少女:先生、こんにちは
    司書:こんにちは。今日はお一人ですか?
    少女:彼、また調べもので徹夜したらしくて、風邪をこじらせてるみたいで。
    司書:やれやれ、困った人です。
    少女:先生、今の男の人は?
    司書:この図書館の常連で、私の知る限り最も多くここに通った方です。街を離れることにしたそうで、お別れを言いに来られたのです。彼にも会いたかったと言っておられたのですが。
    少女:あの、お聞きしていいのか分かりませんけど、どういう人なんですか?
    司書:図書館の近くで鉄工所を営まれている方です。働きはじめた頃から、時間を見つけてほぼ毎日図書館に来られました。……彼に渡すようにと託されたものですが、あなたになら見せても差し支えないでしょう。
    少女:B6判ですね。京大式カードっていったかしら。
    司書:ええ。内容もご覧になってください。
    少女:何かのメモ……ですね。隅の数字は今日の日付です。それから、これページ数なのかな?H55-…?
    司書:「H55」というのは平凡社1955年の略記です。林達夫が編集した世界大百科事典の最初の版を示します。続く数字は巻数とページ数です。
    少女:百科事典のメモですか?
    司書:あの方は、その日百科事典で調べた事項を3枚のカードにまとめることを日課にしておられました。今日までで4万枚を越えたそうです。
    少女:あ、赤毛組合?
    司書:アルファベット順または五十音順に写していかれたのなら、そう呼ぶことも間違いではないかもしれませんね。
    少女:ただ写したものじゃないですね。すごく簡潔にまとめてある。
    司書:こちらもどうぞ。
    少女:1962.05.03……。50年前! こっちは一字一句丁寧に写してあるって感じですね。短いし、国語辞典か小事典かな?
    司書:カードへまとめることをはじめた最初の年のものだそうです。当時は何度も書き直したので、本当の最初の1枚はどれか分からないとのことですが。
    少女:彼とはどういう……あ、もしかして、百科事典つながり?
    司書:一時期は、事典を取り合っておられました。
    少女:何十年続けてこられたこと邪魔してたんですか?
    司書:彼は一時、ここの百科事典を壊すほど引いていましたから、多少は影響があったかもしれません。いえ、ご心配されるようなことは何も。毎日、事典と首っ引きの少年を、あの方は好ましく思っていたようです。彼に事典の引き方を教えたのは、あの方なのです。
    少女:そうなんですか。
    司書:あの方はこの図書館の主のような人でしたが、立ち寄られる時間は長くはありませんでした。よほどの常連でないと、挨拶を交わした人もいません。仕事では何人もの後進を育て、海外にも技術指導に行かれた方ですが、当時小学生だった彼は、図書館で望外に得られた弟子のような存在だったのかもしれませんね。
    少女:……もう来られないんですか?
    司書:ええ。第二の人生を海を渡った先で始められるそうです。何もかも始まったばかりの国で、自分のような古い人間が役に立つとしたら、あと数年間ぐらいだろうから、今行きたいんだと、おっしゃってました。


    ◯   ◯   ◯


    少年:ああ、このカード。前に一度見せてもらったことがあるよ。T49は玉川大学出版部1949年の略号、玉川学園編集の『玉川学習大辞典』、第二次大戦後ほどなくして出版された子ども向けの百科事典だよ。まだ図書館に来てまだしで、事典を読むにも辞書が必要だった頃で、分からないことがある度にこの辞典に助けられたらしいよ。それでも同じ項目を何度も引かなきゃならなくて、だからカードに書き写すことを始めたんだって。

    少年:話したことはほとんどない。カードにまとめてるのを見るのは構わないって、最初はそんな感じだった。そのうち、ぼくもカードを書くのを真似するようになった。書いたばかりのカードを見せてもらえるようになったのは、随分経った後だ。時間が無いこともあっただろうし、元々あまり話をするタイプじゃなかったのかもしれない。図書館に居るのも、長くても一時間になることはなかったな。10分だけって日も結構あった。

    少年:これは、キリル文字をどうやって覚えたらいいか考えてるって言った次の日に持ってきてくれたカードだ。Юрий Алексеевич Гагарин ユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリン、Пётр Ильич Чайковский ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー、Лев Николаевич Толстой レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ……ロシアの有名な人の名前ばかり抜き書きしてある。名前だと、発音と意味を別々に覚える必要がないから、最初文字になれるには良いってことなんだと思う。うん、だいたいこんな感じだった。尋ねても直接返事をしてくれることはなくて。ヒントもこうしてカードになって出てくるんだ。

    少年:何のせいだったか思い出せないけど、ちょっとした揉め事があって、学校さぼって朝から図書館に行った日がだったと思う。多分ひどい顔をして事典を引いてたんだと思う。その日は午前中にあの人はやって来て、いつのまにか近くに座っていつもどおりカードを作っていたらしかった。
     顔を上げた時ちょうど目があった。
     数秒考えているような間があって、財布の中から何か大事そうにしまってあるものを取り出して、広げてそれを見せてくれた。
     最初、お守りかなにかだと思った。それはいつも使っているB6版のカードで、細かい文字で人の名前がいっぱい書いてあった。
     トーマス・エジソン、ジョージ・ブール、コンスタンチン・ツィオルコフスキー、ジョージ・グリーン、アラン・マクダイアミッド、ジョン・メイナード=スミス、エリック・ホッファー……。

     うん、みんな図書館で独学した人たちの名前だった。

     それからカードを自分の前に戻して、いつものペンでその余白に何か書き加えて、また見せてくれた。ぼくの名前だった。ウィリアム・カムクワンバのとなりだ。それからカードをたたんで財布へしまい、作りかけのカードをまとめる作業に戻ったんだ。




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