(夕刻、バス停)

    少女:あ、パパ。今日は早いんだね。

    父親:おまえはいつもこんな時間なのか?

    少女:うん、帰りは大抵、今のバスかな。

    父親:部活もないのに遅くないか?

    少女:委員会もあるし、何もない日は図書館に寄ってくるから。

    父親:県立の? 学校からだと方向が逆じゃないか。

    少女:大丈夫だよ。友達といっしょだし、今日もバス停まで送ってもらったし。

    父親:どんなの子なんだ、その子?

    少女:前に言ったことなかった? 入学してすぐ、いっしょにクラス委員やった子。

    父親:そういえば、よく怒ってたな。委員の仕事を全然しない子と組まされたって。

    少女:そうそう。最初は先生が指名したんだけど、ほんと適材適所ってあるんだと思った。

    父親:確か、新入生代表で挨拶した子だろ。そういう子がいるなら指名してしまうだろ。

    少女:あれって入学試験の成績で決めたらしいんだけど、次の年から人物本位で選ぶことになったって。噂だけど。

    父親:聞いてると心配になってきた。どういう子なんだ?

    少女:本の虫。いつも何か読んでる。それを他の何より優先してる。多分、学校生活を時間の無駄だと思ってるんじゃないかな。図書室登校とかできたら絶対選びそう。

    父親:それは駄目だろう。

    少女:放っておいたら高校も行かなさそうだし。

    父親:おまえのところ中高一貫だろ。

    少女:放っておかないけどね。

    父親:……本の虫ってどんな本を読んでるんだ?

    少女:いろいろ何でも。あ、最近、ちょっとずつ読んでるのは……

    父親:なんだ?

    少女:日本の類書かな。読むというより、読み終えた項目の見出し語を書き抜いてる。

    父親:なんで? というか類書って何?

    少女:いろんな書物から集めたものを項目ごと整理した中国や日本古来の百科事典のこと。表向きの理由は、見出しだけでも電子データにしとくとパソコンやスマホで検索できるから、らしいけど。写しながらだと注意して読むし、分からないことは調べるから、内容も結構覚えちゃうみたい。

    父親:気が遠くなる話だな。

    少女:私もそう言ったんだけど、そうでもないって言うの。「全20巻5万項目ある『広文庫』も、目次だけだとあわせて640ページくらいしかない。1日見開き2ページ写せば1年足らずで写し終える。これくらいなら能力的にも時間的にもできない人は少ないと思う」だって。

    父親:写すなんて普通思いつかないし、思いついてもやろうと思わない。辞書なんて必要なところだけを引いて見るものだし、全部で何ページあるとか考えたことなかったよ。

    少女:そうだよね。前は何故こんなに何でも知ってるんだろうと思ったけど、この話を聞いたらなんか納得した。

    父親:最近は、って言ったけど、前からそんなことやってるのか?

    少女:いつからかは知らないけど、最初に写したのは子供向けの漢字辞典だって。見出し字だけだと常用漢字だと2000字くらいだから原稿用紙だと5枚分でしょ。

    父親:そう聞くと「確かにそれくらいなら」と思わなくもないけど。だけど1回書いたくらいじゃ覚えられないだろう?

    少女:それでも一回最後まで通すと随分違うんだって。確かこの本の中で見たことある、と思えるだけでも。その後、子供向けの事典とかの項目を書き抜きして、普通の百科事典に取り掛かる頃には本を読むがずいぶん楽になったって言ってた。

    父親:百科事典なんて、それこそ何万項目もあるんじゃないのか? 書き写すのは項目だけでも、内容は読むんだろ?

    少女:えーと、平凡社の世界大百科事典って全部で9万項目、7000万文字くらいなんだって。新聞(朝刊)だと1日約12万字だから……584日分になるのかな。2年かからない計算になるらしいんだけど。

    父親:新聞は隅から隅まで読んだりしないからなあ。

    少女:毎日100項目ずつ書き抜いて3年かかったみたい。項目名だけだと1項目数文字でしょ。書き写す分量だけいえば毎日数百文字だから原稿用紙2、3枚くらい。

    父親:そういうと大したことなさそうだけど。

    少女:これくらいだとそんなに時間はかからないから、図書館に来ると、まず辞書を写す日課を済ませてしまってから、他のことをやるんだって。時間のある日もない日も疲れている日もいない日も。







    (日曜、図書館)

    少女:……という話をしてたんだけどね。

    少年:なにそれ。

    少女:なんかまずかった?

    少年:……いや、別にいいけど。

    少女:他にも書き写したの、あったよね。

    少年:漢字辞典のあとは、岩波文庫の目録に出てくるタイトルだけ写した。これは1800冊分くらい。その次は、受験参考書型の国語辞典(MD現代文・小論文)の見出し語で4000語。このあたりで本を読むのがだいぶ楽になった。

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    少女:意外にスモールステップ。

    少年:その次がほるぷ出版の『世界伝記大事典』で人物名(5500名分)だけ写した。次は平凡社の『世界名著大事典』で紹介されてる書物のタイトルだけ11000万冊分。その次が子ども向け百科事典(『百科事典ポプラディア 』)で、これも項目名だけ2万5千項目。その後、平凡社の『世界大百科事典』で9万項目。ここまでで小学校終わった。

    少女:一回書くだけで覚えられるのか、っていうんだけど。

    少年:無理。というか目的はそっちじゃない。

    少女:電子化されてない事典の項目を抜き出したい?

    少年:それができたら、事典の横断検索のための総索引(マスターインデクス)が自作できるから。でも、それより……。

    少女:なあに?

    少年:どちらかというと知らない言葉や事項に強制的に出会うためだと思う。自分の知識の抜けているところを知るというか。知識をインプットするのに、ひとつの事典を順番にヨコに読んでいくのは実は効率よくない。隣の項目とまるで関係ないことが多いし。事典が役に立つのは、「これがわからない」とか「○○について知りたい」っていうニーズを、引く人が背景というか文脈として持ち込むから。背景・文脈と関連付けられないと、断片的な情報でしかなくて記憶にも残りにくいし。

    少女:ヨコに読むって、タテに読むのもあるの?

    少年:タテ読みは、ひとつの項目について、いろんな事典や他の文献を貫通的にというか、まとめて読むこと。調べたものは、短い順に1つのファイルにまとめて、読むときも短いものから読む。短いものはすぐに読めるに端的に何なのか書いてある。要するに何なのか分かってから、より詳しいものを読んだ方が効率的だし。

    少女:調べものを始める時にやるっていってたやり方だね。……話戻すけど、知らない言葉や事項に出会うためっていうけど、それだと知らない項目に出会う度にいちいちつまずかない?

    少年:つまずくけど、相手は辞書だから、答えにあたるものは続きに書いてある。だから、そんなに時間をくうわけじゃない。

    少女:でも、最近写してる類書は昔の文献が引いてあるんでしょ?読むのに時間かからないの?

    少年:短いのはそうでもないけど、詳しい項目は結構かかる。だから写すついでに電子版の百科事典その他を検索してる。要するに何なのか程度のことは分かるし、分かってから読む方が理解もはやい。

    少女:事典をタテに読むやり方を取り入れてるんだ。

    少年:うん。類書を写す場合は、項目名だけを入れていくファイルの他に、そうやって調べたことをコピペして貯めておくファイルも別につくってる。最近の事典に載ってない項目ももちろんあるけど、載ってないことがわかるのも一つの情報だから。

    少女:あと、言葉としてはもちろん知ってるけど、自分が知らないことが書いてある項目ってあるでしょ? これも項目名を抜書きするだけ?

    少年:ほんとは知らないことが書いてある部分は全部抜書きしたいけど、そこまではちょっと手が回らない。これは面白いってことが書いてあった項目とか、書き写したときに印だけつけてる。あと一つの項目に複数の章立てがあるような大きな項目は、中の章立ても写す。もっとも日本の百科事典だと、大項目はそんなに多くなくて、項目数でいえば全体の2%くらいしかないけど。

    少女:え、そんなものなの?

    少年:何を大項目にするのか、誰が書くのか書けるのか、何をどこまでその項目で扱うのか、どこまで書く人の裁量に任せるのか、事典全体との調整はどうするのか、いろいろ難しいから簡単には増やせない。小項目は増やしやすいし、50音順なりアルファベット順に従えば、どこに入れるか自動的に決まるけど。

    少女:英語の事典も読んでたよね?

    少年:事典の前に、子供用でCollins Junior Illustrated Dictionary (Collins Primary Dictionaries)と、それから辞典じゃないけどI.A. RichardsとChristine M. Gibsonが書いたEnglish Through Picturesを読んだ。

    少女:それ、どういう本?

    少年:English Through Picturesは、「わたし」「ここ」って言葉のはじまりみたいなところから、簡単な線画と文の比較と繰り返しだけで、翻訳も解説もなしに少しずつ未知の言語に踏み込んでいくみたいな本。言語習得の冒険ものっていうか。

    少女:それってめちゃくちゃ回りくどくない?

    少年:でも最初の120ページくらいで最頻出でコアな基本単語250語と、それに現在、過去形、進行形、未来形に関係代名詞までできてるから、それほど非効率的でもない。2冊目くらいから抽象的な語とかどうやって導入するんだろうと思ってると、わあこんな手で来るのか、ってちょっと感動する。あと英語だけじゃなくて各言語版がある。

    少女:Illustrated Dictionaryの方は?

    少年:こっちは単純に絵に描ける物や動作をならべた絵辞典。日用の語彙を補うのに読んだけど、イラストが書いてあるだけで、退屈だった。同じintestines(腸)って言葉でも、「腸」って日本語と対にしてあるだけより絵があった方がましだけど、消化の仕組みをイラストをつかって説明してある方が退屈しないし覚える。

    少女:それが百科事典ってこと?

    少年:うん。Dorling Kindersleyから出てる子供用で一番やさしいやつ(First Children's Encyclopedia (First Reference))から始めたけど、クイズや小ネタが散りばめてあったりして、こっちは結構退屈せずに読めた。

    sample-FCE-digestion.png sample-FCE-Africa.png



    少女:結構分厚いね。

    少年:フルカラーで写真とか説明イラストが各ページ全体を占めてて、文字は添え物程度に散らしてあるだけだから300ページあるけど、あまり時間かからずに読める。同じ出版社から出てるChildren's Illustrated Encyclopediaだと、普通に文字の間にイラストがレイアウトされてて1冊ものの600ページ。もう一つ上のは、Illustrated Family Encyclopediaで2巻もので文字も小さくなって900ページくらい。DK First Children’s Encyclopediaにはドイツ語訳(Das große Kinderlexikon)があるし、同じくらいのレベルだとフランス語ならラルースのMa Première Encyclopédie Larousseがある。


    DK First Encyclopedia1 Vol.Ages 4-8.
    DK How Things Work Encyclopedia1 Vol.Ages 7-12.
    Scholastic Children's Encyclopedia1 Vol.Ages 8-12.
    DK Children's Illustrated Encyclopedia1 Vol.Ages 9 and older.
    DK Illustrated Family Encyclopedia2 Vols.+IndexAges 9 and older.
    Britannica Discovery Library12 Vols.Ages 3-6
    Britannica Learning Library17 Vols.Ages 7-11.
    My Fist Britannica13 Vols.Ages 7-11.
    Britannica Illustrated Science Library18 Vols.Ages 10 and older.






    (日曜、図書館、カウンターの近く)

    司書:何かお探しですか?

    父親:いや、あの、いつも娘がお世話になっております。

    司書:ああ、聞いております。どうぞこちらへ。

    父親:先に〈彼〉のところに行ったのですが、声がかけにくい雰囲気で。

    司書:この時間だと、まだ〈日課〉を済ませている最中でしょう。しばらくするとこちらに来ると思います。

    父親:〈彼〉には先生が手ほどきされたと伺ったのですが。

    司書:先生はやめてください。探しものをいくらか手伝ったことがあるだけです。

    父親:あの、辞書を写すというのは?

    司書:彼が自分ではじめました。箕作阮甫に弟子入りを断られた勝海舟が蘭和辞典を筆写した話や少年時代『和漢三才図会』などを書き写した南方熊楠のエピソードなどからヒントを得たようです。

    父親:はあ、そういえば聞いたことがありますが。

    司書:先人がいかに学んだかを述べた文献には、書物や辞典を書き写すというやり方がよく出てきます。安価な複製手段がなかったのはもちろんですが、人と書物の関わり方でいえば、そうすることが不自然でない時代が長かったのかもしれません。

    父親:書き写すことがですか?

    司書:ええ。筆写は書物の内容を血肉化するためにとられる通常の手法であり、読書のやり方の主たる一つでした。書物を読むことと書くこと、読書と執筆と出版は別のことではありませんでした。中国西晋の左思の詩集『三都賦』が洛陽の紙価を高からしめたのは、出版社が重版したからではなく、人々が争って筆写したためです。私たちが先人から引き継いだ文献はほとんどすべて誰かが筆写することで伝わったものです。彼らは未来の人たちのためよりもまず自身のために書き写したのです。読むことができる人はみな書き写すこともできました。書物は、少数の独占者によって複製され一元的に供給されるというより、次々に筆写されることによって、評判とともに、読者=筆写者というノードからノードへと手渡しされネットワークを広がっていったのです。

    父親:なにか今のネットやソーシャル・メディアの話を聞いているようです。

    司書:写筆者を一箇所に集めて組織化し管理したり、複製技術を独占しようとすることも、書物の歴史と同じくらい古い訳ですから、偏った見方であることは認めなくてはなりません。ですが、人々が各々コピーをつくり他の人に手渡していく光景は、人類にしても書物にしても、はじめて見たものではありません。もちろん書物が広がっていったネットワークは、我々が現在目にしているものよりずっと疎らで小規模でした。書物を書き写すことは、スキャナーにかけるよりは時間も労力もかかることですから。しかし書物を写す作業が可能性としては本を読むことができるすべての人に分散していたからこそ、多くの書物は幸運にも残ったといえるかもしれません。独占的な複製者によって一元的に提供されているなら、ある書物を葬り去ろうという企てはずっと容易に実現したでしょう。

    父親:出版社というか、複製拠点をおさえてしまえばいい。

    司書:ええ。しかし読み手の誰もが複製者になり得るならば、その企てはずっと難しくなります。……おや、どうやら〈日課〉が済んだようですね。二人が来たら、テラスの方へ移りませんか。この話を続けるのにうってつけの、古い樫の木のテーブルがあります。







     
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