現代倫理学入門 (講談社学術文庫)現代倫理学入門 (講談社学術文庫)
    (1997/02)
    加藤 尚武

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     加藤尚武がいうような、存在論になった倫理学というのはさ、要するに「世の中こうなってるんだから、こう生きろ」ってことでしょ。
     このおっさん、結局功利主義しかないじゃないか自由主義バンザイなんだけど、功利主義(最大多数の最大幸福みたいなやつね)がいかがわしいのは、効用(幸福)が計算できないからじゃなくて、逆にいかようにも計算できるからじゃないか。『経済倫理学』(中公新書)の痴呆経済学者もそうでさ、どんな前提もないと言い張って、理性の法廷より言論の市場原理だとかいってさ、いきなり「計算」はじめる訳だけど、その値札つけがもう思いっきり都合いい。価値の恣意性を「価値中立」にすり替えて、おもいっきり「都合のいい前提」から「都合のいい答え」出してるだけだ。
     世の中の「問題」、これはいつだって誰かの都合によって選定(あるいはねつ造)されたものだけど、その都合にそった「価値判断」を提供するのが、こいつらのいう「倫理学」でさ、そりゃどっかからお金がっぽりもらえるけど、その時の言い草が「計算したら、いろいろ問題はあるけど、とにかくこれが一番ましなんだから(世の中今のところそうなってるんだから)、これがベターなんだ(ベストなんてないんだ)、だから逆らうな」、短くまとめると「世の中こうなってるんだから、こう生きろ」ってなものだもの。こんなの倫理でもなんでもないじゃない。こんなのにはちゃんと、昔から短い名前があってさ、「支配者のイデオロギー」とかいうんだよ(笑)。
     だいたい倫理は、「問題」に対して「答え」を出すようなものじゃないよ(「品行方正」や自己抑制や、理性的=合理的に生きる仕方なんかじゃもちろんない)。「悪口」としてはこれで十分だから、これで止めるけどさ(笑)。



    (ライナーノーツとして)

     自己決定を中心に置く生命倫理の主流派は、「自分の身体は「自分のもの」だから、自分の好きにしていい(だから、その人がokすれば、売春も臓器売買も自殺も許される)」という。その自由には愚行権(自分のためにならないことでもする権利)が含まれる。自分のものである以上、自分の身体をどのように扱おうが自由である。
    この自己所有論のロジックは、(哲学者の)ロックの主唱するところであるが、元々は「なぜ自分のつくったもの(労働の成果)は、自分のものになるのか」に対する答えである。労働は、自分が自然に働きかけることだから、その成果は自分に属すると考える。
    実は、この考えを愚直に自己決定論に適用すると、「自分の身体」は自分がつくったものではないので、「自分のもの」ではないことになる。当然、どのようにも自分の好きにしていい、という論拠にならなくなる。

    話は大きく迂回する。
    人間が,小さなコミュニティ内で一生を終えていたような時代(人類史のほとんどがそうだった)には、コミュニティの中や近くにある岩やらトーテムを、コミュニティのみんなで拝んでおけば、自然と一体感がうまれてうまくいった(これが原始的な宗教のかたちだった)。
    ところが、多くの人間が互いに大きく移動し合い、一人の人間がいくつもの集団に所属したり、見も知らぬ人の集まりがあちこちにできたりする時代となると、「同じモノを拝む奴が仲間だ」という基本ルールがうまく働かなくなった。
    もっとも社会は急に変わった訳ではないので、宗教の中には、地場的な/ローカルな部分を脱ぎ捨てて、もっと抽象的なものを(たとえば神様とか)を拝むことにすれば、異なるコミュニティに属するもの同士でも仲間だと確認できる、宗教が見知らぬ人々同士の紐帯となり得ることを証明してみせた(これがいわゆる世界宗教)。もっとも世界宗教はひとつではなかった。より大勢の集団を動員できる世界宗教は、より大きな人間集団同士のいさかいの元にもなった。
    (世界宗教の多くが中東に生まれたのは、かつて緑豊かで大量の人口を抱えることのできたこの地の自然が急変し、砂漠に変わっていったことに関係がある、とする気象歴史学に基づく説がある。小集団が拝んでいたものはどんどんと消え失せ、やがて死体につくハエさえも拝む対象にするほど(第一次ユダヤ王朝が偶像を祀り、それらに犠牲を捧げていたバール・ゼブブ=やがて悪魔とされたベルゼブブ)、信仰のオブジェを欠きだしたこの地では、地上の何者にも頼らず拝む対象を作り上げる宗教が生まれ、これらは地域に縛られず,コミュニティを越えて広がる可能性を内蔵していた。これら世界宗教が何度も偶像崇拝を禁じるのも、繰り返し復活するローカリティを脱ぎ捨てるためであった)。

    しかるに、異なる世界宗教を抱く人々が、当たり前のように互いに大きく移動し合い、見も知らぬ人の集まりがあちこちにできたりする時代となると、もはや世界宗教も、共通の信仰の対象足り得なくなった。国もコトバも信仰も異なる任意の二人が頻繁に出会う近代社会で、では何が「共通項」として残ったか。
    「互いに人間であること」だと、デュルケムは言う。
    デュルケムが指摘する「個人崇拝」は、ある特定の人物を英雄視したり崇拝したりすることではまったくない。逆に、どのような人間であっても「個人」として尊重するという姿勢が、「最後の宗教」として残り得るというのだ。そこでの宗教儀礼は、個人尊重の様々な儀礼であり、それら儀礼が生み出す「最後の聖なるもの」が「個人」である。それは相手の属性や能力についての尊重ではない(そんなものは、各自に異なっているのであるから、共通して拝むものになり得ない)。ただ相手も私も「ヒト」である、ということが「最後の聖なるもの」である。
    この個人尊重という「宗教」は、見知らぬひとが当たり前に出会う近代社会のバックボーンになっている、とデュルケムはいう。たとえば見知らぬ人は、すれ違う時、互いに意識することなく無視し合う。このエチケットは、個人尊重の儀礼である。この暗黙のルールをあえて破ってみれば、相手も私も、どれほど気まずい思いをし傷つけられるか不快に思うかを、体験できる。いったい見知らぬ者同士がひしめき合うストレスフルな満員電車の中で、何故激高し合い殴り合う人が驚くほど少ないのか。誰もが意図的に視線を合わせないという行為(儀礼)によって守っているものは何なのか。

    話を戻して、なぜ売春も臓器売買も自殺も許されない、と感じる人がかくも(?)多いのか。この反発感情は、売春や臓器売買や自殺なんかが、なにものかの冒涜であるところから来ている。すなわち個人尊重という宗教、個人という聖なるものへの冒涜である。個人という聖なるものを壊すことは、当の当人によっても許されるものではない、と個人尊重の「宗教」感情は示す。個人の身体は、ここでは、当人が好きに処分できる物体なのではなく、そうしたモノから聖別された何ものかなのである。

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