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     今でも「最近の若い者は本を読まない」とのたまう人たちがいる。

    (そうでもないという話は、永江朗氏の
    出版不況要因説「バカになった若者の読書離れ」のウソ」、
    「読書世論調査データで検証する「読書離れ」のウソ[1] [2] [3]」を参照)。

     当人たちがどんな立派な本をお読みあそばしてるか、ぜひ教えていただきたい
    ところだが(中にはプロの著作家や教師などもいるのである)、実際は聞かない
    方がよかったと思うことが多い。本当にああいう「自称読書家」たちにも、もっと
    ちゃんとした本を読んでいただきたいものである(書く方は無理だとしても)。

     さてQ.D.リーヴィス(Fiction and the Reading Public,1932)は、次の
    ようなことを言っている。時代を経るにしたがい、文学を読む力はどんどん低
    下してきた。我々はますます文学を読めなくなってきた。そして、それに対応
    して、文学作品も変化していった。ぶっちゃけていえば、読者のアタマはどん
    どん弱くなっていった(文学もそれにあわせてダメになった)、というのが近
    代文学の歴史だ、というのである。

     もちろん、これだけのことなら誰だって言える。「最近の小説はつまらな
    い」だのいう人はいくらでもいる。けれどもリーヴィスにとって重要なのは
    「つまらない小説」の隆盛でなく、そんなものを隆盛させた「読み手」の方で
    ある。更に言えば、18世紀末以来、「小説」なるものを成功させてきたも
    の、つまりReading Public(読者大衆)という「読み手」の存在と彼らの態度
    が、リーヴィスのまな板に乗るものである。

     かつて(清教徒革命~18世紀)家庭で読まれていたのは、聖書であり、バ
    ニアンであり、ミルトンだった。18世紀は、感傷より理性を、扇情的なもの
    より、抑制の利いた表現を好んだ。
     「通俗小説」に必要なテーマや様式のほとんどは、批評家が次々登場する作
    品のすべてを読まなくなった(多すぎて読めなくなった)18世紀末に出そろ
    う。もう一つの重要な契機は産業革命だった。従来の「読書」は田園で生活す
    る一家にこそふさわしく、新しく台頭してきた都市生活者の時間の過ごし方と
    しては不向きだった。家庭での読書は一変し、有力だった読書の形態、家族で
    の朗読は消え失せた。この変化が、最も古い文学、そしてずっと後になっても
    広く読まれていた文学である詩を死滅させた。
     読書クラブと連載小説が始まり、人々は日々の目新しいニュースやスキャン
    ダルを求めるごとく、小説(ノベル)を読み漁る。ミルトンやスターンを理解
    し得る、あるいは理解するまで我慢できる、忍耐強い読者は過去のものとなっ
    た。
     ディケンズはまだ読者の人気を博することができた(彼は自分の雑誌に連載
    した)。1850年ごろ、あの辞書制作者サミュエル・ジョンソンは、篤志者
    による保護を得ようとして果たせず、結局ペンで生計を立てなければならなく
    なった。そして彼はその後に続く何人もの「作家」たち同様、商業的成功をお
    さめ、そうできてはじめて生き残れた。しかしそんな時代はほんのわずか続い
    ただけだった。「作家の書きたい作品」(あるいは「質の高い作品」)と「成
    功する作品」(ベストセラー)は、19世紀末には分離し始めていた。ディケ
    ンズやジョンソンやジョージ・エリオットにできたことが、コンラッドやジェ
    イムズにはますます困難になった。
     批評はますます「読書生活」から分離し、手厳しい「批評」はそれだけで
    「平均的読者」への不実(うらぎり)のように感じられるようになった。「読
    みにくい小説」の「文学的」価値を認める批評を見て、「平均的読者」は嘲笑
    されているように感じた。「平均的読者」は小説をかつての詩作品のように読
    むようには鍛えられておらず、「稚拙な文学」にも不快感を覚えないほど堕落
    させられていった。彼らのためにたくさんの「代用文学」が量産され、また
    「成功する作品」の手本になった。「平均的読者」が本を閉じるのは、不快感
    よりむしろ退屈によってであり、紋切型の思考や感情が喜ばれ、逆に人々の精
    神的習慣を問題にする「すぐれた小説」は読者の偏見に逆らうが故に「訳がわ
    からない」ものになった……

     と、こんなのがリーヴィスが描いた「すっかりダメになった」1930年頃
    のイギリス読書界と、そこに至る「文学史」である(当時の読書家は、今いっ
    たい何歳になっているのか、と「最近の若い者」としては問うてみたい)。
     リーヴィスは、このような社会学的(あるいは文化人類学的)研究が、文学
    の芸術的価値の擁護につながると考えていたらしい。今ではちょっと信じがた
    い(今も生き残る「文学好き」のパターンではあるが)。



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