いつでも旅立てるように、一切合財を二つのトランクにまとめて、眠りにつく。
     すんでのところでナチスの手を逃れて以来、レオ・シラード(1898〜1964)の習慣は生涯変わることがなかった。

     シラードはいつも移動していた。
     どの国にも、どの組織にも、どの町にも、そしてどの分野にも、落ち着くことなく。
     ひとつのところに腰をすえて積み重ねるよりも、次の扉を開ける方をシラードは選んだ。そしてそれを選び続けた。

     コスモポリタンな科学者コミュニティですら彼には狭すぎた。
     自らの成果を学術論文で著し同業の研究者たちの承認を得ることよりも、特許をとることの方をシラードは好んだ。
     知的営為にとって、大学を含めて〈組織〉に属することは決してプラスにならないと信じた。そして特許は組織に属しないための手段であると考えた。
     
     シラードが得た特許は多い。
     その中には、X線センサー素子を皮切りに、電子顕微鏡や線形加速器、サイクロトロン、ベータトロン、そして何より、中性子による核連鎖反応や人類初の原子炉となる黒鉛型原子炉、そして使用済み核燃料を再び核燃料にするための増殖炉などがある。
     友人だったアルバート・アインシュタインとは、液体金属をつかった冷蔵庫の特許をとっている。


    EinsteinSzilard.jpg
       アインシュタイン(左)とシラード(右)


     科学研究者としてのシラードは洞察力に富み、その尽きることなく沸きあがるアイデアに、誰もが舌を巻いた。
     一方、数学的才能については本人としても十分ではなく、おかげで理論的研究を諦めることになった。
     実験物理学を選んだものの生来の不器用者であり、なお悪いことに根気という才能を著しく欠いていた。
     地道な作業が必要となるとあからさまに興味を失った。
     のちに、世界初の原子炉「シカゴ・パイル1号」を共に完成させた、あの人格者フェルミにすら、怒りを買うこともしばしばだった。

     他人のために一切の見返りを求めず世界中を駆け回ることも辞さない徹底した人道主義者だったが、他人のすることに容赦できない度を越した自己中心主義者でもあった。
     愛すべき純粋さと傷つきやすい魂を持て余し、不誠実であるよりはむしろ無神経であることを選んだ。
     血を見ることに耐えられない平和主義者であり、世界政府や世界法による戦争の廃絶を本気で考えるほどの理想主義者であると同時に、人間に理想を重ねてみることのできず常に最悪の事態を予感し確信する極端な悲観主義者だった。

     そして悪いことに、時代はシラードの悲観主義の方を追いかけた。
     彼の絶望的予測はよく当たった。

     
     1920年代半ばにすでに、シラードはヴァイマール体制の衰退を予知し、世界恐慌の後にはナチスが政権をとるだろうと予想していた。
     そして1933年1月にナチスが政権を握ると、シラードは生涯続けることになる2つのトランクの荷造りを始めている。
     2月には、ベルリンやブダペストで友人や親族に対してヨーロッパからの脱出を呼びかけて回った。しかし、ほとんど相手にされなかった。
     しかし2月27日にあの国会議事堂放火事件が起こり、それを口実に共産党への弾圧がはじまった。シラードは放火事件はナチスの陰謀だと主張した。友人たち、たとえばマイケル・ポランニーは、その考えを杞憂だと笑って取り合わなかった。
     月がかわって、3月23日には全権委任法が成立し、ヒトラーによる独裁体制が始まった。
     3月30日、シラードはひとりオーストリア行きの列車に乗った。
     3月31日には国境で「非アーリア人」に対する取り締まりが始まった。
     
     1933年9月、ドイツから次々脱出してくる学者の受け入れ先を探し、また彼らへの支援を取り付けるためにヨーロッパ中を駆け回っていたシラードは、原子核を発見した核物理学の父アーネスト・ラザフォードの講演の記事を読んだ。ラザフォードは核エネルギーの利用を絵空事だと断じていた。
     シラードはそれを読んで、核エネルギーの開発と核戦争を描いたH・G・ウェルズのSF小説『解放された世界』(1914年)を思い出した。ウェルズの大ファンだったシラードは、この小説をドイツ語に翻訳するほど読み込んでいた。
     シラードは考え続け、ある日、ロンドン・サザンプトン通りの交差点で信号待ちをしている間に、ひとつのアイデアを思いついた。
     中性子(それは1932年に J.チャドウィックらによって発見されたばかりだった)を原子核にぶつけ、原子核からちょうどいい具合に中性子を飛び出させることができれば……、つまり飛び出た中性子が他の原子核にぶつかり、またその原子核から飛び出た他の原子核にぶつかり……と、連鎖的に反応を引き出す事ができれば、莫大な核エネルギーを取り出すことができるのではないか、というのが、その思い付きだった。

     ほとんど生物学研究の道を選びかけていたシラードはこれ以後、この核エネルギー(原子力)という(第二)のプロメテウスの火と伴走する。
     プロメテウス(Προμηθεύς/Promētheus)はギリシア神話に登場する、神々から火を盗み人間に与えた者であり、その名はpro(先に、前に)+metheus(考える者)、「先に/先を考える者」を意味する。
     
     シラードは中性子による連鎖反応のアイデアをまとめたが、アイデアがナチス・ドイツに洩れないように、それを論文として公表しなかった。かわりに特許を取得することを選び、亡命先だったイギリスで、軍にこの特許を譲渡し秘密扱いにするよう申請した。

    SzilardPatent.png

    (from https://www.google.com/patents/US2161985


     
     もっともこの時点でシラードは、ウランにたどり着いていなかった。
     亡命中の不安定な地位もあって、シラードは十分な実験を行う状況になかった。
     1936年にナチス・ドイツが条約を破棄して軍をラインラントに進駐させると、ヨーロッパ中が戦争になると確信したシラードは、大西洋を渡る機会をうかがった。
     1938年初頭、ニューヨークに赴いたシラードは、そのままこの地にとどまり、ヨーロッパに戻らぬことを決意する。
     
     ニューヨークで細々と実験を続けながら、未だ連鎖反応が生じる元素を発見できなかったシラードは、この頃には半ば連鎖反応は不可能なのではと思うようになっていた。
     そんな矢先、ドイツのオットー・ハーンらが、天然に存在するもっとも重い元素であるウラン(原子番号92)に中性子を照射し、その結果生ずる微量な反応生成物を注意深く化学分析して,ウランのほぼ半分の質量をもつバリウム(原子番号56)の存在をつきとめた研究を知った。
    かつてのハーンの共同研究者 L. マイトナーは,この実験結果を伝え聞くや,O. R. フリッシュとともに,この現象を,原子番号92のウランが原子番号56のバリウムと原子番号36のクリプトンに割れる核分裂として説明した。
     シラードはこれを聞き、自分が見当違いの場所を探していたことを知り、単なる核分裂ではなく、ウランを使えばこの反応を連鎖的に引き起こすことができると改めて確信した。
     そして恐怖した。
     なぜならドイツの研究者によるこの発見は、今や人類が手にし得る最大の力に、あのナチス・ドイツの手が届こうとしていることを意味するから。
     何とかしなければ。しかしアメリカで安定した地位を持たない自分に何ができるのか。しかし何とかしなければ。
     
     その頃、コロンビア大学には、理論物理学者としてベータ崩壊の理論を完成させ、また実験物理学者として自然に存在する元素に中性子を照射することによって40種類以上の人工放射性同位元素を生成していたエンリコ・フェルミがいた。1938年これらの業績によりノーベル賞を受賞したフェルミは、妻ラウラがユダヤ人であるため、ムッソリーニから迫害を受けていた。ストックホルムで賞を受け取った後、そのままアメリカに亡命したのだった。
     オットーらの核分裂実験を知り、フェルミもまた、ウランによる核連鎖反応の可能性を思いついたが、その可能性は低いと考えていた。
     
     シラードはイジドール・ラビとともに、コロンビア大学にフェルミを尋ね、連鎖反応の実験に取り組むよう強力に働きかけた。
     気乗りでないフェルミをなんとか口説き落とし、シラードもまたコロンビア大学で研究をつづけることになった。
     1939年3月、シラードのグループとフェルミのグループは、それぞれ別の装置を用いてウランの核分裂実験を行い、ともに複数の高速な二次中性子が放出されることを確認した。
     またしてもシラードはこの研究成果を公表しないことを主張し、他国で同様の研究に携わる者たちにもそれを求めた。
     しかしシラードの主張は科学者コミュニティに受け入れられず、まずフランスのフレデリック・ジョリオ=キュリーらがシラードの要請を断って同様の実験を公表した。こうなるとコロンビア大学でも、先んじて得ていた発見を公表しない訳にはいかなかった。間借りの居候にも等しいシラードには、フェルミや大学当局の主張を払いのけるだけの力がなかった。
     
     世界はこうして知る。
     ウランの同位体が得られれば、都市ひとつを消し去ることのできる原子爆弾を作ることが可能であると。知らせは、4月末にはセンセーショナルなニュースとなって、瞬く間に広がった。
     シラードはさらに急がねばならなくなった。
     
     シラードはアメリカ政府に繰り返し、ナチスが核爆弾を開発する危険性とそれに対抗するためアメリカでも強力な研究支援の必要とを訴えていた。
     しかし組織に属さない、風変わりな亡命科学者の主張は聞き届けられなかった。
     
     1939年8月には旧友アインシュタインに、ルーズベルト大統領宛に、ナチスの核開発の危険と研究の支援を訴え、アメリカの原子爆弾開発のきっかけのひとつとなったことで知られる手紙を書かせた。
     その一方、シラードは、プルトニウム生産のための原子炉の作成にあたっていたフェルミの助手として潜り込み、1942年12月2日、シカゴ市街にある大学構内の競技場に作られた世界初の原子炉「シカゴ・パイル1号」の臨界に立ち会った。

     世界初の原子炉「シカゴ・パイル1号」は1942年12月2日に臨界を記録した。
     先見者にして悲観主義者シラードはフェルミに対し、この時
    「この日は人類にとっての暗黒の日として記憶されるだろう」
    と言った。

     最高機密の性格をおびた大規模な科学者の戦時動員であるマンハッタン計画と、あらゆる意味で組織に属することができない知的自由人シラードの間に、軋轢が生じない訳がなかった。
     異なるグループのメンバーとは意見交換すら禁じるような、機密上のさまざまな制約は多かれ少なかれ科学者たちの反発を呼んだが、悲観主義すぎる理想主義者であるシラードの許容量は彼らよりはるかに低かった。加えて彼は、あからさまに楯突くことを選ぶ人間だった。
     対立は決定的なものになった。
     シラードから見れば、計画の秘密主義的運営こそが、研究の進展を遅らせ、ナチス・ドイツに勝利を連合国に敗北をもたらしかねない最大の障害だった。
     逆に軍関係者から見れば、シラードこそが、計画の運営に何かと逆らい、あろうことか声高にドイツの勝利を予言しさえする親ドイツな敵性外国人だった。
     計画の指揮官であるレズリー・グローヴズ准将は、シラードをスパイの容疑で戦争終結まで拘束することを主張した。
     逮捕拘留こそされなかったものの、シラードはマンハッタン計画から隔離され、軍の監視(盗聴や尾行)を受けるようになった。
     無論、シラードはやられっぱなしではなかった。
     シラードには、政府が遅れて研究に乗り出す前に取得した、核分裂など核エネルギーに関する特許があった。これを楯に取った要求に、管理者たちはしぶしぶシラードの復帰を認めざるを得なくなった。
     
     しかし先が見えすぎる故に移り気なシラードの関心はすでに次の問題に、つまりいかに核エネルギーを兵器に利用するかから、兵器として利用された核エネルギーをいかに監視・管理するか、に移っていった。
     連合軍が勝ち進む中、ナチスによる核爆弾開発の可能性が消えると、シラードは再びアインシュタインを通じて大統領とコンタクトを取ろうとした。かつては核爆弾の開発を促すために、そして今度は核爆弾の使用を思い留めようとするために。
     ここでもシラードはいくらか先を見ていた。
     日本に対して原爆を使用し、その存在が世界に明らかになれば、数年でソ連も原爆を開発し、両国を破滅させかねない核開発競争に突入する、というのがシラードの主張だった。
     アインシュタインの紹介状により大統領夫人(エレノア・ルーズベルト)との面会の約束を取り付けたが、実現より速くルーズベルト大統領は急死した。トルーマン大統領との接触工作からやり直し、バーンズ国務長官と会談が実現する頃には1945年の5月が終わろうとしていた。
     シラードは主張を説明したが、バーンズはソ連が合衆国より短い期間で核兵器を開発する可能性を理解できなかった。バーンズは、核兵器の使用がむしろ、対ソ連関係で合衆国が優位に立つことに繋がると考え、また爆弾を使用しなければ多額の資金を投じたマンハッタン計画の意義を議会に説明できないと主張した。

     1945年7月16日にニューメキシコ州のアラモゴード軍事基地の近郊の砂漠で人類最初の原爆実験(トリニティ実験)が実行された。この原子爆弾のコードネームはガジェット (Gadget) と呼ばれた。

    ・7月24日 - ハリー・S・トルーマン大統領、ソ連スターリン書記長に原爆開発を明かす。
    ・7月25日 - アメリカ空軍参謀総長のカール・スパーツ大将、広島、小倉、新潟、長崎のいずれかの都市に8月3日以降に原爆を投下するよう命令。
    ・8月6日 - ガンバレル型ウラン235原爆リトルボーイ、広島へ投下。
    ・8月9日 - 爆縮方式プルトニウム239原爆ファットマン、長崎へ投下。

     広島と長崎への原爆投下のニュースによって、シラードは自分たちの努力が報われなかったことを知った。
     戦争が終わっても、シラードの悲観は止まず、彼は行動し続けた。
     アメリカとソ連の科学者による討論によって、原子爆弾に関するソ連との協定づくりを狙ったり、マンハッタン計画に参加した科学者の原爆に関する発言が軍に封じられていることを新聞社に暴露した。
     水素爆弾の開発に反対を公言し、その理由としてコバルト爆弾のアイデアをぶつけた。水爆のタンパー(覆い)をコバルトに替えるだけで、長期の強い影響を残すコバルト60を含む放射性降下物が生じて、シェルターへの短期間の退避など役に立たなくなる、というのである。
     
     なおもシラードは、感心させたり当惑させたりしながら、科学者やその他の人びとの間を移動し続けた。


     彼の名を冠したジョークがある。
     物理学者が二人、立ち話をすれば必ず、どこからともなくシラードがあらわれて、話に割り込んでくるというのだ。
     1950年代、西側のひとかどの物理学者で、シラードと顔をあわせたことのないものはいない、とすら言われた。
     この現象を物理学者たちは「シラード効果」と呼んだ。



    (関連記事)
    くそったれ、言わんこっちゃない:H.G.ウェルズ『解放された世界』:読書猿Classic: between / beyond readers くそったれ、言わんこっちゃない:H.G.ウェルズ『解放された世界』:読書猿Classic: between / beyond readers このエントリーをはてなブックマークに追加

    原子力クロニクル1789-2004 読書猿Classic: between / beyond readers 原子力クロニクル1789-2004 読書猿Classic: between / beyond readers このエントリーをはてなブックマークに追加


    (参考文献)
    シラードの証言シラードの証言
    レオ・シラード,S.R.ウィアート,G.W.シラード,伏見 康治,伏見 諭

    みすず書房
    売り上げランキング : 1123068

    Amazonで詳しく見る

    原子爆弾の誕生〈上〉原子爆弾の誕生〈上〉
    リチャード ローズ,Richard Rhodes,神沼 二真,渋谷 泰一

    紀伊國屋書店
    売り上げランキング : 258194

    Amazonで詳しく見る

    原爆から水爆へ〈上〉―東西冷戦の知られざる内幕原爆から水爆へ〈上〉―東西冷戦の知られざる内幕
    リチャード ローズ,Richard Rhodes,小沢 千重子,神沼 二真

    紀伊國屋書店
    売り上げランキング : 532164

    Amazonで詳しく見る


    Leo Szilard Online
    http://www.dannen.com/szilard.html






    関連記事
    Secret

    TrackBackURL
    →http://readingmonkey.blog45.fc2.com/tb.php/692-42bff66b