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     史上最高の司書は誰か?

     この問いは「歴史上実在した」という意味を含んでいる。

     自分の図書館にある本をすべて読んでいる司書は、今ではフィクションの中にしか存在しない

    ※ フィクションには、『鋼の錬金術師』のシェスカ、『神のみぞ知るセカイ』の汐宮栞、『少女海賊ユーリ』のボルド、『武蔵伝II ブレイドマスター』のリコッタ、『冬のロンド』のダイアナ・ルミアウラ、京都大学附属図書館マスコットキャラクターのクラちゃん、インちゃん……と、このリストはいくらでも続けることができるだろう。


     
     図書館はもはや個人の手に負えないものになってしまった。
     あるいはこうも言える。
     人類はすでに/とうの昔に、個人が読むことができる以上の書物を生み出すようになってしまった。
     
     しかし書物の数が爆発的に増えたのは、人類の歴史の中で見れば、それほど古いことではない。
     現在、世界最大の蔵書を誇るアメリカ合衆国の議会図書館も、19世紀はじめに開設した当時には、たった1000冊の書物しか所蔵していなかった。1810年に大英博物館が蔵していたのもわずか2000冊だった。
     この時代の司書なら、自分の図書館の本をすべて読んでいたかもしれない。
     
     では、この古き良き時代に属するだろう、最後の一人について話そう。
     
     ほとんど伝説の域にあるエピソードを信じるならば、彼は大英博物館が蔵するすべての書物を知っていた。
     そればかりか、どのページに何が載っているのかに至るまでも熟知していた。
     歴代の教皇やダービー馬の名前はもちろんのこと、何年も前に地方のマイナー雑誌に載った論文や、珍種のキノコの学名も、自分の記憶だけを頼りに、出典のページ数つきで答えることができた。
     
     そればかりか、当時の司書に欠けることが多かった資質をも持ち合わせていた。
     つまり、彼は親切だった。
     しかも詩文をよくする粋人でもあった。
     
     あらゆる資料要求に応えようとする奉仕者の魂と、それを可能とする驚愕の知識量。
     
     
     この時代、大英博物館の円形閲覧室を利用した人たちが、彼への賛辞を書き残している。
     そのうちの一人、30年以上の間、あの円形閲覧室のヘビーユーザーだったカール・マルクスは、かの司書に自分の家族の写真を贈っている。打ち解けない性格のマルクスとしては、これで最大限の謝意の表したつもりだった。
     
     友人を頼って資料を探すためにロンドンにやってきたステファヌ・マラルメは、当の友人が借金を逃れて旅立った後ですれ違いとなって途方に暮れていたところ、円形閲覧室で助けられた次第を、かの司書の名をあげて書き残している。この時の大英博物館の閲覧記録にマラルメの名は無く、おそらくは司書の計らいで必要な資料を見ることができた。
     
     イギリス聖公会の主教(ビジョップ)となった歴史家マンデル・クライトンは、彼をこう呼んだ。
     the ideal librarian、理想の司書と。
     


     19世紀は書物 printed bookが、そして図書館の蔵書が爆発的に増えていった時代だった。 
     この物語の舞台である大英博物館図書館についていえば、それはナポレオンとの戦争に勝利した後の1810年代にはじまった。
     
     1759年、すでに国有になっていたR.コットン卿の写本類ならびに新たに寄贈された H.スローン卿の美術品と図書を中心に、これらに王室の下賜品を加え,ブルームズベリーのモンタギュー侯邸に、大英博物館は開館した。
     ナポレオン戦争後、アレクサンドリア条約の結果として、ナポレオンの兵士が発見したロゼッタ・ストーンをはじめとする多くのエジプト彫刻が、それからパルテノンからは彫刻群(エルギン・マーブルズ)が、この博物館に運び込まれた。
     蔵書も1825年には23000冊を越えた。1828年にはジョージ3世文庫8万冊が寄贈され、1831年には3万冊のフランス革命関係コレクションが加わった。
     この年、イタリアのモデナ公国出身のアントニオ・パニッツィという男が大英博物館図書館に加わった。
     フランス革命の熱を帯びた思想を抱いて秘密組織に参加し逮捕されたが、どうにか国を離れ、亡命同然でイギリスにまで落ちのびてきたこの男には、本人不在のまま祖国の法廷は死刑の判決を下していた。ロンドンで細々と語学教師で食いつないでいたイタリア人にとって、博物館図書館はようやく手にした定職だった。
     やがてパニッツィは、件のフランス革命関係コレクションの目録作成で頭角を現す。
     驚くべき速さでそれを完成させ、理事会の注目を集めたパニッツィは、博物館の理事たちを前にこうぶちあげた。……まったく、この図書館がつくってきた目録ときたら間違いだらけだ。ここにはまともに目録を作れる人間すらいないのか。
     上司や同僚たちは激高した。しかし、これがこの男のやり方だった。
     1835年、怠業を理由に博物館図書館を解雇された司書たちが、一部の議員のところに泣きつき、議会で大英博物館図書館の管理問題が取り上げられた。
     パニッツィも証人として議会に呼び寄せられた。発言を求められ、今度はこうぶち上げた。
     ……あのナポレオンですら、予算を増やし、館長に自由に蔵書を蒐集させた。それがどうだ? この国最大の図書館とやらの蔵書はまったくお寒い限りだ!
     またも人びとは激高したが、同時に議員たちの愛国心にも火をつけることとなった。
     
     こうしてパニッツィは、大英博物館のPrint Book部門の責任者となった。
     相変わらず敵を作るやり方だったが、今までのような大規模な寄贈ばかりでなく、この博物館の蔵書を増やす手を次々と打った。
     パニッツィの野望は、少なくともこの国で刊行されるならば、どのような本も博物館図書館の蔵書をすること、いやできるならば全ヨーロッパ、全世界の書物をここに集めることだった。
     フランス革命の洗礼を受けたこの男は、しかし単なる放言家でも夢想家でもなかった。
     スタッフを増強して徹底的な収集を行わせ、さらに出版社に納本を義務づけるよう、議会には法律の改正まで要求した。
     全世界のあらゆる書物をあつめる野望についても手抜かりなく、各言語の専門の担当者を置いて収集体制を強化した。
     パニッツィがこのポストにいた1837年から1856年の間に、大英博物館図書館の蔵書は100万冊増加した。
     1857年、理事会はパニッツィを大英博物館館長に就任させた。
     
     Print Book部門を引き受けた翌年(1838年)、パニッツィはリチャード・ガーネットという男を大英博物館図書館に引き入れていた。
     イタリア人であるパニッツィはロマンス諸語には通じていたが、全世界のあらゆる書物をあつめるには、この男の力が必要だった。
     ガーネットは、ほぼ独学でヨーロッパの言語と文学すべてに通じ、加えて完璧な古代ギリシア語、ラテン語、さらにヘブライ語を使いこなした。
     温厚なガーネットは、やり手で強引なパニッツィのやり方に必ずしも同意していなかったが、対照的な性格のせいか、二人はうまくやっていくことができた。
     しかし死が二人を分かつことになる。
     1850年、ガーネットは長くない一生を終えた。後には家族と、野心家の館長が残された。
     
     ガーネット家には子供がたくさんいた。
     経済的に困った一家を助けるために、パニッツィは当時16歳だった長男を雇うことにした。
     父の才能を受け継いだと見なされていた少年には、学費の面倒はみるからオックスフォードに進んではどうかという親類からの申し出があったが、少年は父親と同じく独学の方を選んだ。
     この少年、二代目のリチャード・ガーネットは、一番安い給料の職員として博物館図書館に入った。
     
     最初は目録づくりの手伝いに本のタイトルを記入するといった簡単な仕事しかさせてもらえなかったが、ほどなくしてパニッツィはこの少年の才能に気付いた。
     少年は書籍の出納係(書庫への出し入れの担当)になった。
     これは現在考えられるほどには、簡単な仕事ではなかった。
     というのも、この時、大英博物館図書館の蔵書は、パニッツィの下で(先程見たように)爆発的に増え続けていた。
     加えて、当時の博物館図書館の書架は700以上の分類に分かれていた。しかも、それぞれ別の目録が作られ(つまり統一の総合目録などなく)、おまけにどれもあまり信用のおけるものでなかった。

     二代目リチャード・ガーネットは20年間この仕事に従事した。
     
     この間に彼が読み学んだのは、本のタイトルとその保管場所だけではなかったらしい。
     図書館のすべての本を知る最後の司書は、こうして育った。
     
     さてパニッツィの野心は、蔵書を増やすだけにとどまらなかった。
     パニッツィは、これら蔵書を人々が利用できるようにしなければならないと考えた。
     増え続ける蔵書が、博物館のすべての空間を圧迫していた。
     新館の建築が必要なことは誰の目にも明らかだった。
     のちにルイ・ナポレオンやガリバルディやマルクスが訪れることになる円形の図書館閲覧室Reading roomが作られ、既存の建物と閲覧室の間のスペースに書庫も増築された。
    直径42mの円形閲覧室の壁面につくられた書架には2万冊の参考図書※が並び、そして閲覧室中央の丸いカウンターの中にレファレンスワーク(参考業務)を行う司書が常駐した。

    britishLibrary.jpg


    ※British Museum. Dept. of Printed Books. (1871). A List of the Books of Reference, in the Reading Room of the British Museum.


     2万冊の参考図書と100万冊の蔵書を機動的に活用させるレファレンスワーク。
     20年間の出納係の仕事を経てすべての書物の在り処と内容を知る男、かつての右腕の忘れ形見を、パネッティは丸いカウンターの中に送り込んだ。
     ここでガーネットは新しい仕事をすることになった。
     
     そして月日は流れた。
     
     パネッティが去り、数十年の経て、ガーネットもまたPrint Book部門の責任者(Keeper of Printed Books:本の管理者)となった。
     そして最後の仕事が残されていた。
     パネッティがぶち上げ、しかし存命中には実現しなかったあの企て、いまや世界のすべての書物を蔵する大英博物館図書館の統一図書目録の作成がそれだった。この仕事を完成させることができるとしたら、あの男しかいない、と誰もが思った。
     ガーネットは閲覧室を離れ、この仕事に専念し、在職中に無事完成させることになるだろう。

     19世紀が終わり、博覧強記の時代が終わり、目録の時代がやって来ようとしていた。

    garnett_at_his_desk.png
    Richard Garnett at his desk. c.1898.





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    Richard Garnett's Works (Wikisource)

    Obituary. Dr. Richard Garnett C.B. — The Times, Saturday, Apr 14, 1906; Issue 37994; pg. 4; col A

    Richard Garnett - 1911 Edition of the Encyclopedia Britannica

    Garnett, Richard (1835 - 1906), librarian and author, Oxford Dictionary of National Biography

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