一冊を読み通すことが難しくとも、1フレーズならきっと読める。
     
     以下は、中二病真っ只中の人が哲学書を読んでどういうところに目を留めるかを想像して編んだフレーズ集である。歴史順に配列してあるので、一口サイズの哲学史として読むことができるかもしれない。
     「中二病うんぬん」というのは、捏造というより言いがかりに近いが、心ある人なら誤解や人生論的曲解をおそれて回避してしまうような、超有名フレーズから逃げないための口実として召喚した。

     上記のような方針なので、各哲学者の思想を代表するようなフレーズを必ずしも選ぶことができた訳ではない。そんなことはそもそも不可能だが、それに近いものが必要な人は『哲学原典資料集』や『原典による哲学の歴史』や『この哲学者を見よ―名言でたどる西洋哲学史』(中公文庫)といった本を読むといい。

     なお一人の哲学者につき1フレーズを原則としたので、選ばなかったフレーズも多い。逆に、特に名をあげるがフッサールのように物事を短くまとめることがまったくできない、今回の目的には不向きな哲学者もいる。何度か虚しいチャレンジを試みたが、今回は数人の哲学者とともに断念することにした。
     ところどころ解説を加えたくなるところがあったが、常に「長すぎる」と悪評高い当ブログ故、また加えてもあまり助けにならない気がしたこともあり、禁欲した。

     総じて、西洋哲学史を最速で巡ることを目指したが、足早に駆け抜けた後には涙に濡れた体も乾いているだろう。






    ◯古代

    ソクラテス以前

    「実際みな愛知者の狂気と狂熱に与ったことのある人々だ---- だから皆聞いてもらいたい。しかし奴隷たちとその他の浄めや教えを受けない者たちとはその耳に非常に大きな戸を立てるがよい」
    古期オルペウスの徒(Ὀρφεύς, Orpheus, c 6th -5th century BC)
    出典:プラトン『饗宴』 (岩波文庫)


    「万物は神々に満ちている」
    タレス(Θαλῆς (ὁ Μιλήσιος), Thalēs; c. 624 – c. 546 BC)
    出典:アリストテレス全集〈第6巻〉霊魂論


    「同じ川に二度入ることはできない」
    ヘラクレイトス (Ἡράκλειτος ὁ Ἐφέσιος, Hērákleitos ho Ephésios; c. 535 – c. 475 BCE)
    出典:森羅万象が流転する(パンタ・レイ)―ヘラクレイトス言行録


    「宇宙のなかに存在するものはすべて、偶然と必然との果実である」
    デモクリトス (Δημόκριτος, Dēmókritos c. 460 – c. 370 BCE)
    出典:初期ギリシア自然哲学者断片集〈3〉 (ちくま学芸文庫)



    アテナイ盛期

    「しかしもう去るべき時が来た-----私は死ぬために、君たちは生きるために」
    ソクラテス (Σωκράτης, Sōkrátēs; 470/469 BC – 399 BC)
    出典:プラトン『ソクラテスの弁明』 (光文社古典新訳文庫)


    「われわれは現在死んでいるのであって、肉体 ソーマ が我々にとっての セーマである」
    プラトン (Πλάτων, Plátōn, 428/427 or 424/423 BC[a] – 348/347 BC)
    出典:プラトン『ゴルギアス』 (岩波文庫)


    「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」
    アリストテレス (Ἀριστοτέλης, Aristotélēs; 384 – 322 BCE)
    出典:アリストテレス『形而上学〈上〉』 (岩波文庫)



    ヘレニズム期

    「もし神が悪を妨げる意思はあっても力が無いなら全能ではない。力はあるが意思が無いなら邪神である。力も意思もあるなら悪はどこから来るのだろう。力も意思もないなら、なぜ神と呼べるのだろう」
    エピクロス(Ἐπίκουρος, Epíkouros; 341–270 BC)


    「快の生活を生み出すものは、つづけざまの飲食や宴会騒ぎでもなければ、美少年や婦女子と遊び戯れたり、魚肉その他の贅沢な食事が差し出す限りの美味美食を楽しむたぐいの享楽でもない。素面の思考 ネーポン・ロゴスモスこそが、快の生活を生み出すのである」
    エピクロス(Ἐπίκουρος, Epíkouros; 341–270 BC)
    出典:エピクロス「メノイケウス宛の手紙」 ギリシア哲学者列伝〈下〉 (岩波文庫)収録


    「『この胡瓜はにがい』。棄てるがいい。『道に茨がある』。避けるがいい。それで充分だ。『なぜこんなものが世の中にあるんだろう』などと加えるな」
    マルクス・アウレリウス (Marcus Aurelius Antoninus Augustus;121 AD – 180 AD)
    出典:マルクス・アウレリウス『自省録』 (岩波文庫)


    「神の次に何かが生じるとすれば、神は常に神自身にとどまり続けながら、それらは生じたのではければならない。それはどのようにしてか?……火は自分自身に由来する熱を出し、雪も冷たさを自分の内のみに引き止めてはいない。芳香を出すものは、存在する限り、そこから周りに何か流れ出し、近くにいる人はその香りを楽しむ」
    プロティノス (Πλωτῖνος, Plotinus; c. 204/5 – 270)
    出典:プロティノス『エネアデス』 (中公クラシックス)


    ◯中世

    教父思想

    「では時間とは何か。私に誰も問わなければ、私は知っている。しかし問われ、説明しようと欲すると、私は知らない」
    アウグスティヌス (Augustinus Hipponensis; 354 – 430)
    出典:アウグスティヌス『告白』 (岩波文庫)



    前期スコラ哲学

    「理解するために信じよ。信じるために理解しようとするのではなく」
    アンセルムス (Anselm of Canterbury; c. 1033 – 1109)
    出典:アンセルムス『プロスロギオン』 (岩波文庫)



    盛期スコラ哲学

    「確かに、人間の認識よりも高いことがらを、 人間は理性によって探究するべきではない。 しかし、それが神によって啓示されたならば、 それは信仰によって受け入れられなければならない」
    トマス・アクィナス (Thomas Aquinas; 1225 - 1274)
    出典:トマス・アクィナス『神学大全』→抄訳に『世界の名著 20 トマス・アクィナス』 (中公バックス)。創文社から全訳あり (全45巻)。



    後期スコラ哲学

    「より少ないもので成立することを、より多くのもので成立させるのはムダなことである」
    オッカムのウィリアム (William of Ockham; 1285 - 1347)
    出典:オッカム『大論理学』註解


    ◯近代

    大陸合理論

    「だれかしらある極めて有能で極めて狡猾な欺き手がいて、私をいつも欺いている。力のかぎり欺くがよい。だからといって、私がなにものかであると考えている間は、私が何ものでもない、と思わせることは決してできないだろう」
    デカルト (René Descartes ;1596 – 1650)
    出典:デカルト『省察』 (ちくま学芸文庫)


    「嘲笑せず、嘆かず、呪わず、ただ理解する」
    スピノザ (Baruch Spinoza; 1632 – 1677)
    出典:スピノザ『国家論』 (岩波文庫)


    「物質のどの部分も、草木の生い茂った庭園か、魚がいっぱい泳いでいる池のようなものではあるまいか」
    ライプニッツ (Gottfried Wilhelm von Leibniz ;1646 – 1716)
    出典:ライプニッツ『モナドロジー・形而上学叙説』 (中公クラシックス)



    イギリス経験論

    「自然は服従することによってでなければ支配されない」
    ベーコン (Francis Bacon; 1561 – 1626)
    出典:ベーコン『ノヴム・オルガヌム―新機関』(岩波文庫)


    「このように一つの人格に統合された群衆は「国家」と呼ばれる。これがかの偉大な〈リヴァイアサン〉、むしろ、もっと恭しく言えば、あの可死の神の生成である」
    ホッブズ (Thomas Hobbes of Malmesbury; 1588 – 1679)
    出典:ホッブズ『リヴァイアサン』(岩波文庫)


    「人類を惑わす疑問や論争の最大の部分は、言葉の疑わしく不確実な使用に、あるいは同じことだが言葉が表すとされる確定されない観念にもとづく」
    ロック (John Locke; 1632 - 1704)
    出典:ロック『人間知性論』 (岩波文庫)


    「存在するとは、知覚されることである」
    バークリー (George Berkeley; 1685 - 1753)
    出典:バークリー『人知原理論』 (岩波文庫)


    「私が私自身と自ら呼ぶものの内へもっとも深く入り込んだとしても、出会うのはつねに何らかの特定の知覚----熱さや冷たさ、明るさや暗さ、愛情や憎悪、快や苦----でしかない。自我とは、思いも及ばぬ速さで継起し、たえざる変化と動きの内にあるさまざまな知覚の束ないし集まりに他ならない」
    ヒューム (David Hume;1711 – 1776)
    出典:ヒューム『人性論』 (中公クラシックス)



    モラリストの哲学

    「われわれは、賢明になるためには、まず馬鹿にならなければならない。己れを導くためには、まず盲目にならなければならない」
    モンテーニュ Michel Eyquem de Montaigne; 1533 - 1592)
    出典:モンテーニュ 『エセー』 (中公クラシックス)


    「この無限なる空間の永遠の沈黙が私を恐れしめる」
    パスカル (Blaise Pascal; 1623 - 1662)
    出典:パスカル『パンセ』 (中公文庫)


    「人間は自由なものとして生まれている。しかるに、いたるところで鎖に繋がれている。他の人たちの主人であると自分を考えている者も、やはりその人たち以上に奴隷なのである」
    ルソー (Jean-Jacques Rousseau; 1712 - 1778)
    出典:ルソー『社会契約論/ジュネーヴ草稿』 (光文社古典新訳文庫)



    カントとドイツ観念論

    「啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることである。未成年状態とは、他人の指導なしには自分の悟性を用いる能力がないことである。この未成年状態の原因が悟性の欠如にではなく、他人の指導がなくとも自分の悟性を用いる決意と勇気の欠如にあるなら、未成年状態の責任は本人にある。したがって啓蒙の標語は「あえて賢くあれ!」「自分自身の悟性を用いる勇気を持て!」である」
    カント (Immanuel Kant; 1724 - 1804)
    出典:カント『啓蒙とは何か 他四篇』 (岩波文庫 青625-2)


    「精神の生とは、死を避け、荒廃から己を清らかに保つ生ではなく、死に堪え、死のただなかに己を維持する生である。精神がその真理を獲得するのは、ただ絶対的な四分五裂のただなかに自己自身を見出すことによってのみである。精神にこういう力があるのは、否定的なものをはっきりと直視し、そのもとに足を停めることのみによっている。この足を停めることこそ、否定的なものを存在へと逆転させる魔力なのである」
    ヘーゲル (Georg Wilhelm Friedrich Hegel; 1770 - 1831)
    出典:ヘーゲル『精神現象学



    ◯現代

    功利主義

    「我々が何をすることになるかを定めるのみならず、我々が何をすべきかを指示するのは苦痛と快楽だけである」
    ベンサム(Jeremy Bentham; 1748 - 1832)
    出典:ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』 世界の名著 (49)ベンサム/J.S.ミル (中公バックス)収録


    「文明社会の構成員に対して、その意志に逆らって、権力が正当に行使され得る唯一の目的は、他者危害の防止だけである。彼自身のためというのは、物質的なものであれ道徳的なものであれ、正当な根拠とはならない。そうすることが彼のためによいだろうとか、そうすれば彼はもっと幸せになれるだろうとか、他の人達の意見ではそうすることが賢明だろうとか、正しいとさえいえるだろうということで、彼を行動させたり抑制させたりすることは、正しいことではありえない」
    ミル (John Stuart Mill; 1806 - 1873)
    出典:ミル『自由論』 (光文社古典新訳文庫)



    マルクス主義

    「貨幣は、その前にはほかのどんな神の存在もゆるさないような嫉妬深い神である。貨幣は人間のいっさいの神々をひきずりおろし、それを商品に変える。貨幣は一般的で独立に構成された価値である。だから、それは世界全体から、人間界からも自然からも、その固有の価値をうばってしまった。貨幣は人間の手を離れた人間の労働と存在の本質であって、この手を離れた本質が人間を支配し、人間はこれを礼拝するのである」
    マルクス (Karl Heinrich Marx; 1818 - 1883)
    出典:マルクス『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』 (岩波文庫)



    生の哲学

    「生と夢は同じひとつの書物の頁である。連関をつけながら読むと、これが現実の人生ということになる。しかし毎日の読書時間(すなわち一日)が終わり、休養時間がやってきても、我々はしばしばまだ漫然と拾い読みをし、秩序も連関もなしに、ある時は此処、あるときはそこというように頁をめくるのである」
    ショーペンハウアー (Arthur Schopenhauer; 1788 - 1860)
    出典:ショーペンハウアー『意志と表象としての世界 』(中公クラシックス)


    「神を埋める墓掘り人どもの騒ぎがまだ聞こえてこないか? 神の腐る臭いがまだしてこないか?------神もまた腐る! 神は死んだ! 死にきりだ! そしておれたちが神を殺したのだ! ------すべての殺害者中の殺害者たるおれたちは、どうして心を慰める?」
    ニーチェ (Friedrich Wilhelm Nietzsche; 1844 - 1900)
    出典:ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)


    「事象を相対的に知る代わりに絶対的に把握し、事象に対する視点をとる代わりに事象の中に身を置き、分析する代わりにその直感をもち、またひいてはあらゆる記号的言表、翻訳、表現に依らずに事象を把握する方法があるとすれば、哲学はまさにそれである。してみると哲学は記号なしにやろうと志す学である」
    ベルクソン (Henri-Louis Bergson ; 1859 - 1941)
    出典:ベルクソン『思想と動くもの〈第1〉哲学入門・変化の知覚』(岩波文庫)


    「理解という過程によって、生がその根底までさながらに開示されると共に、他面、自他のさまざまな生の表現へ自ら体験した我々の生を移入することによってのみ、自己自身と他人とを理解するのである。それゆえ、体験、表現、理解というこの連関こそ、人間を精神科学の対象として成立せしめる独特の方法にほかならない」
    ディルタイ (Wilhelm Christian Ludwig Dilthey; 1833 - 1911)
    出典:ディルタイ『精神科学における歴史的世界の構成』



    新カント派

    「経験科学は実在の認識において、自然法則のかたちをとった普遍を求めるか、あるいは歴史的規定を含んだかたちをとった特殊を求めるか、いずれかである。前者が法則科学であり、後者が事件科学である。前者は常にそのようなありかたをするものについて語り、後者はかつてそのようなありかたをしたものについて語る。学的思考は、前者の場合は法則定立的であり、後者の場合は個性記述的である」
    ヴィンデルバント (Wilhelm Windelband; 1848 - 1915)
    出典:ヴィンデルバント『歴史と自然科学・道徳の原理に就て・聖―「プレルーディエン」より』 (岩波文庫)


    「人間は、ただ物理的宇宙ではなく、シンボルの宇宙に住んでいる。言語、神話、芸術および宗教は、この宇宙の部分をなすものである。それらはシンボルの網を織る、さまざまな糸であり、人間的経験の、もつれた糸である
    カッシーラ (Ernst Cassirer, 1874 - 1945)
    出典:カッシーラ『人間』 (岩波文庫)



    実存主義

    「絶望は、死病にとりつかれているものに似ている。このものは、そこに横たわりつつ死に瀕しているが、死ぬことはできないのである」
    キルケゴール (Søren Aabye Kierkegaard、1813 - 1855)
    出典:キルケゴール『死にいたる病 』(ちくま学芸文庫)


    「人間は、自由であるように呪われている」
    サルトル『存在と無 現象学的存在論の試み』 (ちくま学芸文庫)



    科学哲学と分析哲学

    「今や私は、それらの無意味な表現が無意味である理由は、私がまだ正しい表現を発見していないことではなく、無意味さこそがその本質であることにあると見てとれるからです。というのも、それらの表現によって私が成したいことは、世界を越えて行くこと、すなわち有意義な言語を超えて行くことだからです。私の全傾向、そして私の信じるところ、今まで倫理や宗教について書いてきた全ての人間の傾向は、言語の限界へ向かって走っていこうとすることです。私たちの牢獄の壁へ向かって走ることは、完全に、絶対に成功する望みがありません。倫理学が、人生に対する究極的な意味、絶対的な善、絶対的な価値について何かを言おうとする欲求から生じたものである限り、それは科学ではありえません。倫理学が語ることは、いかなる意味においても私たちの知識を増やしません。しかし、それは人間の心の中の傾向を記した文書であり、私は個人的にこの傾向に敬意を払わないわけにはいきません。そして、私は生涯にわたってそれを嘲ることはないでしょう」
    ウィトゲンシュタイン (Ludwig Josef Johann Wittgenstein、1889 - 1951)
    出典:ウィトゲンシュタイン「倫理学講話」『ウィトゲンシュタイン全集 5 ウィトゲンシュタインとウィーン学団』収録


    「われわれは統一科学におけるもっとも厳密な科学的原理に基づいて考えるときでさえも、「普遍的スラング」をしか使用することができない。普遍的スラングについては、今のところ何の合意もないのであるから、こうした問題に関わるすべての学者は、普通自分自身が二、三の新しい語句を寄与したにちがいない、普遍的スラングを使用しなくてはならないのである。
     決定的に確立された、純粋なプロトコル言明を科学の出発点とすることはできない。タブラ・ラサは存在しない。公海上で船を作り直さなければならない船員と同じように、それをドックのなかで解体したり、最良の材料を用いて新たに建造したりすることは決してできないのである。あますところなく消え失せることが許されるのは、ただ形而上学のみである」
    ノイラート (Otto Neurath; 1882 - 1945)
    出典:ノイラート「プロトコル言明」現代哲学基本論文集〈1〉 双書プロブレーマタ収録



    「実際には、理論の決定的な反対証明はこれまでけっしてできたことはない。というのも、実験結果は信用出来ないとか、実験結果と理論の間に存在すると主張されている不一致はたんに見せかけだけのものであって、われわれの理解が進めばそうした不一致は消滅するであろう、というような主張をすることが、つねに可能だからである」
    ポパー (Sir Karl Raimund Popper; 1902 - 1994)
    出典:ポパー『科学的発見の論理 』


    「時折りはめざましい成功があるにもかかわらず、科学の専門分野間の境界をこえたコミュニケーションはますます悪くなりつつある。数を増やしつつある専門家集団によって採用されている両立不可能な見地の数は、時間とともに増加しているのではないだろうか。諸科学の統一性は科学者にとって明らかに一つの価値である。それなのになぜ、科学者たちは諸科学の統一性を放棄するのであろうか」
    クーン (Thomas Samuel Kuhn、1922 - 1996)
    出典:クーン『科学革命における本質的緊張―トーマス・クーン論文集



    構造主義とポストモダン

    「神話や儀礼のいちばん重要な意義は、よく言われてきたような、現実に背を向けた『架構機能』がつくりだしたものである点にではなく、かつて或るタイプの発見にぴったり適合していた(そしておそらく現代でもなお適合している)観察様式および思索様式のなごりを現在まで保存している点にある。このような具体の科学がもたらす成果は、本質的に、精密自然科学に期待されるものとは別のものに限定されざるをえなかったが、だからといって具体tの科学が精密自然科学より非科学的であるわけでも、具体の科学の成果が精密自然科学のそれより非現実的であるわけでもなかった。具体の科学は、精密自然科学より一万年も前に確実な成果を上げており、その成果はいまなお私達の文明の基層をなしているのである」
    レヴィ=ストロース (Claude Lévi-Strauss; 1908 - 2009)
    出典:レヴィ=ストロース『野生の思考


    「言表行為の時間の他には時間は存在せず、あらゆるテクストは、永遠にいま、ここで書かれる」
    ロラン・バルト(Roland Barthes; 1915 - 1980)
    出典:バルト『物語の構造分析


    「人間は、われわれの思考の考古学によってその日付の新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。
     もしもこうした配置が、現れた以上消えつつあるのだとすれば、われわれはせめてその可能性くらいは予感できるにしても、さしあたってなおその形態も約束も認識していない何らかの出来事によって、それが18世紀の曲がり角で古典主義的思考の基盤がそうなったように覆されるとすれば ------
    そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと」
    フーコー (Michel Foucault; 1926 - 1984)
    フーコー『言葉と物―人文科学の考古学』


    「19世紀・20世紀の思想と行動は、ひとつの『理念』によって規定されていた。……その『理念』とは、解放のそれである」
    リオタール(Jean-François Lyotard; 1924 - 1998)
    出典:リオタール「世界史(普遍的物語)についての手紙」『こどもたちに語るポストモダン』 (ちくま学芸文庫)収録。



    「人は哲学の書物をかくも長い間書いてきたが、しかし、哲学の書物を、昔からのやり方で書くことは、ほとんど不可能になろうとしている時代が間近に迫っている。
    哲学的表現の新しい手段の追求は、ニーチェによって開始されたのだが、今日では、その追求を、たとえば演劇や映画のような、あるいくつかの芸術の刷新に見合ったかたちで遂行しなければならない。
     この視点から、いまやわたしたちは、哲学史をどう利用すべきかという問いを立てることができる」
    ドゥルーズ(Gilles Deleuze; 1925 - 1995)
    出典:ドゥルーズ『差異と反復』(河出文庫)


     

     
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