書物について、人が行うことができるほとんどすべてを為した人の話をしよう。

     彼は、多くの本を書いた。
     共同執筆した。寄稿した。
     アンソロジーを、一冊ものの書物を、それから何巻もある叢書を、編集した。
     書物についての講義を持った。
     書評した。翻訳した。
     索引を作った。
     三つの雑誌を創刊し、編集した。
     さらに自分の手で活字を組み、印刷し、製本した。
     プライベートプレスをつくり、自分が書いたものばかりでなく、世に知られた名著の最も美しい版(エディション)を自分の出版社から出版した。
     もちろん書物を蒐集した。
     彼のコレクションの一部、爆撃や当局による没収などを免れた、いくつかの幸運な部分は、後にそれぞれが世界的に知られるコレクションとなった。
     彼はまた研究施設を備えた図書館を設立した。
     世界中の図書館を行き来し、たとえばジュリアン・ケインの下でビブリオテーク・ナショナル(フランス国立図書館)がまともな図書館に生まれ変わるところや、記念碑的建物の他はまったく貧弱な蔵書しかなかったアメリカ議会図書館が何代も続く勤勉な館長たちのもとで世界最大の図書館となっていくところに、同時代人として立ち会った。
     そればかりか、二つの世界大戦の後に、ヨーロッパの図書館が元の姿を取り戻すように、いや、以前のそれを越えて互いに結びつくように尽力さえした。

     ほとんどすべて、というのは、彼は一度も書物を燃やしたことがなく、また検閲したこともないからだ。
     それ以外の書物についてすることのできるすべてを、彼はやった。

     しかし今日、書物に関わる仕事をする人たちの間では、彼の名前は、短命なプライベート・プレスの主宰者でも、ヴォルテールの世界的コレクターでもなく、ある一そろいの書物の著者として記憶されている。


     様々な観点から書物を列挙し一定の体系に配列した書物を、我々は書誌(Bibliography)と呼ぶ。
     書誌は、書物と書物を、そして書物と人を結びつける書物である。
     彼が著したのは、その書誌と書誌を結びつける書物、書誌の書誌だった。
     
     
     大英博物館図書館は、19世紀に爆発的に増加した蔵書に対して、それらを一つにまとめた図書目録を長い間持たなかった。つまりは機能的な図書館ではなく、単なる書物倉庫に過ぎず、博覧強記の司書たちの助けなしには、膨大な書物の蓄積にアクセスすることは適わなかった。
     そんな伝説的な司書のひとりが長年の念願であった統一図書目録を完成させ、大英博物館図書館は、世界中の書物を蔵し、図書目録の完備した図書館となった。

     
     彼もまた大英博物館図書館で自らを育てた独学の徒だった。
      
     大学はおろか、小学校ですら2学期しか通わなかった。
     家庭に恵まれず、母親の心ない言葉に追い出されながら、りんご1個を昼食のために持って、毎日、大英博物館の円形閲覧室に通った。
     閲覧資格を得るためには、最初は歳を誤魔化さねばならなかったが、そうして手に入れた資格証を彼は生涯肌身離さず持っていた。そして、それを使い倒した。
     こうして、大図書館で独力で自分の力を積み重ねていった。
     
     彼はやがて世界中の図書館を駆けまわることになった(それは彼の仕事には不可欠だった)。
     ビブリオテーク・ナショナル(フランス国立図書館)やアメリカ議会図書館の成長を寿ぎ、ヴァチカン図書館に少なくない親愛と尊敬の念を抱いたけれど、それでも大英博物館図書館がベストであるという信念は揺らがなかった。
     
     
     若き独学者は、書誌をつくるためにアニー・ベサント(神智学協会第二代会長としてクリシュナムルティに英才教育を施した)に、オリバー・ロッジに、そしてジョージ・フレーザーに会い、やがて彼らに傾倒した。
     1924年の彼の処女出版は多産だったベサントの文献目録であり、彼が20歳のとき出版された。
     彼はロッジらの影響から、神智学の他にもパラノーマルな現象に関心を深め、ロッジが会長をつとめたことのある心霊研究協会Society for Psychical Researchの調査員となり、やがて機関紙の編集に加わり、協会図書館のライブラリアンにもなった。
     もっとも心霊研究協会は1884年にブラヴァツキー夫人と神智学協会のトリックを暴いたことでも有名であり、その後も霊媒のトリックを暴くことに熱心だった。1930年にはコナン・ドイルら心霊派は協会の活動が「科学的過ぎる」として反発し大量脱退したが、直接の引金は、Modern Psychic Mysteries, Millesimo Castle, Italy (1929)について、彼が行った批判的批評だった。

     彼の書誌への傾倒は1930年代に入ると一層高まった。
     ほとんど学歴というものと無縁だった彼は、1931年にロンドン・ユニバーシティ・カレッジの図書館学部講師となり、1935年には編者の一人として招かれたオックスフォード書誌学叢書からThe beginnings of systematic bibliographyを出版した。

     同じ頃、彼はオックスフォード大学出版局に、世界中の書誌をまとめた書誌の企画を出している。
     この企画はろくに検討されずに、否定された。
     主な理由は、彼がこの企画を一人で成し遂げようとしていることだった。
     当時の営業部長だったハンフリー・ミルフォードとR・W・チャップマンは、世界中の書物を間接的にまとめあげることになるこの大著には、それにふさわしい多くのマンパワーが必要だろうと考えたのだ。
     そしてそれだけの労力と費用を投じても、このまだ存在しない書物を必要な人たちがいるのかどうか、言い換えれば商業的にペイするのかどうか、彼らには判断がつかなかった。
     
     ひょっとするとミルフォードたちは、彼の力を低く見積もっていたのかもしれない。
     しかし大英博物館図書館で独力で自身をつくりあげたこの男は、全身が書物でできているような人間であり、そして図書館に何がなければならないかについて信じるところがあった。

     付け加えるなら、大英博物館図書館で独学した先輩バーナード・ショーを尊敬し、その出版方法についてもよく知っていた。
     こうして彼は〈ガイオン・ハウス・プレス〉という小さな印刷所兼出版社を立ち上げた。そこで図書館に不可欠だが、出版されない著作を自分の手でつくることにした。
     1940年にドイツの爆撃で破壊されるまでの短い間、マグナ・カルタのもっとも美しいリプリント版(オリジナルとともにアメリカ議会図書館で展示された)や106巻に及ぶ『ヴォルテール書簡集』とともに、書誌の書誌として桁外れに包括的な書物『World Bibliography of Bibliographies(書誌の世界書誌)』は、このプライベート・プレスから出版された。
     今日、この書物は彼の名にちなみ「ベスターマン」と呼ばれている。

     書誌の世界書誌の初版(1939-40年)後、第二版は1947-49年と時間が開いている。これは、第二次大戦後、ベスターマンがユネスコでは国際情報交換局の局長を務め、ヨーロッパの図書館が元の姿を取り戻すように、さらにそれを超えて互いに支えあうネットワークが育つように、国際的な再建プランを立案した。


     彼、セオドア・ベスターマンは、こうした自身の半生を振り返った講演に、ノスタルジックで世紀末的な感じがする言葉で題をつけている。
     
     -------- The Bookman(本の人)と。


     Theodore_Besterman_psychical_researcher.png

    Signature_de_Theodore_Besterman.jpg



    (参考記事)



     
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