の最も強力なものを近寄りがたい形式主義という偶然事から分離することを含む研究事項を意味した。」
    (『マインドストーム』p.186~187)

     「タートルのプログラムは、伝統的な応用数学の殆どすべての例に見られる微分方程式という概念の直感的な類似物なのだ」(『マインドストーム』p.81~82)
     
     それがLOGOであり,タートルである。
     LOGOというプログラミング言語で,指示に従い図形を描くタートル(亀)を,コンピュータのディスプレイ上にだけでなく,パパートたちは実世界にも構築した。それも子供が乗れるくらいの大きさで,である。
     なんとなれば,タートルに乗ることは,微分方程式の解曲線を体感することだからである。 
     
     パパートは,自身ではピアジェの最もラディカルな弟子であると考えている。
     事実パパートの,いたずら心に満ちた思考は,その後,学習科学という分野に登場する多くのトピックを先取りしている。



    6.外国語上達法

     
    外国語上達法 (岩波新書 黄版 329)外国語上達法 (岩波新書 黄版 329)
    (1986/01/20)
    千野 栄一

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     いわゆる臨界期(critical period)を過ぎてからの外国語学習は,〈自然〉にまかせる訳にいかないから,人工的な工夫をあれこれすることになる。
     そしてそうした工夫が,各人のその後の〈勉強の仕方〉のベースになることが少なくない。

     自然に学べたはずの言語をもはや自然には学べないという挫折,一種の〈故郷喪失〉を契機に,人は自覚的学習者としてデビューする(あるいは学ぶことから遁走する)。
     言い換えれば,時に不自然な努力(いや不自然でないような努力があるだろうか)を伴わざるを得ない〈学ぶ〉という営為と,折り合いをつけるための試行錯誤を開始する。
     
     
     世にかくも多くの〈外国語の学び方〉が跳梁するのは,人々が外国語の習得を切に必要としているからではなく,むしろ「勉強の仕方が分からない」と感じているからではないかと疑う気にさせる。
     
     聞き流すだけで英語が話せるようになる教材は(そしてその広告に登場するプロゴルファーやオーソン・ウェルズは),英語学習の手段でも機会でもなく,「世界にはまだあまり知られていない,努力する人々を出し抜けるような秘訣が存在していて,自分はそれを手にする好機を得た,能力は平凡でも実は選ばれた存在である」というファンタジーを提供しているのである。ハイホー。
      
     語学オンチを自認する言語学者は,常に自分の斜め上を飛び交う自分の師や学友のエピソードを紹介しながら,そういった秘訣という穴を丁寧にふさいでいく。
     残るのは,実にあたりまえでしかない学ぶことの作法とそれ相応に必要なコストである。
     だが一方で,この書は,外国語を学ぼうとする人たちが,その生真面目さからついついやってしまう〈やらなくてよいこと〉や,ついつい目指してしまう〈届かなくてかまわない高み〉についてもつまびらかにする。
     無限の努力を要することが,いかに人を意気消沈させるかを知り抜く著者は,四の五言わずとりあえず1000個単語を覚えよ,というが,覚えたらお祝いしようと付け加えるのも忘れない。



    7.人はいかに学ぶか


    人はいかに学ぶか―日常的認知の世界 (中公新書)人はいかに学ぶか―日常的認知の世界 (中公新書)
    (1989/01)
    稲垣 佳世子、波多野 誼余夫 他

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     学ぶことは,もっぱら個人の内側のことであるといった考えは今でも根強い。もっとひどいのになると,学ぶことはもっぱら脳の仕事であるとでも言いたげなものまである。
     学ぶことについての理解は,認知科学のうちでも状況論的転回の影響を被った度合いが大きい分野である。
     熟練者エキスパートになることは,単にその行動が変わり知識が増加し深まることだけによるのではない。その者を熟練者として位置づける社会関係の変化をも伴う。師匠と弟子という徒弟制があり,さらに,それはその芸能の専門家集団,その芸の鑑賞集団などのコミュニティの中に含み込まれている。そうした実践のコミュニティは価値を創造し,更新していく。〈新人〉として扱われていた人も,新しい新参者が参加することによって,古参者への仲間入りをする。周りの人たちの扱いも変わり,その人の自己のアイデンティティも変わっていく。人が熟練者になるということは個人的な変化ではなく,その人を含むコミュニティ全体の変化と見なすことができる。
     学習は実践のコミュニティ内で起こる社会的な活動なのであり,その参加者の行動の変化や認知的な変化はその一部を取り上げたものにすぎない。学習とは,学習者によるリソース(資源)の再編であり,学習は,誰かによって教育・教導されることを必ずしも必要としない,それらとは独立した活動として捉えられる。ここにおいては,独学もまた,self-taught(自分によって教えられる)もの以上の深さと広がりを持って捉えなおされるだろう。
     こうした観点に立つ学習観は,1980年代以降に本格化した仕事場や家庭など日常的な場における人間の有能さの研究や,認知活動を他人や道具といった外界の支えとの相互作用として捉える研究,協調作業として発揮される集合的知についての知見を背景とし,従来知識の伝達の場として捉えられて来た教授場面を協調的な問題解決の場としてデザインしなおしたり,様々な分野での協調作業の支援に応用されるなど実利的な意義も有している。
     これらの,決して新しくないが,十分に知られているとは言えない認知科学の知見を,身近な例やマイルストーンとなった研究を交えてやさしく解き語るこの書は,今もこの分野の必読書のひとつである。
     


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