この巻では座談会が読める。

     対談や座談会は「安易な企画」であると信じられている節がある。確かに文
    芸雑誌には毎号毎号そういうのが載っていて、「文学の可能性」だとか何やら
    ご大層なテーマがタイトルになっていているのが常である。本当にタイトルだ
    けみてたら、めちゃくちゃ大きな「問題」をやっつけているのかと、思ってし
    まう。しかも毎号毎号そうなのだから(そして内容がアレなのだから)、確か
    に「安易な企画」であると信じてもしかたがないところがある。

     露伴の「座談会」のタイトルを並べてみる。

     ・幸田露伴氏に物を訊く座談會
     ・釣の秋漫談會
     ・市島春城・幸田露伴 両翁を中心とする座談會
     ・幸田露伴先生を圍んで
     ・日本文学に於ける和歌俳句の不滅性
     ・露伴翁夜話
     ・言語と文学の間の溝
     ・新春を壽ぐ
     ・對談
     ・露伴翁と語る

     ここにあるのは圧倒的なテーマの欠如である。同じことだが、ここに圧倒的
    に欠けているのは、テーマである。実際、テーマらしいテーマがあるのは(そ
    して今日の雑誌の対談テーマに似ているのは)「日本文学に於ける和歌俳句の
    不滅性」と「言語と文学の間の溝」ぐらいのものだ。
     しかし「言語と文学の間の溝」は正確には対談ではなく、岩波書店の記者の
    インタビューである。つまり記事を作りたい(聞き出したい)方にテーマがあ
    るのである。タイトルだって、記事を作りたい方が作ったのである。
     「日本文学に於ける和歌俳句の不滅性」については、この座談会にかろうじ
    てテーマが存在しているのは、斉藤茂吉が出席しているからであり、またただ
    それのみによるのである。テーマが服を着たような斉藤茂吉をもってしても、
    この座談会に存在するテーマは微々たるもので、全発言中テーマにからんでい
    るのは斉藤茂吉の発言だけなのである。

     いったい「幸田露伴氏に物を訊く座談會」などというタイトルの座談会に
    テーマがあり得るだろうか。
     「新春を壽ぐ」「對談」などはいわずもがなである。
     「幸田露伴先生を圍んで」に至っては、めずらしく上京した谷崎潤一郎を囲
    んで友人が集まってみたが、それだけではどうしようもないので、露伴のとこ
    ろへ行ってみた、というものである。露伴が出れば、一応「雑誌の座談会」と
    して格好がつくだろう、そうすれば雑誌の金で飲み食いできる、とでもいった
    会なのである。
     だから話のはじまりなんかもこんな調子だ。「横っつらをはられた本たち」
    みたいな書評本でどこかのバカが「この本を読まない人間は国際社会で生き残
    れない」といってた、『風土』を書いた和辻哲郎が露伴に尋ねる。

    和辻「鰻は太平洋の真ン中からやつて来るといふことですが、さうなんでせうか」
    露伴「太平洋といふ説はあるが、真ン中といふのはどうでせふね」


     どうでもいい話である。

    和辻「鰻が日本で子を生まないとすると、養殖はどうしてやるのですか?」
    末弘(厳太郎)「その小さい鰻の子を捕へて来て育てるのです」
    和辻「鰻といふものは地べたの中を歩くと云ひますから、養殖してもどんどん脱出しさうなものですが」
    露伴「餌が無ければ逃げちやふでせう」
    和辻「地中へもぐり込んで逃げるのですね」
    露伴「地べたにもぐり込むどころではない、あいつはどんどん溯上します。溯上する時はあれですよ、陸(おか)をね、山間などでは陸の上を匍つて歩くのです。それですから陸で捉まへることが出来る。草の露のあるやうなところをね、その先に湖水や何んかがあるといふことをどうして知つて居るものか、行くんですね」


     おれがわるかった、かんべんしてくれ。

     露伴の知識と語り口を堪能するには、べらんべ調の俳句話、『露伴俳話』(講談社学術文庫)がある。
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