「委員長、おはよう。これすごくよかった。またおもしろい本あったら教えて」
    「同じ人が書いた短編集ちょうど持ってるよ。持ってく?」

    「委員長、ごめん。こういうの好きじゃないの分かってるんだけど、どうしても渡してくれって頼まれて」
    「部活の先輩? それは断りにくいね。うん、大丈夫、ちゃんと返事するから」

    「委員長、また試食してくれる?今度こそ失敗してないと思うんだけど」
    「うん、これなら。ラッピング? この前行った製菓材料店の近くにいいお店あるよ」

    「委員長、昨日の委員会で会長にマジ切れしたって本当?」
    「うそうそ。確かにちょっとやり合ったけど」

    「委員長、助けて、今日のリーダー、超長いとこ当たりそうなの」
    「そういう時は夕べのうちに電話しなって。ノート見る?」

     始業のベルが鳴って、みんなが席に戻っていくと、いつものやり取りを見ていた隣のワタナベさんがため息をついて呟いた。
    「委員長、あたし、あんたみたいな子、ほんとは苦手なんだけどさ」
    「そこは『嫌い』でよくない?」
    「そう、そういうとこ。毒混ぜたじゃれ合いできるの、あんただけなんだよね。この学校、いい子ばっかりでさ」
     そう言っていつもの皮肉っぽい笑みを浮かべる。それが同じ歳と思えないくらいに似合っていて、お陰で私もあまり遠慮せず毒が吐ける。
    「それは見る目がないね。案外曲者揃いだよ、ここ」
    「あたしが興味あるのは、そういうあんたが、何でクラス委員なんて雑用係かってでているかってこと。何たくらんでんの?」
    一枚かませろ、とでも言いたげに愉快そうに言う。もちろん返事は期待してないんだろう。
    「精神修養?」
    「死ねや」
     ドアが開く音がして、ワタナベさんは視線を外して前に向き直った。私も座り直して背筋を伸ばす。
     リーダーの先生が教室に入ってきた。
     さあ、今日最初のお仕事だ。
    「起立、礼、着席」


     中学に入って最初のホームルームでクラス委員に指名された。
     女子は私、男子は入学式で代表挨拶をしたあの子。
     噂では入学試験主席の子が選ばれるというんだけど、担任に指名されたあの子は、見るからに影が薄くて、何も言わなかったけれど、どこか迷惑そうだった。

     何というか、悪い予感は最初からあった。
     基本的に人と話さない。人の輪に入ってこない。というより、気付くと教室にいない。居るときは、机に突っ伏して寝ているか、何か読んでいて、話しかけても気付かない。
     学校はいろんな人が来るところだから、人付き合いが苦手だとか面倒だというのもありだとは思う。けれど、クラス委員の仕事となると、やっぱり問題あって、実際のところホームルームの議事進行、クラス行事の企画運営、担任とのやり取りなんかは私が全部やることになった。委員二人で、ホームルームだと議事進行と書記役、運営だとリーダーと補佐を交代していくのが普通のやり方だったけど、あの子は必ず口を開かなくてよい方や前に出ないでよい方に回った。やる気の無さは誰の目にも明らかだった。
     「なんだ、こいつ」と思ったけど、本人に詰め寄るのも面倒なので先延ばしにしていた。正直にいうと、積極的に関わる意欲が沸かなかった。悪い言い方をすれば「いてもいなくてもどうでもいい奴」というカテゴリーに入れていた。
     それに、クラス委員だからと先生たちから非正規に振られる雑用は、その都度、目についたクラスメイトにどんどん頼んで、手伝ってもらった。普段からよく見ていると、どの子にどんなことならやってもらえそうか、自然と分かってくる。引き受けてもらえば、普段交流のない子とも話をする機会ができる。委員二人の内一人が「消えて」いるのは、すぐにクラスの共通見解みたいになったので、大抵のクラスメイトは苦笑いしながらも頼みごとに応じてくれた。
     
     
     あの子のことを思い出したのは、ある日のお昼休みだった。
     その頃になると、週に何日かは教室ではなく、ワタナベさんと食堂で食べることにしていた。
     「あたしといると人払いになるからね」
     ワタナベさんは笑って自分のランチボックスを開いてこっちに向ける。
    「また、そういうこと言う」
     私は怒ってみせながら、一番おいしそうな卵焼きをつまむ。楽しみにしてる、おかず交換の儀。
    「あー、気にしないで。わざとだから」
     ワタナベさんは、私のお弁当箱からハンバーグを選んだ。口に入れてもぐもぐした後、顔をしかめる。
    「だめ?」と思わず聞いてしまう。
    「そうじゃない。……ひき肉から自作かよ。あんたはもう努力すんな。遺伝子にあぐらかいて左うちわで暮らせ。おかわり」
     そう言ってワタナベさんはもう一切れさらっていく。
    「ワタナベさんこそ、この卵焼き、新作だよね。ちょっとカレー粉入ってる」
    「食べさすと表情くるくるの変わるが面白くてね。いろいろ冒険してんの」
    「失敗に当たったことないけど」
    「そういうのは親父と弟行き」
     二人でひとしきり笑って、食事を続けていると、男子が一人近づいてきた。上履きの色からすると2年生。顔を覚えるのは少し自信があったけれど思い出せない。頭のスイッチを切り替え、仮説を3つ立て、2つを消去した。
    「えーと、ひょっとして丸山先輩ですか? ごめんなさい。今、友人と食事中なんです。必ずお返事しますから、今はいいですか?」

    「けんもほろろにやっちゃって。良かったの?」
    とワタナベさんは少しも気にしてない風に言った。
    「気分を害したのは認める。ちょっと大人気なかった」
    私の方はまったく気にしてない訳じゃない。
    「食事の時間は神聖って、あんた軍人さんか?」
    「違うけど、こうしてる時間の方が大事なのは本当」
     ワタナベさんは大げさにため息をついてみせた。
    「あれ、今朝、押し付けられてた手紙の主?」
    「そうみたい」
    「あの先輩、泣きそうだったよ」
    「まさか」
    「前言撤回する。人払いはあんただった」
     ワタナベさんは多分わざとさっきの話を蒸し返した。私はちょっとむっとする。おかげで少しの間自己嫌悪から解放される。私の表情が変わったのだろう、ワタナベさんはにやりと笑って、それを教えてくれた。こういうとこ、かなわないな。
    「あんたがそういう話、嫌いなのはみんな知ってるからね。おかげであたしも無事でいられる」
    「どういうこと?」話が飛んでない?
    「あたしみたいなアウトカーストがハブられもせず、クラスで生きてられるのは、お弁当いっしょするくらいには、あんたのお気に入りだから」
    「……」
    「世界滅ぼしそうな顔すんな、消化に悪い。あー、あたしが悪かったから、そうだ、お詫びにひとつ愚痴でも聞いてあげよう」
    「愚痴?」
    「そこで不思議そうな顔されるとむかつく。なんかあるでしょ? そう、相方の幽霊クラス委員のこととか」
    「ああ。結果的になんとかなってるから、半分忘れてた」
    「やっぱり素でひどいね、あんた」
    「男子の情報が入ってこないのは気になってるけどね。ホームルームみたいな表の場には出てこない流れをつかんでないと判断を誤る場合があるから」
    「まあ、普段あれだけ女子に囲まれてたら、男子から情報取る暇ないか」
    「それもあるけど、男子に話しかけると変に緊張されるんだよね。頼みごとは引き受けてもらえるんだけど」
    「変に、って、あんたね」
    「小学校の時は男子とももう少しうまくやれた気がするけど」
    「ガキだったからよ」
    「中学生だってガキでしょ?」
    「色気づいたガキとそうじゃないガキ。天と地ほど違うわ。前から言おうと思ってたんだけどさ」
     ワタナベさんはお箸を置いて腕を組み、こっちを見た。
    「なあに?」
    「あんた、小さい時、男の子とばっかり遊んでたでしょ?」
    「……うん」
    「それも結構大きくなるまで」
    「小4まで、一人称『俺』でした。……実質、ガキ大将というか」
    「昭和か!? あんたの近所は土管付き空き地完備の藤子空間か?」
    「いろいろ限界感じて、小4でやめたんだけどね」
    「ふーん。で、ジャイアンから出来杉君にジョブチェンジしたわけか」
    「どんだけ藤子不二雄好きなの?」
     私は苦笑した。混ぜっ返したつもりだったけど、ワタナベさんは乗ってこなかった。かわりに視線を外して、窓の方を見たまま言った。
    「気をつけな。ままごと遊びをスルーしたあんたには、その辺の経験値欠けてるから」
     ようやく何かが頭の中でつながった。いつものようで、どこか違う物言い。言葉の奥にあるもの。手を膝において、背筋を伸ばす。
    「……ワタナベさん。何かあった?」
    「何かって、何が?」
    「いくら女の子に揉まれた経験がないからって、友達がひどい目にあったかどうかくらい分かる」
     私の言葉に頭を振って、ワタナベさんは肩をすくめて、こちらを見た。
    「迷わず直球かよ。……ああもう、分かったよ。個室から出てきたとこトイレで囲まれて『勘違いするな』とか、やられただけ」
    「ちょっと、それ!」
    「待った、最後まで聞け。『何のことか分からないけど、知り合いにこういうの大嫌いな子がいるから、今度聞いてみるわ』って言ったら、モーゼが海を分けるみたいにさっと引いたよ。勝手に名前使ったみたいで悪かったね」
    「……誰が、とか、詳しく聞いても答えないんだね?」
    「答えない」
    「なんでワタナベさんがそんな目に遭わなきゃなんないの?」ー「何で、そんなこと」
    「……それが分からないのは美徳だけどね。あんた、人に嫉妬したことないでしょ?」
    「あるよ、もちろん」
    「いま、こうして、あんたと差しでお昼してることを、羨ましく思ったり、『それもなんであんな奴が』と歯ぎしりしてる奴がいるなんて、想像の外でしょ? あ、そうそう。うちのクラスにもう一人、アウトカーストのくせにあんたとペアになってる奴がいるよね?」


     事件は数日後の放課後に起こった。
     その日は家の用事で学校を休んでいたのだけど、予定外に早く用事が済んだのと、次の日の委員会で使う作りかけの資料を教室に忘れていたので、着く頃には授業も終わってるだろうと思いながら、私は学校に向かったのだ。
     
     最初から見ていたわけじゃないので事の経緯はわからなかったけど、私が教室に入ってきた時には、クラス委員の片割れであるあの子が、クラスメイトの4、5人に取り囲まれて激しく罵られていた。
     遠巻きにそれを見ていたクラスの他の子たちが先に、その日休んでいたはずの私が入ってきたのに気づいた。
     ちょっとまずいよといった囁き声が聞こえたけど、あの子を取り囲んでる人垣まで伝わるには少し時間がかかったようだった。
     仕方なく私は声をかけた。
    「ちょっと、なにやってるの!?」
     輪を作っていた中の何人かが振り返り「やばい」という顔をした。
     でも、気まずさとかバツの悪さを隠そうとしてか、その子たちから出たのは別の言葉だった。この、何もやらないクラス委員に意見してやってるんだ、とか、挙句の果てには、私のためにかわりに言ってやってるんだ、みたいなことを言い出した。遠巻きにしていた中にも、うなずいてる子が出てきた。
     
     私は怒っていたと思う。
     実際、お腹の中で何かが煮えたぎって喉から飛び出そうな気がしてた。
     ワタナベさんのことがなければ(そして彼女の忠告がなければ)、人垣に飛び込んで2,3人窓から放り出したくなっていただろう。
     ワタナベさんはジョブチェンジと言ってくれた。私は努めて頭を冷たくする。ガキ大将時代、負けん気とケンカ早さだけが売りだったけれど、あれから言葉と状況判断は磨いてきたはず。
    「そう、わかった」
    落ち着いて、そう言えた。届くところにあった机を軽く叩いて前に出る。響くほどじゃないけど、みんなは私を見た。私は大きく息を吸った。
    「確かに!」
    さあ、一気に言う。
    「私も、そのクラス委員の片割れ君には言いたいことがあるけど、何をいつどこでどう言うかは、私の好きにさせてくれない? 私抜きの話なら、教育的指導だろうが袋たたきだろうがお好きにどうぞ。もちろんその場合は、クラス委員としての仕事をさせてもらうけど、どう?」
     このクラスでこんな真似は、金輪際これっぽっちだって許すつもりはない、というつもりで、お腹で声を支えて言った。
     視界の端に、目をそらして震えている女の子たちが写る。多分、彼女たちとはきちんと話をしないといけないけれど、今は放っておく。
     
     囲んでいた一人ひとりの顔を見るまでもなかった。
     一人離れ二人離れて、人垣がなくなると、その向こうに涼しい顔をして本から顔も上げない片割れ君がいた。これじゃ怒りに油を注ぐのも無理ない。
     私だって、今まで吊るし上げられたこの子に同情心のひとつも沸かないでいる。
     それでも、クラスのみんなは私を見ていた。この事態をどう処理するかを見ているのだ。今日ここで決着はつけないといけない。誰かに振るわけにもいかない。
     私はそのまま近づいていって、指で机をトントンと叩き、あの子の顔を上げさせた。
    「君と話がしたい。邪魔が入らなくて誤解の生じようのない場所がいいね。……生活指導の先生に言って指導面談室を借りよう。読書の時間を潰して悪いけど、ついてきて」
     クラス中に聞こえるように言って、私は教室の出口に歩き出した。


     事態をクラスの取り囲み有志一同から取り上げるために、「生活指導」「指導面談室」という言葉を出して、話を大事(おおごと)かつ公事(おおやけごと)にした。
     次は、私に取り扱えるまで小さくする。
     誰かに立ち会ってもらった方がいいのだけど、邪魔はされたくない。
     生活指導部へは行かず、職員室で担任を呼び出した。
     他の先生には聞こえないように低い声で「とうとうこんなことになりました」と、最初の指名に問題があった的なニュアンスを匂わせつつ、今あった事の顛末を簡単に伝えて、かぶせるように「どこか話ができる場所を借りれませんか」と言い添えた。多分、これでいけるはず。
     担任は白衣のポケットの中に手でつっこみ、鍵を鳴らした。
    「社会科準備室でいいか? あと30……25分か。職員会議があるから、それまでなら」


     3人で会議室へ。部屋に入るなり、
    「それで、まず二人で話したいんです。先生はそこにいてくれますか」
    と言って、廊下側の席を指差した。
     担任が腰を下ろしたのを見て、私たちは窓際の席を選んで座った。

     さて、どこから始めようか。
    「まず、何があったか聞いていい?」
    「……ぼくの証言だけだと、一方的にならないか?」
     少し呆れた顔であの子は言った。変なことを気にするなと思ったけど、こっちはあまり気に留めなかった。
    「どのみち事は一方的だったように見えたけど。それに私が話をしたいのは君なの」
     顔を覗き込むと、あの子は目をそらして窓の方を見た。視線はどこにも止まらず、記憶を巻き戻している感じだった。
    「……最初は『ちょっと話がある』だったかな。誰が言ったかまで分からない。それが合図だったみたいで、あちこちからさっきの5人が机のまわりに集まってきて」
     事前にそういう打ち合わせをしてたってことかな。×いつかこの手のことが起こるかもと思ってたけど、関心薄かったとはいえ、そういう動きに気づけなかった私もまだまだ甘い。
    「うん、それで」
    「最初は、委員長が……って、君のことだけど、クラス委員の仕事を委員以外の人間にやらすは何故だか分かるか、と聞いてきた。黙ってると、お前がそんなだから、って。それが口火になって、何考えてるんだ、とか、やめろとか、お前にやらすくらいなら、という子もいた。このあたりで君が戻ってきた」
    「そう。委員の本業以外の雑用を振ってるつもりだったんだけど、そんな区別までしないか、普通」
    「いや、あれは口実とか言い訳の類だと思う。ああなったのは、ぼくの態度が、あの子たちの神経を逆撫でしたせい。自分でも委員長らしくやれてるとは思わないし」
    うなずくかわりに私は別のことを言った。
    「委員らしくないのは仕方なくない? 一年生の一学期なんだし、正式に決められるようになるまでの暫定みたいなものでしょ?」
    「……ところが、暫定で決められたうちの、僕じゃない方の委員は、もう何年もやってるみたいに辣腕を振るう、定冠詞をつけたくなるような委員長だった」
     教科書を朗読するみたいな口調で、あの子は続けた。
    「普通なら、影の薄いまま、次の委員が決まれば最初は誰だったかなんて、みんな忘れてくれたと思う。けど光が強すぎて、影も濃くなってしまった」
     まったく。悪い予感は最初からあった。
     不慣れで身の丈越えた役目を押し付けられて、フリーズしてすべてに逃げ腰になっているというなら、手の出しようがある。でも、これは違う。
    「やっぱり、消えてるのは、わざとなんだ。で、理由も教えてもらえるの?」
    「時間が惜しい」
     即答だった。
    「それだけ?」
    「いけないか?」
    「うん。そうやって総スカンくらって君が被る悪評と、犠牲になる学校生活すべての時間に比べれば、全然割にあわない。……だったら、最初から降りようとは思わなかったの?」
     あの子は首を振った。
    「学校が決めたことに逆らうのは労ばかりで益がない。抵抗したこともあるけど、成果は数日就任が遅れるのとクラスメイトの白眼視が強くなるくらいだった。批判はどっちにしろ甘受しなきゃならないなら、これが僕にとっては最短の手なんだ。……君には迷惑かけて悪いけど」

    「そう、なんだ」
     ゆっくりそう言って、私はあの子がこっちを見るのを待って続けた。
    「正直……迷惑うんぬんはどうでもいい。今まで委員の仕事が負担だったことはないし、負担になっても切り抜ける手くらい、いくらだってある。そう、迷惑とか、できるできないの話だったら、ここまで腹立たない」
     予感が的中して、私は大いに不機嫌だった。
    「最初からいろいろ諦めてるみたいだけど、身を低くして何ヶ月か耐えさえしたら、後は周りがよろしく計らってくれるだろうって、あんた何様? 自分の評判って対価払ってるから、何やってもいいって思ってる? 事情とか理由があるなら、まずそれを説明するのが筋でしょう。それでどうなるかはその次の話。満足いかない結果なら、また次の手を打てばいい。どれだけ先が見通せるつもりなのか知らないけど、周囲の期待や理解が間違ってるからって、折り合いつけるためにあんたがしたことと言えば、どうせこんなもんだろうと周囲を見下して、決めつけて、どうしようもない選択肢しか残らないことに甘んじてるだけ」
    「誰もが君みたいに、主張できたり意思を通したりできるわけじゃない!」
     あんたに何が分かると言いそうになった。でも言わない。言うとしても今じゃない。
    「もし……君が言うようなことが私にできるって思うなら、どうしてその力を自分のために使おうと思わないの?」
    「何言ってる?これは僕の問題だ」
    「自分ひとりで考えて自分ひとりで打てる最善の手のつもりだろうけど、それが悪手だって言ってるの!」
    「大きなお世話だ! どっちが見下して決めつけてるんだ」
    「別に君に何かしてあげたいわけじゃない。思考停止して石みたいにずっと変わらないルートに入ってるのに気づきもしない馬鹿にむかつくだけ。それに二束三文でたたき売られそうな君の学校生活が可哀想。もっと他の子に与えられてたら、どれだけ貴重な3年間になったかもしれないのに」
    「何も、知らないくせに!」
    「そうよ、知らないわ。だって君は誰にも何も教えてないじゃない」
    「そこまで言うなら……教えてやる。来い」

     私たちは立ち上がった。望むところだ。
     言い合いが始まって、どのタイミングで割って入ろうか決めかねていた担任に、先制して声をかける。
    「ちょっと、行ってきます。後で報告に上がりますから職員室に戻っていてください」
    「い、行くってどこへ?」
     私はあの子を振り返る。
    「どこ?」
    「図書館」
     短く答えて、あの子は先に会議室を出ていった。
    「だそうです。大声出さなくて済みそう」
    と、にっこり担任に笑ってから、私も社会科準備室を出た。


     早足で向かうあの子に追いつき、横に並んだ。
    「そう言えば、教室からよく消えてるのは、いつも図書館へ行ってるの?」
    「そう」
    「一度行ったことあるわ。図書室じゃなくて図書館っていうから期待したけど」
    「あれでもこのあたりの中高じゃ一番ましな蔵書なんだ。小さくてびっくりした?」
    「そこまでじゃないけど、公立図書館に比べるとね。読みたいと思った本、探してなかったから。……何か一言ありそうね」
    「そんなものはないけど。でも、小さいからできることもある」
    「ん?どういうこと?」
    「多分見せた方が早いと思う」

     図書館は本校舎から中庭に出て奥に進んだ途中にある。
     その前まで来て立ち止まり、あの子は私を振り返った。
    「ここに何冊の本があるから知ってる?」
    「知らない」
     軽くてもため息をついて、あの子は続けた。
    「ざっと6万冊。うち開架されてるのが4万、残りは書庫にある。市町村立の公立図書館だと蔵書数何十万冊というところも珍しくない」
    「蔵書数だと及ぶべくもないのは、よくわかったわ」
    「もっとも上下の差は大きくて市町村立の公立図書館の3割は5万冊未満の蔵書しか持たない。それともう一つ。新規に購入できる書籍の数はここの図書館で年間で1500冊、公立図書館でも平均で年間8500冊。一方、日本で一年間出版される書籍は8万点ある。新刊書が読みたいなら素直に書店に行くべき」
     これは、さっきの私の「読みたいと思った本がなかった」を受けての発言だろう。むかつく。
    「こっちだ」
     私たちは入り口横のカウンターのまえをとおって、その奥にある検索ブースについた。
    「座ってて。ちょっと取ってくる」
     そう言ってさらに奥にある低い書棚から分厚い本を取ってきた。
    「その本は?」
    「『出版年鑑』目録・索引巻の去年の分。去年日本で出版された本が全て載ってる。どのページからでもいい、無作為に選んで」
    「ん? 本のタイトルを言えってこと? ...じゃあ、『高校生のためのアドラー心理学入門』」
    「ない」
    「なに言ってるの?」
    「コンピューターで検索できるから確認してくれていい」
    私はキーボードを叩いてリターンキーを押した。検索。確かにない。でもさっきの話が本当なら、去年出版された書籍がこの図書館にあるのは1500÷80000なら2%を切る確率になる。ふん、割のいいギャンブルじゃないの。
    「じゃあ、『南太平洋の剛腕投手』は?」
    「それもない」
     私は検索で確かめるふりをして、短いキーワードを入力し出てきたタイトルの一つを記憶した。
    「だったら『南太平洋のサンゴ島を掘る』」
    「ある。274.3。Dの島の2つ目の棚、一番下の段」
     私はあの子を見た。あの子は私に背を向けて立っていた。手元は見てない、ということだろう。いいや、次だ。
    「『世界を変えた100冊の本』」
    「それは019.9。Aの島の2つ目の棚、一番上の段」
    「『世界を変えた100の本の歴史図鑑』」
    「そっちはない」
    「……じゃあ、『倒立する塔の殺人』」
     私がここで探して見つからなかった本だ。
    「それはない」
    「『第七官界彷徨』は?」
    「そっちはある。913.6-オサ、Lの島の右から2つめ棚の上から二段目」
    それは私が借りた本だった。
    「『書記バートルビー/漂流船』」
    これも見つからなかった本。
    「それはないけど、叢書バベルの図書館に『代書人バートルビー 』って別訳がある。Lの島の右から1つめ棚、一番上の棚。908.3-バベ-9だ」
    「ちょ、ちょっと待って。手品とかゴールドリーディングの類じゃないっていうのなら、君は……この図書館の本をぜんぶ覚えてることになるんだけど」
    「まさか。開架書棚にある本のタイトルと著者名と図書分類コードを書き写しただけだ」
    「......だけって、うそでしょ。どれだけかかるとおもってるの?」
    「一冊あたり50文字だとすると600冊分写すと5万字、1分250字入力できるなら2時間かかる。4万冊あるから平日2時間、足りない分は土日に5時間つかって、結局2ヶ月かかった」
     あの子はポケットの中から折りたたみ式のキーボードのようなもの(ポメラっていうらしい)をとり出し見せてくれた。
    「参考図書の棚から始まってる。こっちは1000冊ぐらいだから目次も写した」
     あの子はポメラと交換するように『出版年鑑』を受け取り、低い書棚の方ヘ歩き出した。私は追いかける。
    「これが小さい図書館だから、できること? ……聞いていいんだよね。いったい何のため?」
    「うーん……紙の辞書は使ったことある?」
    「もちろん」
     あの子は書棚の前で立ち止まり、私の方を向いた。
    「ここが参考図書の棚。調べもののための本が揃ってる。辞書とか書誌つまりブックリストみたいなものだね。棚の背が低いのは、重い本が多いから机まで持っていかなくても、こんな風に棚の上で本を広げて使えるようするため」
     あの子は『出版年鑑』を棚に戻すと、棚に沿って少し移動して、同じくらいの大きさの辞典を棚から取り出してきた。
    「例えばこの『新社会学辞典』は1726ページある。真ん中のページは862ページと863ページだけど、ここに載ってる見出し〈せいちよ〉から〈せいとあ〉までで、項目だいうと《成長の限界》から《制度アプローチ》になる。どのあたりにどの項目が載っているのか、こういうのが体で分かっているのといないのとでは辞書を引く速さが変わってくる」
    「それはなんとなく分かるけど」
    「何冊かに分冊されてる大型の辞書ならなおさらだ。それに50音順やアルファベット順ならまだ検討もつけやすいけど、漢字だったら? 例えば、ここにある『大漢和辞書』は索引巻を除いても12分冊もある」
    「えーと、だから索引があるんじゃないの?」
    「そのとおり。一字に時間を掛けられるならそれでいいし、何の準備もなしに調べる必要が出てきた場合はそれで仕方がない。でも、たくさんの字を繰り返し調べるとしたら? そのための準備ができるとしたら?  例えば漢文で書かれた資料をたくさん読まなくてはならない人たちの間では、字を見て『大漢和辞書』のどの巻に載ってるか瞬時に判断できて自然にその巻に手が伸びるようでないと、漢文を読めるようにならないと言われてる」
     そう話ながら、あの子は次々に『大漢和辞書』の4つの巻を取り出し、次々に棚の上で開いていった。それは、まるで自分の部屋のドアを開けるみたいに無造作に見えた。
     思えば、人が辞書を引いているのを、じっと見ているなんて初めてだった。
     あの子は不本意そうにちょっと顔をしかめて、ページを何枚かめくってから、私を手招きした。4冊の辞書には、並べると私の名前になる漢字のページが開いていた。
     私は呆れていた。
    「この辞典も写したのね」
    「親字だけだけど。約5万字だから、1日2500字ずつ写して、こっちは20日間かかった」
    「つまりこれと同じことを、この図書館相手にやったってこと? この場所を使い古した自分の辞書みたいにするために」
    「これから毎日使うものだから、真っ先にやっておきたかった」
    「一度書き写しただけで、覚えられるものなの?」
     あの子は残念そうに首を振った。
    「そんな記憶力があるなら別のやり方してる。ただ一度自分の体を通っているから、聞けばあるかないかくらいは分かる。どのあたりにあるかも、何となく思い出せて、足が自然に向かう程度でしかない」

     時間が惜しい、といったのはこのことだったのか。
     同じことが私にできるだろうか。
     この子より時間がかかるだろうけど、本のタイトルを写すことならできるかもしれない。覚えきれるとは思えないけど、少しは記憶に残ったりするのかもしれない。
     けれど、私にはできるとは思えなかった。やろうと思えないし、たとえ始めてもやり通せそうにない。他にできそうな人だって思いつかない。
     あの子の話を聞きながら、私はもう一度、結局答えをもらえてない質問を考えた。
    「いったい何のために?」
     そう、そこだ。
     何より私には無理だと思うのは、そのことに意味が見い出せないからだ。
     この先この学校で(ひょっとするとその先のどこででも)、誰とも交わらず一人ぼっちで過ごすことに引き合う何が、図書館の本棚を書き写すことにあるんだろう?
     不意に、昔読んだミステリーを思い出した。特に不自由のない軟禁生活から外の世界に出る自由を得るために、密かに生んだ自分の娘の命も、十何年かけて育てた時間も、平気で犠牲にしてしまえる女性の物語。トリックはたわいもないものだったけど、それを可能にする犠牲の大きさと、その大きさに頓着しない犯人の収支計算のひっくり返り加減に、クラクラしたのだ。
     莫大な時間や円満な学校生活を犠牲にする代わりに、この子が手に入れるのは、たかだか図書館のどこにどんな本があるとか、どの項目が辞書のどこに載っているかがすぐに分かる、ということだけだ。
     私が持つことのできる感想は、「私には理解できないけど、君にとっては何より大事なことなんだね」というくらいだった。
     私はその言葉を飲み込んだ。
     私にも、他人に理解されそうにない大切なことがある。
     今思いついたのは、そんな私が一番聞きたくない言葉だと思った。
     この子もきっと、時間をつぎ込み自分が打ち込んでいることが、そう言われる類のことだと知っている。
     だから本当は、自分が何を何のためにやっているか説明するつもりなどなかったのだ。

    「あとひとつだけいい?」
    「なに?」
    「指、見せて」
    「え? ああ、まあ、いいけど」
     あの子は両手を広げて、前に突き出した。
     私はその十本を手にとってジロジロ見た。辞書引きタコがあるわけでもなくて、指紋が擦り切れて消えているわけでもない。
    「普通だね」
    「変なのは君だろ」
     あの子はひったくるみたいに自分の手を取り返した。


     
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