この文章は、おそらくコードや技術的文書を書く人たちならポエムと自嘲する類のものであるが、詩人に「舐めてんのか」と恫喝されるのも面倒なので、綱領のようなものだと言い張ってむしろプログラムと呼び、加えて大風呂敷とルビをふるつもりでいく。
     第一に自分のような頭の悪い人間が何をやっているのかを知るために書いた。
     第二にこれはネイティブ広告のつもりである。昔から人を引き寄せようとすればするほど遠ざける性分であるから、むしろ営業妨害となっている恐れがあるのだが、案の定「宣伝するのに考え込ませてどうする?敷居が高くなって失敗だ」とコメントをもらった。


    自由への教養

     以前「何故学ぶのか」という問いに、「自由になるため」と答えた。




     この応答は、イソクラテス以来のあの定義、「教養とは、運命として与えられた生まれ育ちから自分を解放するもの」を念頭においたものである。
     生まれと育ちは人を強く拘束している。その価値観や思考パターンや行動のレパートリー、そして経済的リソースや社会的ネットワーク等、生まれと育ちによって左右されるものは多い。
     生まれ育った小さな社会で過ごし、同じような条件の人たちと接することが多い間は、このことは自覚されにくい。しかし、そうした社会から外に出て、異なる生まれ育ちの人たちと交流するうちに、否応なく気付くことになる。
     だから教養はまず、生まれ育った社会から外に出ること、外の人と交わることに関わる。
    見知らぬ人たちの間で/見知らぬ人たちとともに生きる技術、彼らとやり取りし、信頼を得て、協働する技術が必要である。
     見知らぬ人たちの中には、目前の者ばかりでなく、属する地域も社会も、時代すらも隔たった者も含まれる。
     したがって、口頭で伝え合うばかりか、書かれた言葉を探し見つけ読み書きすること、時には自分宛に書かれたものでない言葉を取り扱い、そこに残された何かを汲み取ることなどもまた、必要になる。
     人間と言葉に関する知、すなわち人文の知は、ここに存在理由を見出す。
     この知は、教養の全てではないが、その欠くべからざる一角をなすものである。


    厳密知と実践知の簡単な歴史

    厳密知と実践知2
    (クリックで拡大)



     簡単に歴史の話をしよう。
     紀元前7世紀あたりから現在までの長きに渡るので、いくつかのトピックを選んで触れるしかできないが、大まかにいって二つの流れとその間の対立の話である。
     イソクラテスにならって、二つの流れを〈厳密知の流れ〉と〈実践知の流れ〉と呼んでおこう。
     上の図にあるように、左側の点線が〈厳密知の流れ〉にあたる。こちらは哲学史的によりメジャーな思想家が並び、末裔としてクリティカルシンキングなんぞが位置している。
     右側の、よりマイナー(失礼)な思想家が並ぶのが〈実践知の流れ〉である。判官びいきではないが、この記事ではむしろ、こちら側に関心がある。
     

    プラトン対イソクラテス

     紹介が遅れたが、イソクラテスは、プラトンとほぼ同時代の人で、プラトンの学園「アカデメイア」に先んじること10年、同じアテナイに自身の学校を開いている。
     元々、法廷弁論の代筆家だったイソクラテスは、その技術をゴルギアスに学んだとも言われ、同時にこれもプラトン同様、ソクラテスのところにも出入りしていたらしい。
     イソクラテスの学校は、これもプラトンの「アカデメイア」同様、その教育理念の中心にピロソピアーΦιλοσοφίαを据えていた。ラテン語philosophia、英語 philosophyの語源に当たる語で、日本語では「哲学」という訳語が当てられる、あの言葉である。
     しかしイソクラテスの学校は、プラトンの「アカデメイア」と比べて、カリキュラムの面でも、教育の方針についても、そして身につけるべきであるとする知のあり方についても、大きな違いがあった。
     両者が等しくピロソピアーを看板に掲げるのなら、ふたつの学校の(そしてイソクラテスとプラトンという二人の)間にある違いは、まさしくこのピロソピアーの内容の違いに存するだろう。
     そしてピロソピアーがその語源(φίλος愛+ σοφία知)のとおり「知への愛、知の希求」だとすれば、プラトンとイソクラテス、それぞれのピロソピアーの違いは、彼らが希求する、あるいは希求すべきであるとする知の違いに存するはずである。
     彼らほど、ピロソピアーについて多くを述べた者はかつてなかった。彼ら二人こそ、師ソクラテスを受け継ぎ、ピロソピアーを人生と知のあり方に結びつけ、その後現代までつづく西洋精神史の中心的主題としたのである。

     結果を先に述べれば、ピロソピアーという言葉についてプラトンが勝利しイソクラテスが敗北した世界線に、我々はいる。我々が知るphilosophyや哲学、そこから派生した諸科学もまた、概ねプラトンが引いた路線を継承するものである。対してイソクラテスの系譜につながる者たち、たとえばソフィストやキケロやルネサンスの人文主義者たち、そしてヴィーコは、哲学史において、悪役や敗者かせいぜいが傍流の位置を与えられる。
     では、イソクラテスとその系譜が、まったく知の世界に何も残していないのかといえば、そうではない。イソクラテスは、常に妥当する厳密な知に対し、別に知のあり方を指摘し、擁護する。というのも、普遍妥当的な知は常に/すべての場合に得られる訳ではなく、また得られるにしても好機(カイロス)に間に合わないことが少なくないからだ。

    ※日常の行動や発言についての判断は、普遍妥当的な知が得られないか、得られたとしても間に合わない好例である。

     厳密知が得られぬ場合でも、賢明な判断は可能であり、そうした判断が可能となるよう訓練することもまた不可能でない、という信念にイソクラテスは立つ。つまり賢くなることは可能であり、そのための訓練こそが〈教養を積む〉ことだと、イソクラテスはいうのである。つまり「かしこさは教えられる」という訳で、これを教育史上ひとつの画期として、イソクラテスの学校にならった弁論学校が各地に設立されることとなる。

    ※ ラテン語のorator fit,poeta nascitur(弁論家は作られ詩人は生まれる)というフレーズは、詩人となるのは生まれつきの才能が必要だが、弁論家になるには訓練があれば可能であるということを意味し、上述のイソクラテスの教育理念を背景にしている。

     不十分な情報と時間の中で最善ではないかもしれない選択肢を適時決断しなければならない実務家を支える知は、呼び名を変えながらも生き続けた。イソクラテスが言論の練磨を中心に据えた故に、その知は弁論術を長く依代としたが、弁論術が消え去った後も生き続けている。

     それではまず、プラトンとイソクラテス、それぞれのピロソピアーから、厳密知と実践知の歴史を振り返ってみよう。

     実を言うと、イソクラテスが奉じた方のピロソピアーが伝統的な用法に近く、これに対して、プラトンにとってのピロソピアーはより新しい用法に由来する。
     歴史順に従うなら、イソクラテス→プラトンの順で語るべきであるが、我々の関心は負け組イソクラテスの方にあるので、先にプラトンの方を済ませておくことにする。

     プラトンにとってのピロソピアーは、ピタゴラス(紀元前582年 - 紀元前496年)によって手をつけられたものである。
     一言で言うと、ピタゴラス−プラトンにとってのピロソピアーは〈観照者の知〉を目指すものである。
     ピタゴラスに由来するとされる〈祭典の比喩〉を見てみよう。この比喩によれば、人間には、祭典に集まる人々にみられるように3種類の者がいる。1.名誉を求めてやってくる競技者、2.利益をもとめてやってくる商人、3.それらを観察するためにやってくる者。最後のものこそピタゴラス自身がそうであるところの、ピロソポス(ピロソピアーする者)である。ここでいうピロソポス(そしてピロソピアー)は、実際的活動から距離を置くものであり、また雑多であり変化の多い諸現象から一旦距離を置くことで、その底にある永遠の真理を掴み取ろうとするものである。
     これを引き継いだプラトンは、自身の学園の入門者達に幾何学を学ぶことを要求した。対話篇『国家』に描いた理想のカリキュラムでは、30歳にいたるまでの長い時間を数学(算術、平面幾何、天文学、音楽)に費やした後でないと、真に学ぶべき哲学的問答術には進めないとした。数学のトレーニングの中で、鍛えられ培われるだろう力、すなわち「空論にちかいまでに詳細な議論と、現実遊離といわれるくらいの高遠な思索」を行いまたそれに耐える力なしには、プラトンが希求すべきであるとする普遍妥当な知は獲得できないと、考えられたからである。
     そして我々が知る哲学(フィロゾフィ)が、そしてそれから派生するだろうさまざまな学問・科学が、概ねこのピタゴラス−プラトンの系譜の延長線上にあることは、容易に見て取れるだろう。デカルトの懐疑も、普遍妥当な知を獲得するための前提・基盤を確保するためのものだし、その基盤の上に展開した諸科学もまた普遍法則を志向する。

     先程、イソクラテスにとってのピロソピアーが伝統的な用法に近い、と言った。
     動詞ピロスペインの言葉の文献上の初出とされるのは、ヘロドトス『歴史』(1巻30節)で、ギリシアの賢者ソロン(前7世紀後半~前6世紀前半)について述べる下りである。そこで、ソロンは、多くの国々を“知を愛し求めつつ”旅行し視察し遍歴したといわれる。ソロンは、貴族間の争いと貴族と民衆の争いとで危機に直面したアテナイの改革に尽く、その結果アテナイの民主政の基礎を築いた政治家だった。
     あるいはアテナイ民主政の完成者であり、デロス同盟をアテナイ中心のものに組み換え、アテナイの覇権を実現した政治家ペリクレスもまた、歴史家トゥキュディデスが伝えるところによれば、ピロソペインすることを怠らなかった人物である。
     イソクラテスは、こうしたソロンやペリクレスといった実務家をピロソポス(ピロソピアーする者)の範例とした。実践的な有能さを身につけるために必要な実践知の習得が、イソクラテスの学校が目指す目的であるとしたのである。
     イソクラテスはこの目的のために、言論の錬磨を中心とするカリキュラムを編成した。なんとなれば、人は言葉の使用によって他の動物から区別される(言葉を使うことによって、動物から人へとなり得た)という人間観を前提に、言論を錬磨することが教養を積むこと=ピロソペインすることであり、「よりよき人間」となることだと考えたからである。

     イソクラテスは、「教養ある人」とはどのような者であるかと自ら問い、概ね次のような解答を与える。すなわち「教養ある人」とは、よき思慮・賢慮(プロネーシス)を持った者であり、それ故に彼はすべての実際的行動・実践を立派に行うことができるはずである、と。このよき思慮(プロネーシス)こそが、イソクラテスが希求すべきとする知に他ならない。
     イソクラテスの学校で行われる言論の錬磨は、この実践的知である賢慮(プロネーシス)の獲得を目的になされるのであって、単に「立派に語ること」を身につけるために行われるのではない。逆に、「立派に語ること」はその教育・訓練の派生的な結果のひとつに過ぎず、「立派に行うこと」ができる、つまり賢慮(プロネーシス)を身につけていることを示す〈しるし〉に過ぎない。
     では賢慮(プロネーシス)とはどのようなものであり、それはいかにして習得されるのか。つぎのようなイソクラテスのことばは、我々が問題にしてきたふたつの知のあり方を比較し、自らが求める知がいかなるものかを示している。

    「有益な事柄についてあり得る仕方でドクサを持つ(=健全な判断をする)ことは、益もない事柄についてエピステーメーを持つ(厳密な仕方で知識を持つ)ことよりもはるかに有力である」(「ヘレネ頌」)

    「それを手に入れれば何を為すべきか、あるいは何を言うべきかを〔確実に〕知る事のできるエピステーメー(厳密な知識)を得ることは人間の本性のうちにはないことであり、私は、ドクサ(健全な判断)によって多くの場合最善なものに到達することのできる人を知者と考え、その種のものを研究し、そこから最もすばやくその種の思慮(プロネーシス)を得る人をピロソポスとみるのである」(「アンティドシス」)



     ここでイソクラテスは、大抵の場合に妥当する知と、あらゆる場合に妥当する知(不変妥当な知・必然的真理)を比較している。プラトンらが求める知が後者、すなわちエピステーメー(厳密な知識)であることは言を待たない。エピステーメー(厳密な知識)を手に入れることは、必ずしも不可能ではない。たとえばプラトンが初学者に学ばせようとする幾何学がそうである。しかし、すべてに渡って、幾何学ほどに厳密な知を手に入れることが可能だろうか。とくに言説や行動といった実践的な場面について、「それを手に入れれば何を為すべきか、あるいは何を言うべきかを〔確実に〕知る事のできる」ような知を手に入れることが可能だろうか。
     さらに加えて次のことを指摘しなければならない。あらゆる場合に普遍妥当な真理は、本来的にTPOを、「時と場合」を欠いている。「好機(カイロス)は知識(エピステーメー)の目に止まらない」。しかし「時と場合」に応じて処することこそ、「立派に語ること」「立派に行うこと」、実践的知性に求められるべきことではないか。
     イソクラテスは、エピステーメー(厳密な知識)についての健全な断念の上に、すばやい実践的知性の座を据える。観照者としてのピロソポスがエピステーメー(厳密な知識)へ向かおうとするのに対し、実践知性を担うピロソポスは、たいていの場合に妥当するドクサ(健全な判断)の働きを養おうとする者として現れるだろう。物事の好機(カイロス)によく注意を払い、大抵の場合にそこから結果するものを見定めようと努めるものは、もっともよく好機(カイロス)を把握する。この、よく好機(カイロス)を把握する力が、言論の錬磨のうちに育てられるであろうドクサ(健全な判断)であり、そして人間生活や人間の活動についての知である思慮(プロネーシス)は、このドクサの作用に他ならない。
     ここには、後に人間的教養・人文的知と呼ばれることになるだろう知のあり方がある。
     イソクラテスの学校を嚆矢として、弁論の技術を教える学校は、以後、各地に作られていく。ローマにも、共和政末期にギリシア文化の一部として弁論術が移入され、帝政期に入っても上層階級の青年に必須の教養とみなされために、この種の学校は隆盛をきわめた。
     古代から中世にかけて教育書として最も知られた『弁論家の教育』を書いたクインティリアヌスの学校は、その中でも最も有名なものの一つだった。
     ローマ人の教養は、キリスト教世界でも自由七科(言語に関する三科 trivium,すなわち文法 grammatica,修辞学 rhetorica,論理学 logica(弁証法dialectica と呼ばれることもある)と数に関連した四科 quadrivium,すなわち算術 arithmetica,幾何 geometrica,音楽 musica(もしくは harmonia),天文学 astronomia )として、ヨーロッパ中世にも引き継がれる。


    プラトン対アリストテレス

     プラトンは、常に妥当する普遍的なもの、真理そのもの(善そのもの)への接近を学の課題として定め、それに満たぬものを切り捨てた。
     アリストテレスは、これに対し、現実的かつ個別的な事象をも学の対象し、〈真実らしいもの〉についてもすくい取る。論理においては、常に妥当する三段論法の他に、蓋然性に基づく説得推論を取り上げ、実践的三段論法であるエンチュメーマや論旨の発見術としてのトピカについても研究した。こうして「弱い意見を強く見せる」ソフィストの術を、弁論術という研究に値する術として救い出した。アリストテレスの『トピカ』『弁論術』は、キケロの『弁論家について』、クインティリアヌス『弁論家の教育』ともに、長く弁論術の基本文献として読まれた。

    ※真実らしきもの
    英語の「尤もらしい (plausible)」「確からしい (probable)」に当たる言葉として古代ギリシア人は エイコス(είκος) という言葉を当てた。 この言葉は、είκα(〜のようである) の現在分詞で、 ラテン語では verisimilitudo (本当のように思われること)、ドイツ語で Wahrscheinlichkeit(蓋然性) にあたる。 真理は認めるか拒否するかの二つに一つしか無いが、真実らしきものには確信の度合いがあり、アリストテレスはこれをένδοξος(通説)と呼んでいる。



    クインティリアヌスの弁論術の5部門

     古代弁論術の集大成というべきクインティリアヌス『弁論家の教育』では、キケロ『発見・構想論 de inventione』を引き継ぎ、次の5つの部門からなる、とされる。

    1.Inventio(発見・発想) 主題をめぐる問題点を見つけだし、論証の材料や方向を見つける技術。
    2.Dispositio(配置・構成) 発想によって見いだされた内容を、適切な順序に配列する技術。
    3.Elocutio(措辞・修辞) 前の2段階で整理された思想内容に、効果的な言語表現を与える技術。
    4.Memoria(記憶) 口頭弁論のために、仕上げられた文章を記憶しておく技術(記憶術)。
    5.Actio(演示・発表) 実際に公衆の前で発表するための、発声、表情、身ぶりなどの技術。



     この5部門は、実際に弁論の着想から現場で演じるまでの順序であり、5つのステップでもあるが、同時に実践的な思考と言語の技法を総合したものでもある。
     たとえば、問題解決を中心に一般の人が知っておくべき認知科学の成果をまとめたブランスフォードのThe Ideal Problem Solverは、クインティリアヌスの5部門をほぼカバーしてる。

    5カノンの対応

     中世を通じて、この5部門は維持されたが、次第に解体することは避けられなかった。
    ギリシア−ローマの共和制の衰退とともに口頭弁論の場が消え、文書によるやり取りが重視され、後には印刷術の出現などもあり、人々の期待と関心は話し言葉から書き言葉へ時代を経るごとにますます移行していった。これにつれて、口頭弁論を前提とした第4・第5部門は次第に省略されるようになった。
     16世紀の P. ラムスのように、レトリックのなかから真理と説得にかかわる部門(とくに第1・第2部門)を切り離してそれを弁証術(論理学)の領域へ移すことを主張する哲学者が現れ、主題を見出し構成する部門もまた、弁証術(のちの論理学)へ譲られる場合が多くなった。
     こうして弁論術(レトリーケー)は、近代の多くのレトリックの体系は第3部門(狭義の修辞)のみに縮約されることとなった。現代において、レトリックがしばしば〈効果的な文章の技巧〉という狭い意味に理解されがちなのは、この近世に多くなった第3部門中心のレトリック観によるものである。
     一方、古代から続く弁論術では、弁論術の第一部門Inventio(発見・発想)こそ、最も重視すべきものだった。

    ※ バッハのインヴェンションは、もちろん弁論術のinventioを引いている。この曲を練習することが、良きinventio(楽想)を得ることを通じて、演奏のみならず作曲の基礎をも学ぶことになるように、バッハは企図している。



    フマニタス研究(studia humanitatis)

     人文学の源流は、14 世紀後半から、古典に関心を有するイタリア人が盛んに用い始めた言葉「フマニタス研究」(studia humanitatis)にある。
     「人間たることの研究」を意味するこの言葉は、例えば当時のフィレンツェ共和国の書記局官長だったコルッチョ・サルターティ(1331-1406)やレオナルド・ブルーニ(1370?-1444)の書簡や著述に繰り返し現れる。
     この言葉が指すものは、トンマーゾ・パレントゥチェッリがフィレンツェのサン・マルコ修道院所蔵の書籍分類の際に用いた基準に見られる。それによれば、文法、レトリック、歴史学、詩学、道徳哲学を指し、概ね現在の人文学が包含する範囲と一致している。なお、パレントゥチェッリはのちに第208代ローマ教皇ニコラウス5世となり、バチカン図書館をつくるなどした。
     フマニタス研究の担い手達を、フマニストやウマニストと呼んだ。
     彼らはギリシャ・ローマの古典を、フマニオーラhumaniora(人間的humanusというラテン語の比較級humaniorを名詞化したもので「もっと人間らしくするもの」を意味する)と呼び、これに通暁していたが、必ずしも古典学教授や大学関係者ではなかった。サルターティやブルーニがそうだったように、官吏や秘書官でもある場合も多く、概して実務に強い教養人という性格を有していた。
     また聖職者のなかにもフマニストやウマニストは大勢いた。ボッカッチョが『デカメロン』で描写するペストの大流行は、1347年コンスタンティノープルに始まり、地中海貿易路をそのままたどって48年にはイタリア、フランスに上陸、ヨーロッパだけでも3500万人の命を奪ったが、広範な労働力不足が生じる中、教会もまた著しい聖職者不足にみまわれ、多くのウマニストが聖職者になった。読み書きができ、弁論術などの言葉の技術を持つ人材は、不足を埋めるのにうってつけだった。こうして教会内のウマニストの比率が増加したことが、ニコラウス5世(パレントゥチェッリ)のような人文主義的教皇を生む背景ともなった。

    ※ パレントゥチェッリが交流を持ったウマニストのひとり、アエネアス・シルウィウス・ピッコローミニは、詩人、歴史家としても高名であったが、フリードリヒ3世(のちの神聖ローマ帝国皇帝)によって桂冠詩人(poeta laureatus)とされた後、側近となり、その教養と人脈を活かして、様々な手をうち皇帝権威を強化した。まずフリードリヒ3世の即位に際してローマで教皇からの直接戴冠をアレンジし、更にポルトガルの王女を皇帝の妃として迎えることにも成功、この戴冠式と結婚式を同時に行われた。また、もともと古代ローマ皇帝の紋章だった「双頭の鷲」を復活させ帝国の各都市で用いるようにし、「ドイツ人の神聖ローマ帝国」という国号を公文書には必ず用いる等、イメージ戦略を駆使して帝国宰相にまでなった。バーゼル公会議に皇帝の名代として教皇派と公会議首位派の対立を収束させた後、聖職者となり、わずか3年で第210代ローマ教皇ピウス2世となった。



    デカルト 対 ヴィーコ

     古代におけるプラトン v.s. イソクラテスの対立に比するものは、近代においてはデカルトとヴィーコの間で展開される。
     しかし、この見立ては少々身びいきで、ヴィーコの側からこの対立を見ている。
     ヴィーコはデカルトの数学的合理論の強力さを認めながらも、そこから漏れ落ちるものの重要さを指摘することで、デカルトの批判者として登場する。その主張は合理性が席巻した同時代には省みられることなく、19世紀になって後、再発見されることとなる。
     懐疑を通じて到達する明晰判明というデカルト的原理では、蓋然的知識は峻拒される(プラトンが真理そのもの(善そのもの)への接近を学の課題として定め、それに満たぬものを切り捨てたように)。しかし、人が生きる現世は、そして、それが積み重なってできる人間の歴史は、蓋然的にしか知ることができないのではないか(デカルト自身、日常生活では懐疑を止め、常識にしたがって生きるよう勧めたように)。
     こうしてヴィーコは、デカルトによって切り捨てられた蓋然性の知の回復を主唱する。それは人間の言語、文学、習慣、宗教、法律など文化的活動全般を扱うものであり、人間の所産でない自然に関する科学に対して、〈人が作ったもの〉についての知を、のちの歴史哲学につながる考察を展開する。
     と同時に、ヴィーコは不確実な人生の現実に効果のあるものとして弁論術の復権をも企図し、キケロからルネサンス期の人文主義者たちまで共通するInventio(発見・発想)を重視する立場に与して、人間知性の第一作用としてingeniumの重要性を主張する。engineの語源でもあるこの言葉は、機知とも才知とも訳されるが、これをヴィーコは「適当な媒介mediumを見つけだすことによって相互に離れたところにある異なった諸事物を一つに結合する能力」と定義する。
     さらにヴィーコは、真理とあるべき理想を求める哲学者(philosopher)に対して、蓋然的知識と現実の知を求める言語文献学者(philologier)を対峙させる。
     哲学(φίλος愛+ σοφία知)をプラトン以来の厳密知に譲るかわりに、フィロロギア(φίλος愛+ λόγος言葉)を実践知のために召喚するのである。



    ドイツ・フォロロギーと人文知の厳密知化

     プラトンやイソクラテス、アリストテレスにもすでにフィロロギアという語は見えるが、〈文献の研究〉という意味で特にこの語を使ったのはキケロである。
     古典として特別視されるテキストを正確に解釈する学問としての文献学はアレクサンドリア期のホメロス研究からであろう。〈文献学者〉すなわちフィロロゴスとして自己規定した最古の学者のひとりはアレクサンドリアのエラトステネスであるといわれる。彼は全的教養(パイデイア)としてフィロロギアを規定した(イソクラテスが弁論術を教養と結びつけたように)。
    前3世紀にさかのぼるアレクサンドリアのホメロス研究は本文校訂法を生み文法研究を育てたが、ディオニュシオス・ハリカルナッセウスに依って技法研究が加えられローマ時代の注釈術に継承されてゆく。
     しかし科学的な本文批判が起こるのは15世紀のイタリアからで、コンスタンティノープルからベッサリオンやラスカリス、ガザ等がイタリアに到来したのが契機となり,多くの人文学者が生まれた。そしてオランダのエラスムス、フランスのビュデ、H. エティエンヌ、カソボン、スカリゲル、ドイツのJ. グルーター等の努力でギリシア・ラテン研究の基礎が据えられた。

    ※人文主義者にとっては文献学は強力な武器でもあった。例えば、1439年、人文学者ロレンツォ・ヴァッラは、古典語と文献学的知識を用いて「コンスタンティヌスの寄進状」が偽書であることを示しめしている。この寄進状は、ローマ皇帝コンスタンティヌスが、教皇に自分と等しい権力を与え全西方世界を委ね、自分はコンスタンティノープルに隠退する、としたもので、8世紀当時ローマ教会が東ローマ帝国からの独立性を主張するために偽造されたもの。ヴァッラは若年でキケロ、クインティリアヌス論を書いて古典学の才を現した典型的な人文学者で、他にもヴルガータ聖書の誤訳を指摘するなど、のちのエラスムスらにも影響を与えた。


     こうした古典研究が18世紀から19世紀のドイツで〈古代学 Althumswissenschaft〉として フリードリヒ・アウグスト・ヴォルフとアウグスト・ベックの二人によって大成される。

     彼らのフィロロギーは、文書の本文(テクスト)の伝承過程を検討し個別箇所における真正な読みを多様な異読のなかから確定する本文校訂学ではなく、エラトステネスや人文主義者ビュデが規定したような全的教養の学、文書に残って伝承されていることばの総体を理解しようとする諸学の総合学であった。
     ヴォルフはフィロロギーを「古代に於いて示されたものとしての人間本性についての学」と規定し、これを引き継いだベックはフィロロギーを「認識されたものの認識」と定義した。ここには、人間が作り出したものこそ認識の対象であるというヴィーコの主張が反響している。
    実は彼らは、もう一つの(更に大きな)知的革命の誕生と展開に関わっている。ゼミナール方式とそれに基づく新しいタイプの大学(研究大学)である。
     ヴォルフが学んだゲッティンゲン大学は、新人文主義の発祥地ともなったが、この大学で開かれたゲスナーの指導による文献学のゼミナールこそ、ここで学んだヴィルヘルム・フォン・フンボルトを通じて、新しい大学(研究大学)の核となるゼミナール方式の範例となった。



     ラテン語の seminarium(〈苗床〉の意)を語源とするゼミナールは、今日の大学でもみることができる、教師の指導のもとに少数の学生がみずからの発表や討論により学習を進める形の教育方法をいう。
     ゼミナールでは、講義形式と異なり、完成した理論を受け取る受動的役割に自らを置くことはできない。参加者は自らの研究を発表する報告者か、その報告を厳しく吟味し論理の飛躍や証拠の不備を指摘する批判者か、いずれかの役割を演示なければならない。どちらにせよ、参加者は自らが研究者であるかのように振る舞わなければならない。こうしてゼミナールを通じた教育は、そのまま研究者の育成に通じていく。
     研究と教育の一体化を軸とする研究大学は、研究者を生み出す力に長じていた。それ以前の、中世の大学が生産性を失い、サロンやアカデミーが知的世界を牽引した時代には、学者はほぼ独学でなるものであり、それぞれの個性は彼一代限りのものにならざるを得なかった。これに対して、研究大学では、ある学説やアプローチを採用する研究者がゼミナールの指導者になれば、その学説・アプローチを採用する一群の研究者を、自分の周囲に速やかに生み出すことができた。そして一群の研究者を作り出せば、同じ学説やアプローチを採用する研究成果を矢継ぎ早に世に出すことができた。
     研究者の〈生産効率〉を高めることは、当然ながら研究自体の〈生産効率〉を高めることになる。ドイツの新しい大学システムが、サロンやアカデミーといった先行者を凌駕して、知的世界で席巻したのは必然であった。

     研究者の〈生産効率〉の高まりは、新しい学説やアプローチが速やかに学派を形成できることにつながり、専門分化の速度も高めることとなった。
     ゼミナールでの徹底吟味もまた、当然ながら学問研究の厳密化につながったが、これもまた、より分野を限定した緻密な研究を促進し、総合的・領域横断的な研究には逆風となった。
     フィロロギーのゼミナールに学んだ者たちは、まずはフィロロギーが含んでいた分野や隣接分野で、新たなゼミナールを開いていく。
     例えばランケは、自身大学で古典文献学を学び、ギムナジウムの教師を経て、ベルリン大学に赴任した後、歴史研究と歴史学者の育成に努めることとなる。
     あるいはヤコービは、他ならぬベックのフィロロギーのゼミナール(将来文献学者になる者以外は受け入れないはずの)に学んだ後、数学者として自身のゼミナールを開くことになる。彼は数学についてはガウス同様独学だったが、教育と研究を一体化させる方法についてゼミナールを通じて学んでいた。
     ヴォルフとベックのフィロロギーは、総合的教養を志向する、イソクラテスの系譜をつながるものだったが、ゼミナールと研究大学という知的革命の中で、厳密知化と専門分化する大学の学問としては、継承されずに終わった。
     弁論術の全的教養の側面が忘れ去られたのと同様、フィロロギーの総合性もまた知る人の少ないものになってしまった。
     弁論術(レトリーケー)が、それを構成する部門の多くを手放し、結果、〈効果的な文章の技巧〉に成り果てたように、フィロロギーもまた、主として古文献を資料としたため古文書学・校訂法に重点が置かれたことと、一方で歴史学や言語学が独立していったことで、言語学の古名か、書誌学の別名にまで、縮減してしまった。


    informed laymanのためのPhilologie

     以上、弁論術とフィロロギーの歴史を概観した。
     人文の知は、イソクラテス〜ヴィーコで実践知と結びついていたが、ドイツの研究大学では厳密知の苗床となり、専門分化を加速させることで、自身の解体につながった。
    人文の知を厳密知≒学問研究として展開することは可能であるが、おそらくそれは人文の知が持っていた全的教養(パイデイア)としての性質を断念し、それぞれの分野で専門研究として進めるという条件でのみ成立する。
     では、厳密知としてでなければどうか。
     もう少し踏み込んで言えば、ドイツ・フィロロギーが人文知の厳密知化であったとするなら、厳密知の人文知化ないし実践知化の道はあり得ないのか。
     例えば、およそ誰かが認識(研究)したものならすべて守備範囲、というフィロロギーという学問は、それぞれの領域で最先端を目指す(ために専門分化が必須となる)研究大学では生き残れなかったが、実践知としてなら生きる目があるように思える。

     我々はみな、自身の専門の外では〈素人layman〉であるが、我々が直面し対処しなければならない問題は、我々自身の専門分野に限るものではない。 自ら選んだ問題についてなら、長い時間をかけて〈専門家〉の域に達することもできよう。だが、問題と呼ぶべきものは、不意打ちするものである。向こうからやって来るほとんど問題に対して、誰もが〈素人〉として向かい合うしかない。
     これはイソクラテスが想定する、厳密知が間に合わぬ状況でもある。
     我々が不意打ちを食らい、〈素人〉として準備できていない分野の問題に対処するにしても、駄目なやり方もあれば、賢明なやり方もある。
     イソクラテスの教養を、我々なりに読みかえるなら、準備できていない分野の問題に〈素人〉として対処するのは仕方がないとしても、せめて賢明なやり方で対処できるようにしておくこと、言い換えれば〈賢明な素人 informed layman〉になっておくこと。
     informed laymanというフレーズは、シュッツのいうThe Well-Informed Citizen(見識ある市民)の下敷きにしている。
     中身は作り直さなければならないだろうけれど、〈およそ誰かが認識(研究)したものならすべて守備範囲〉というフィロロギーという知は、実践知としての教養をつくるとすれば、〈賢明な素人 informed layman〉となるためには、ぜひとも召喚したい知の営みであるように思える。


    ◯(おまけ)今回書いた本のこと

     さて、実はこの半年間、本を書いていた。
     これは、この記事で振り返ったもうひとつ、思考と言語の総合技術としての弁論術に関係がある。
     フィロロギーは既に誰かが考えて書き残していてくれるものを扱うことができるけれど、我々が直面する問題は、既存の解決策だけでは間に合うとは限らない。役立つ解決策が拾えて参考にできたとしても、我々は我々自身の新しい問題を、今ここで解かなくてはならないのだ。
     弁論家が直面する機会は、これと似ている。弁論家は、他の誰かが言ったことを引用してもいいが(多くの弁論家が自説の強化のためにそうした)、そっくりそのまま再演する訳にはいかない(それは朗読であって弁論ではなくなる)。弁論家は、つねに新しい弁論を必要とする。
    だからこそ、〈どのように語るか〉よりも、〈何を語るか〉のための術=Inventio(発見・発想)が、キケロからヴィーコまで最も重要とされたのである。
     〈賢明な素人 informed layman〉となることを考えたとき、弁論術の他のどの部門よりも、Inventio(発見・発想)が重要になる。
     これも今、再興するなら、かなり中身は作り直さなければならないだろう。
     我々はキケロやクインティリアヌスやヴィーコが知らなかった知見を持っており、彼らの後、どのような思考実践が積み重ねられてきたかについても、いくらか知っていることがある。そして、彼らとは違う状況で、我々自身の問題に直面しているからである。

     但し、簡単にだが歴史を振り返ったおかげで、次のことは明らかである。
     発想法は、普遍妥当な厳密な知の側ではなく、そうでない側に身を置くものである。
     レトリックの現代的展開に貢献した一人であるペレルマンは、正しさ(真理)を追求する論理に対して、好ましさを求める価値判断と説得の論理学として、レトリックを捉え直した。
     そして、発想法が生み出すアイデアというものは、正しいかどうかでは評価できないものである。評価のための正解や基準をあらかじめ用意できるのなら、そのアイデアは新しいとは言えず、アイデアでなくなる。そうした正解や基準を越えていく〈新しい考え〉を我々は、アイデアに、発想法に求めているのである。

    (宣伝まで行かなかったので、つづく)


    (追記)


    他に先行してアマゾンで予約可能になったみたいです。

    アイデア大全――創造力とブレイクスルーを生み出す42のツールアイデア大全――創造力とブレイクスルーを生み出す42のツール
    読書猿

    フォレスト出版
    売り上げランキング : 215

    Amazonで詳しく見る



     
    関連記事
    スポンサーサイト
    Secret

    TrackBackURL
    →http://readingmonkey.blog45.fc2.com/tb.php/778-02bcb165