19世紀イギリスには、社会活動の分野で活躍した著名な女性が二人いた。
     一人がナイチンゲール、そして、もうひとりがオクタビア・ヒル。
     
     ナイチンゲールは病人や戦争に傷付いた人を助けたが、オクタビア・ヒルは人々が病気にならないように助けた、というのである。
     
    実際は彼女が看護婦として活動したのは3年間で、むしろその後の活動に長い年月を注いだという話はこちらに書いた→問:史上最も有名で、最も戦闘的だった統計学者は誰か? 答え:ナイチンゲール 読書猿Classic: between / beyond readers 問:史上最も有名で、最も戦闘的だった統計学者は誰か? 答え:ナイチンゲール 読書猿Classic: between / beyond readers このエントリーをはてなブックマークに追加
     


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    Octavia Hill、1838 - 1912.


     オクタビア・ヒルの名は、日本では、ナショナル・トラストの生みの親であることの方が、ずっと有名である。
     ナショナル・トラストは、サー・ロバート・ハンターという弁護士と、ハードウィック・ロンスリーという牧師と、それからオクタビア・ヒルの出会いから始まった。
     自然や歴史的環境を買い取って保存しようというナショナル・トラスト運動は、1907年にはナショナル・トラスト・アクトという法律の形で実を結び、国民が国民のためにお互いにお金を出し合って、国民の貴重な環境を買い取って保存するこの活動が法的に認められた。
     さらにナショナル・トラストが国民から寄金を集めて、それで買い取った土地や家屋を売ってはならないし、抵当に入れてもいけないし、さらに重要なことだが議会の同意なしには政府といえども強制収容することができない、だから買い取られた自然や不動産は未来永劫に保存される、といういわゆる「譲渡不能の原則」が定められた。

     さてナショナル・トラストが始まる1895年よりも30年以上も前に、オクタビア・ヒルが始めた試みによって、彼女はすでに著明だった。
     オクタビア・ヒルがはじめたのは「住宅管理」というものだった。

     ここでいう住宅管理は、単なる建物のメンテナンスや、宅配の荷物を預かってくれることなんかとは、まるで違う。
     オクタビア・ヒルは「住宅管理」で、スラムを改善しようとした。
     スラムをぶっつぶして公営住宅に建て替える方法には(これに先鞭をつけるのもやはりイギリスなのだが)、オクタビア・ヒルはずっと反対していた。
     なぜなら、建物を取り替えても、そこに住む人たちの生活が変わらなければ、そこは再度スラムになるからだ。
     
     オクタビア・ヒルの「住宅管理」が卓越していたのは2つの点においてである。
     ひとつは、そこに住む人の生活ごと変えてしまうものであったこと。
     もうひとつはそれを慈善事業ではなく、収益の上がるビジネスとしたことである。




    生活ごとのスラム改善

     「スラムは常につぎの三つの要素:貧しい人々、粗末な建物、劣悪な管理(poor people, poor building, poor management)の帰結である」
    Power, A., Estates on the Edge: The social consequences of mass housing in Europe (London:MacMillan, 1997, p145)

     貧窮化した人びとは、安い住居費のために、粗末な建物に移り住む。メンテナンスを含む住環境管理にコストがかけられるはずがなく、ひどい建物はなおさら劣化していく。そうした環境から退出できるものは退出し、その後にはさらに貧しい人々がやってくる。
     貧しい人々、粗末な建物、劣悪な管理の3つは、互いが互いを生み出し強め、マイナスのスパイラルとなって状況を悪化させる。
     
     では、オクタビア・ヒルはどうしたのか。
     
     オクタビア・ヒルのスラム改善は、住民のセルフ・ヘルプを基本としていた。
     彼女は投資を募ってボロ屋を修繕し(最初の投資家はあのジョン・ラスキンだった)、その一室ずつに貧しい家族を住まわせた。
     仕事を紹介し、そのために必要なら訓練をして、家族の所得があがれば、また別の部屋を一つあてがった。こうして一つの部屋に10〜20人が住む密集住を、少しずつ改善していった。
     貧困者であっても、その生計費にふさわしい家賃の支払いを義務づけさせた。入居者は適当な家賃を支払うことによってはじめて居住者として市民的権利を主張でき、市民として尊敬されるのだ、というのが彼女の持論だった。
     家賃の遅れだけでなく、住民の「低いモラル」にも厳しく応じた。
     たとえば子供を学校にやらない父親には、退去勧告をしたし、改善されない場合は最終的には追い出した。
     こうしたいわばアメとムチの「住宅管理」で、彼女は住民の生活ごとをスラムを「改造」した。
     もちろん住宅の所有者・管理人にも義務の順守が求められた。
     所有者・管理人は借家人のための共同設備を充実させ、早期に修善箇所を発見し、所有者・管理人として責任を遂行しなければならない。
     このように住宅の所有者・管理者と居住者が双務的に、責任の所在を明確にし相互に約束を守ることが、オクタビア・ヒルが考える「住宅管理」の基盤だった。
     このようにして彼女は、貧しい人々、粗末な建物、劣悪な管理(poor people, poor building, poor management)のすべてに手を付け、その悪循環を切断していった。




    ビジネスとしてのスラム改善

     オクタビア・ヒルは、この時代、当たり前だった、富める人たちが貧しい人に施す慈善を否定していた。
     それは何よりもまず、施しを受ける人達を、施しに依存させ、自分で生活を改善しようとする力をますますなくさせてしまう。
     貧困の中で退廃的生活に埋没し、自力で生活を改善しようとする自信を喪失してしまった人達に対して、 例えば新しい住宅をあてがうなど、物としての住宅の改善を行うだけでは、やがてあの負のスパイラルのうちに、再び街はスラムと化してしまうだろう。
     これはオクタビア・ヒルから何十年も経った後、世界中のスラムクリアランス事業が、そのために提供された公営住宅が、陥ることになる悪循環だった。

     この考え方のせいでブルジョアや教会関係者から強い怒りと反感をかったが、彼女はひるまず自分の道を進んでいった。

     「たとえ国家と言えども、贈物を与えることで人間の精神を破壊する権利はない」

    という彼女の言葉は、同時代の慈善事業だけでなく、やがて福祉国家が行うであろう様々な社会政策をも標的にしていて、そのため却って時代的限界も抱えているのだが、住民にセルフ・ヘルプを求める以上、彼女は事業者たる自分たちにも同じ義務を課した。
     つまり事業のための《施し》を、彼女たちも受けなかった。
     
     ではスラム改善に必要な、少なからぬ資金はどうやって賄われたのか?
     オクタビア・ヒルは、5%の利回りをつけて投資を募り(最初の出資者は、遺産をもらって、何か社会に役立つことがしたいと思っていたジョン・ラスキンだった)、このスラム改善をやってのけた。
     彼女は、この前例のないビジネス・モデルを軌道に載せた。オクタビア方式はイギリス中に広がり、彼女は住宅管理を現場で担うスタッフを多数育成し、各地のスラム改善に送り込むと同時に、この住宅管理婦(オクタビア方式では、住宅管理を担うスタッフはみな女性だった)を看護婦のような職業として成立させた。




    今日の、スラム改善の武装した女神たち

     オクタビア・ヒルの方法は、遠い過去の話ではない。
     
     一時は福祉国家の社会政策と公営住宅とに取って代わられたかに見えたが、ハードのしての住宅改善だけで済まさない、しかもそれをビジネスとして成立させる彼女のアプローチは、そうした公営住宅の再スラム化に対しての改善の中で、再び顧みられ、実践されている。
     たとえばニューヨークのハーレムやブロンクスで、衰退地域を改善したコミュニティ・ディベロップメント・コーポレーションの取り組みなどは(建物を破壊・損壊させるバンダリズムや、住民の麻薬使用には退去要求で応じるサンクション(罰)付きの住宅管理で、犯罪率の極めて高い地域に一種のサンクチュアリを作り上げる手法など)、あのスラム改善の武装した女神(アテネ)の末裔である。



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