デカルトは「物覚え」が悪かった。しかもそれを気に病んでいた。

 そのことが彼をして、シェンケリウスの『記憶術』をひもとかせ、ルルスの術(異教徒を改宗させるための一種の論理的技術)に関心を寄せさせた。

 しかし彼が記憶術に下した「評価」は酷評を極め、結局のところそれらをペテンだと決めつけた(つまり、そこまでやってもデカルトの「物覚え」は改善されなかったらしい)。彼は、伝統的な記憶術にも、新方法であるルルスの術にも背を向けた。

 それからデカルトがもとめたのは「すべての知識に関してそれを覚えておこうとするとき、なんら記憶の必要がない」やり方だった。まったくのゼロに立ち戻りそこから始めること。つまりは過去と伝統から手を切ること。

 西洋の中世あたりには「哲学」は「問題」の形になっていた。あらかじめ「問題」が用意されていて、これらの「問題」を「決まった手続き」で考えることだけが、本当に考えること(哲学すること)だとされていた。
 デカルトはそんなことはやらなかった。そうすることが「哲学すること」だとしたら、そんな哲学を「つづける」ことなどデカルトはしなかった。デカルトがやったのは、「つづける」こととは反対に「はじめからはじめる」ことだった。
 彼は「問題についての思考」なんかでなく、自分がどうやって「本当に考えること」をはじめたか、どうやって「はじめる」に至ったかを述べ書いた。「どうやったか」が彼の哲学であり、それ故にデカルトの「はじまりの書」には「方法」の名が与えられるだろう。

 「方法」は、一般に「伝統」と対立する。デカルトの場合、それは不回避だった。
 
 ウィトゲンシュタインは、哲学のむずかしさを「何かを断念する困難さ」だと言っている。彼のことばでいえば、「哲学は、涙をこらえたり、怒りをこらえたりするのと同じくらい」むずかしい。

 デカルトは「難解」ではない。予備知識も必要でない。けれどそれは涙をこらえるとの同じくらいに「むずかしい」。なんとなれば、デカルトの懐疑は、「はじまり」にまで一旦立ち戻るために、うざったい伝統的哲学はおろか、我々が日頃親しみ慣れた物事についてまで、不断の断念を(それは同時に決断でもある)を要求するからだ。

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