少しでも文章を書いたことのある人なら誰でも、滑るように快調に書き進んでいた手がいつしか重くなり、そのうち行き詰まってしまった経験があるだろう。
     そして行き詰まったまま途中で放り出してしまった、未完結の文章がいくつもハードディスクの底に眠っている。
     まだ書き始めていない人が「何をどう書いたらいいのか分からない」というのは、まだ分かる。
     けれど、さっきまで散々書いていた人が、「何をどう書いたらいいのか分からない」状態に陥るのはどうしてか?

     初期の知覚研究が錯覚を研究対象にしたように、あるいは誤答の研究が問題解決の重要な部分を明らかにしたように、「書けない」ことの分析は「書くこと」の本質のようなものに光を当てるかもしれない。

     正解かどうか分からないが、答えの一つはこうだ。



    内なる仮想の読み手

     我々が何か書いているとき、話すときなどと違って、受け手がいま目の前にいる訳ではない。
     つまり話すことと違って、受け手(聞き手)からのリアルタイムの反応を受け取り、それによって何をどのように話すのかについて不断に調整する、といったことができない。
     フィードバックを受け取るために、書き手は、自分の中に仮想の読み手をつくり上げる。
     仮想の読み手は、書き手の内にいるが、機能的には書き手から一応独立している(仮想の読み手は、書き手の言いなりにならない)。
     書き手は、多くは無意識に、自分の内の仮想の読み手の反応を受け取って、何をどのように書くのかを、不断に調整していく。
     これが我々が執筆している間に生じていることである。

     仮想の読み手から得られるのは、多くはネガティブなフィードバックだ。
     「そっちじゃない」「それ、やりすぎ」「そんなのでほんとにいいの?」という否定的な反応があるからこそ、我々が書く文章は、そうひどくは道を踏み外さなくて済む。

     書き手自身の言いなりにならない仮想の読み手を構築するために、書き手は自分以外の言葉や思考や論理やルールや価値観、あるべき理想などを素材としてかき集める。
     仮想の読み手からのフィードバックのおかげで、書くことは真っ暗闇の中をデタラメに走り回るようにはならない。
     書いたものは支離滅裂でなく、完璧ではないにしてもいくらかのまとまりを持ったものになる。

    writeread in the brain

     仮想の読み手は、大げさに言えば、書き手の内側に仮構された社会だ

    あるいは、社会とは、内側に〈仮構された社会〉を持つ人たちによって/彼らのやりとりを通して、構築され維持されるのだと言ってもいい。

     そして、誰でもない仮想の読み手に読まれるように書くからこそ、そうして書かれた文章は不特定多数の読み手に対して開かれたものとなる。
     書き手以外の人にも、書き手がまだ知らない誰かにも、読むことができるものになる(可能性を持つ)。
     書いたものがただ物理的に存続するだけでは、書き言葉は集団や共同体や時代を越えて広がる可能性を持たなかっただろう。
     
     仮想の読み手が、書き手の言いなりにならないことは不可欠なことだが、しかし、良いことばかりではない。

     あなたの心の何処かから浮かび上がる、文章に対する自己否定的な思考や感情はもちろん、言いなりにならない仮想の読み手から生じてくる。
     「小学生向きの小説の書き方」で紹介した、書き手を苦しめ、その自由を奪い、最後には書けなくしてしまう「内なる編集者」もまた、この仮想の読み手の別名なのだ。





    書くことは何故苦しいのか?

     書くことは何故かくも苦しいのか?
     それは、書くことが半ば必然的に自己を分裂させるからだ。

     書く際に、前に進む力も、それを留める力も、我々の内側から生じてくる。
     一方向の情動ならば、我々を翻弄するにしても、我々をかくも激しく引き裂いたりはしない。
     互いに背き合う力が、書くことには必要だ。

     しかし、その力はしばしば、書くことに対して破壊的に作用する。
     書き手を苦しめ、書く手と心に鎖をかけ、すでに書き終えられたものすら廃棄させたりもする。

     事が書くことの本質に根ざすのであれば、回避することはできないのだろうか。
     イエス。
     しかし我々は何もできない訳ではない。


    ではどうすればいいか?

    (1)受け入れる

     一番手っ取り早く効果が高いのが(人気はイマイチだろうが)、仕方がないと受け入れることだ。

     実は、先程までの長い前口上は、そのために(何も失わないという意味で都合の良い解決策を断念するために)書かれている。

     書くことが要請する自我の分裂は〈仕様〉だと認めることは、あまりなぐさめにはならないが、皆が同じ状況にいることを気づかせてくれる助けにはなる
     そして、痛みに必要以上の関心を払うならば楽しむ機会をいくらか失ってしまうだろうということを、思い出させてもくれる。

    自分が本当に凡庸であると認めることは、思った以上に難しい。

     苦痛は決してゼロにはならない。
     が、それが何故かを知ることは、少しは苦痛を耐えられるものにする。
     本当に苦しいのは、苦痛そのものではなく、苦痛が無意味であることだから。

     加えて、ひとつ良い知らせがある。
     このブログでも繰り返し(こことかここで)書いてきたように、不安や恐怖などの悪感情は、回避すればするほど悪化増強する性質がある。
     苦痛を受け入れることは、その反対の結果を生む。すなわち、それ以上ひどくならないという効果が得られる。


     以下に続く、長くないリストの方法は、苦痛を回避するために常用すると逆効果であるという認識を、利用の前提とする。
     
     
    (2)象徴的に殺す

     前に小学生向きの小説入門を書いた時は、こうした書くことについてのダークサイドについては触れずに済ませた。
     過保護で気の利かない、悪い意味での大人的な気遣いだったと思う。
     代わりに内なる編集者を象徴的に殺す儀式を置いた。
     概して、子供は大人より「ごっこ遊び」が得意で、本気で打ち込める。

     これは科学というより呪術に属するアプローチだが、呪術の本質を理解すれば、その効果は予測できる。
     呪術が扱うのは、融通無碍で様々に定義し直せる《状況》という奴である。
     状況を定義し直すことで、事実それ自体は変わらなくても、事実の意味は変わる。

     再録しよう。

     君のなかの編集者を追いだそう

     君が書いたものに、下手だとか、クソだとか、いろいろ言ってくる奴がいるだろう?
     そう、君の心のなかにいる奴だ。

     そいつは男だろうか、女だろうか? 若い?年寄り? 何を着て、どんな顔をしてる?
     姿を想像して、下の箱の中になるべく詳しく描いてみよう。

    InnerEditor.png

     描けた?
     そしたら、切り抜いて4つに畳んで、タンスの奥か、洗濯かごの底か、机の下の引き出しに突っ込むか、なんなら君のペットの犬小屋に預けてしまおう。
     さあ、これでもう、君が書くのを邪魔する奴はいない。



     バカみたいだが、強すぎる「内なる編集者」の力を、一時的にだが弱める効果がある。
     書けなくなっている人が書き始めるには、それで十分なことも多い。
     ポイントは、クソ真面目に本気で取り組むこと。時間は数分もかからない。



    (3)速さで振り切る

     反省的思考は、認知的リソースを消耗するから、それほど素早くはない。
     
     以前、紹介した以下の方法は、内なる仮想の読み手を一時的にであれ置き去りにするアプローチである。



     ポイントは、制限時間を設けることである。

     これも再録しよう。



    (1)このワークに取り組む時間を決める

     1セット15分とか20分でやってみる。
     もっとやりたくなったら、もう1セット繰り返せばいい。

     
    (2)タイマーをセット

     紙(ノート)と筆記具、あるいはパソコンとテキストエディタなど書くために必要なものを準備する。それからタイマーを自分で決めた時間でセットする。


    (3)タイマーが鳴るまで書き続ける

     スタート。自分が決めた時間が過ぎるまで、何でもいいから、とにかく書き続ける。
     
     手を止めてはならない。読み返してはならない。消すなんてもってのほか。
     
     言うまでもないが、書き誤りや句読点や文法、改行や段落なんて気にしない。漢字が出てこないならひらがなでもカタカナでいい。レイアウトなんか犬に食わせてしまえ。

     しつこく言うが、文章を評価するあらゆる基準を無視すること。
     パクリ、月並み(クリシュ)でどこが悪い。
     筋道立てる必要だってない。さっき書いたことと、今加工としていることが、いやそれどころか主語と述語がチグハグだって、単語の繰り返しだって構わない。
     〈自己満足〉なんて僥倖(すごいラッキー)は期待するな。不満足のまま進め。
     っていうか考えるな。ひたすら言葉を吐き出すのだ。
     

    (4)もうだめだ、書くことがない、となったら

    「もうだめだ、もう書くことがない」と書け。なんでこんなことしなきゃならないんだ、と思ったら、そう書け。とにかくタイマーが鳴るまで手を動かせ。


    (5)ヤバイところに突き当たったら

     怖い考えやヤバイ感情に突き当たったら(高い確率でそうなる)、「ようやくおいでなすった」と思って、まっすぐ飛びつけ。少なくとも書こうとせよ。
     おそらくは、それが書くことを邪魔してるメンタル・ブロック(か、それにつながるもの)である。
     同時にそれは、どこかで聞いてきたようなお行儀のいいコトバ以上(以外)を書くためのエネルギーの源泉になる。




    (4)思考を離れ感覚にもどる

     手の動きが止まり、指先から生まれる言葉より、頭の中をぐるぐる回る言葉が上回りだしたら、それをねじ伏せようと頭がヒートアップしてますます訳が分からなくなるなったら、スイッチを切り替えるために感覚に戻る手がある。
     
    ・涼やかな音がする小さな鐘を用意しておいて、その音に耳をすませる
    ・もふもふしたものを両手の中につつんで、もふもふする
    ・匂い袋を用意しておいて、匂いをかぐ

     そうして文章に戻る際にも、感覚器官が受け取った刺激を言葉に変換する一種の機械になったつもりで、言葉をしばらく出力していく(不要なら後で消せばいい)。
     自分の内側に言葉を探すのでなく、刺激を言葉に逐語変換するような感じで。

     慣れると、外部の刺激なしにも〈感覚器官モード〉に切り替えられるようになる。



    (5)アクターを増やす
     
     書き手としてのあなた v.s. 内なる仮想の読み手

    という1対1の関係が煮詰まる原因だとすれば、そしてどちらも取り除く事ができないのだとすれば、関係を変えるためにできるのは、減らすより増やすアプローチということになる。
     事態はよりややこしくなるので、書くために使える認知リソースが余分に消費される欠点があるが、しかし場合によってはデッドロックを回避する妙手になる可能性がある。
     

    (a)特定の読者を想定する
     ある意味、伝統的に活用されているアプローチである。
     不特定多数のまだ見ぬ読者を代替するのが〈内なる仮想の読み手〉だとすれば、ひとつの方法は、特定の読者を想定してその相手に向けて書くことである。特定の読者を味方につければ、〈内なる仮想の読み手〉からネガティブな反応が返ってきても「いや、こういうのが〈特定の読者〉は好きなんだ」「こういうのを求めてるのだ」と反論できる。
     利点はそのまま欠点にもなり、うまく扱えなければ、〈内なる仮想の読み手〉と〈特定の読者〉がタッグを組んで、書き手のあなたを責めさいなむこともあり得る。

    (b)架空の書き手を導入する
     読み手でなく書き手の方を増やすアプローチである。
     例えば誰か特定の人物のゴーストライターをやっているという想定で文章を書く。
     稚戯のようだが、本当のあなたなら書かない(〈内なる仮想の読み手〉が許さない)ようなことも書くことができるのに気付くだろう。
     これもまた文学では伝統的なやり口である。


    (参考文献)
     
    〈内なる仮想の読み手〉というアイデアは、岡本夏木『ことばと発達』やG.H.ミード『精神・自我・社会』を参考にした。

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